コンスタンティノープル陥落
戦いオスマン帝国のメフメト2世がビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを攻略し、千年余り続いた東ローマ帝国が滅亡した。地中海東部の陸路貿易ルートがオスマン帝国の支配下に入ったことで、ヨーロッパ諸国は香辛料貿易のための新たな航路を海に求めるようになり、大航海時代の直接的な引き金の一つとなった。
オスマン帝国のメフメト2世がビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを攻略し、千年余り続いた東ローマ帝国が滅亡した。地中海東部の陸路貿易ルートがオスマン帝国の支配下に入ったことで、ヨーロッパ諸国は香辛料貿易のための新たな航路を海に求めるようになり、大航海時代の直接的な引き金の一つとなった。
半世紀近くにわたりポルトガルの海外探検事業を主宰したエンリケ航海王子が死去した。彼の代に蓄積された航海技術と西アフリカ沿岸の情報が、後続世代のディアス・ダ・ガマによる航路開拓の礎となった。
バルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸最南端を回航し、大西洋とインド洋がつながっていることを実証した。インドへの海路が現実的に可能であることが示され、ポルトガルの探検事業に大きな弾みをつけた。
イサベル1世とフェルナンド2世の「カトリック両王」がイベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝の都グラナダを陥落させ、約780年に及んだレコンキスタ(国土回復運動)を完了した。統一されたスペイン王権はこの直後、余勢を駆ってコロンブスの航海計画を支援することになる。
スペイン女王イサベル1世の支援を受けたコロンブスの艦隊が大西洋を横断し、カリブ海の島に到達した。コロンブス自身は生涯これをアジアの一部と信じていたが、ヨーロッパにとって未知だった大陸への到達は、以後数世紀にわたる植民地化と大西洋を挟んだ世界の一体化の起点となった。
教皇の仲介のもと、スペインとポルトガルが大西洋上に南北の分割線を引き、その東側をポルトガル、西側をスペインの勢力範囲と定めた条約。ヨーロッパ2か国が地球規模で「発見」した土地を一方的に分割するという、以後の植民地時代を象徴する取り決めとなった。
ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰回りでインド西岸のカリカットに到達し、ヨーロッパから海路でアジアに至る初の航海を成し遂げた。これによりポルトガルは陸路の中間商人を介さず直接香辛料貿易に参入できるようになり、アジア進出の橋頭堡を築いた。
インドへ向かうポルトガル艦隊を率いていたカブラルが、大西洋上で予定より大きく西へ流され南米大陸(現ブラジル)に漂着した。トルデシリャス条約の分割線内にあったこの地はポルトガル領と宣言され、以後の植民地化の起点となった。
アメリゴ・ヴェスプッチが南米大陸の探検を通じて、この地がアジアの一部ではなく未知の大陸であると指摘する書簡を発表した。この報告をもとに1507年、ドイツの地図製作者がこの大陸に彼の名にちなむ「アメリカ」の名を与えた。
マルティン・ルターが贖宥状(免罪符)販売を批判する九十五カ条の論題を発表した。当時普及し始めていた活版印刷によりこの文書はドイツ各地に急速に広まり、カトリック教会の一体性を揺るがす宗教改革運動の口火となった。
スペイン王カルロス1世が、フッガー家など大商人からの莫大な借入金で選帝侯を買収し、神聖ローマ皇帝カール5世として選出された。スペイン・ネーデルラント・ハプスブルク家領・神聖ローマ帝国を束ねる空前の広大な支配圏が成立した。
エルナン・コルテスがわずか600人余りの兵でメキシコに上陸し、アステカ帝国に敵対する周辺部族と同盟を結びながら首都テノチティトランへ進軍を開始した。皇帝モクテスマ2世は当初融和策を取ったが、これが結果的にスペイン軍の首都侵入を許すことになる。
フェルディナンド・マゼランが西回りでモルッカ諸島(香料諸島)に至ることを目指し、5隻・約270人の艦隊を率いてスペインを出航した。南米大陸南端の海峡を発見して太平洋に抜けるが、この航海は多大な犠牲を伴う過酷なものとなる。
皇帝カール5世が主宰する帝国議会にルターが召喚され、自説の撤回を求められたが拒否した。ルターは帝国追放刑(アハト刑)に処されたが、味方の諸侯にかくまわれて難を逃れ、この間に聖書のドイツ語訳に着手した。
コルテス率いるスペイン軍と現地同盟部族の連合軍が、天然痘の流行で大きく弱体化していたアステカの都テノチティトランを陥落させた。中米最大の帝国アステカはここに滅亡し、スペインは広大な植民地ヌエバ・エスパーニャを獲得した。
太平洋を横断しフィリピンに到達したマゼランは、現地の首長ラプ=ラプとの戦闘に巻き込まれ、マクタン島で落命した。指揮はフアン・セバスティアン・エルカーノが引き継ぎ、艦隊は西回りでの帰還航海を続けることになる。
エルカーノの指揮のもと、残存艦ビクトリア号がスペインに帰還し、人類史上初の世界周航を達成した。出航時270人いた乗組員のうち生還したのはわずか18人だったが、地球が一つにつながっていることが実地に証明された。
ルターの改革思想に触発された農民・貧民たちが、社会的不平等の是正を求めて各地で武装蜂起した。急進派のミュンツァーらが指導的役割を担ったが、ルター自身は反乱を厳しく非難し諸侯側に立ち、翌1525年にフランケンハウゼンの戦いで反乱軍は壊滅した。
元修道女カタリーナ・フォン・ボラと結婚したルターは、聖職者の独身制を否定する改革派の立場を自らの生き方で体現した。この結婚は宗教改革が単なる神学論争ではなく、聖職者のあり方そのものを変える社会運動であることを象徴する出来事となった。
オスマン帝国のスレイマン1世が神聖ローマ帝国の都ウィーンを包囲した。悪天候による兵站の悪化もあり結果的に撤退したが、キリスト教ヨーロッパにオスマン帝国の脅威を強く印象づけ、以後長くハプスブルク家の対外政策の最重要課題であり続けた。
スイス宗教改革を主導したツヴィングリが、カトリック諸邦との対立の末に勃発したカッペルの戦いに従軍牧師として参加し、戦死した。スイスの宗教改革はその後もエコランパディウス、後にはカルヴァンらに引き継がれていく。
内戦直後で混乱していたインカ帝国に侵攻したピサロは、会見の場に誘い出した皇帝アタワルパを奇襲して捕縛した。部屋いっぱいの黄金と銀という莫大な身代金を得たが、ピサロはその後もアタワルパの解放には応じなかった。
身代金を得たにもかかわらず、ピサロはスペイン側が捏造した反逆の罪状でアタワルパを処刑した。アンデス最大の帝国インカはここに事実上崩壊し、スペインは南米に広大な植民地ペルーを築くことになる。
ヘンリー8世が王妃との離婚を教皇に認められなかったことを契機に、首長法を発してローマ教皇庁から離脱し、自らを首長とするイングランド国教会を樹立した。実務を主導した首席大臣クロムウェルは修道院解散を進め、王室財政と王権を大きく強化した。
イグナティウス・デ・ロヨラが仲間とともにパリで修道会を結成する誓いを立て、後にイエズス会として教皇の承認を受けた。厳格な規律と高度な教育を武器に、対抗宗教改革におけるカトリックの海外布教と教育の中心的役割を担うことになる。
ジャン・カルヴァンが体系的教義書『キリスト教綱要』を刊行し、同年からスイスのジュネーヴで市政と一体化した教会改革に着手した。予定説を核とする彼の神学は、以後フランスのユグノーやオランダ・イングランドの改革派運動に広く影響を及ぼした。
英訳聖書を完成させたウィリアム・ティンダルが、異端として神聖ローマ帝国領内で捕らえられ火刑に処された。その翻訳は後の欽定訳聖書に大きな影響を与え、彼の死後も英語圏のプロテスタント信仰の礎であり続けた。
教皇パウルス3世が招集した公会議がトリエントで開幕し、カトリック教会の教義と規律を包括的に再定義する作業が始まった。宗教改革への対応として位置づけられ、以後18年にわたり断続的に開催されるカトリック改革(対抗宗教改革)の中核となった。
皇帝カール5世が、ルター派諸侯の軍事同盟シュマルカルデン同盟を戦場で撃破した。皇帝権力の軍事的絶頂を示す勝利だったが、政治的な宗教統一には至らず、8年後のアウクスブルクの和議による妥協を待つことになる。
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、戦国時代の日本にキリスト教を伝えた。ヨーロッパの大航海時代と日本の戦国時代という、遠く離れた二つの歴史の流れがこの瞬間に初めて直接交差した。
日本を離れたザビエルは中国大陸への布教を志したが、当時の明は外国人の入国を厳しく制限していた。広東沖の上川島で入国の機会をうかがっていたところ病に倒れ、大陸の土を踏むことなく46歳で没した。
神聖ローマ帝国内で、諸侯がカトリックかルター派かを選択しその領邦の住民に強制できるとする「領邦教会制」の原則(後の「その支配者の宗教がその地の宗教」)が定められた。カルヴァン派は対象外とされるなど不完全な妥協だったが、帝国内の宗教対立に一時的な休戦をもたらした。
統治の重責に疲れ果てたカール5世が、異例の生前退位を行った。スペイン・ネーデルラント・新大陸領は子のフェリペ2世に、オーストリアと神聖ローマ皇帝位は弟フェルディナント1世に譲られ、ハプスブルク家はスペイン系と墺系の二系統に分かれることになった。
ヘンリー8世の娘エリザベスがイングランド女王に即位した。プロテスタントとカトリックの間で穏健な国教会体制を確立して国内の宗教対立を鎮め、45年に及ぶ治世でイングランドを海洋国家として飛躍させる基礎を築いていく。
ジュネーヴでカルヴァンの薫陶を受けて帰国したジョン・ノックスが、スコットランド議会に改革派信仰告白を承認させた。長老制を柱とするスコットランド国教会(長老派教会)が樹立され、以後のスコットランド社会の宗教的基盤となった。
礼拝中のユグノー(プロテスタント)信徒がカトリック貴族の軍勢に虐殺された「ヴァシーの虐殺」を契機に、カトリックとユグノーの間で断続的な内戦「フランス宗教戦争」が始まった。以後30年以上にわたりフランス全土を巻き込む惨禍が続くことになる。
18年にわたり断続的に開催されたトリエント公会議が閉幕し、教義・秘跡・聖職者規律に関する包括的な決定がまとめられた。これによりカトリック教会は宗教改革以前とは異なる、規律の引き締まった近世的な教会組織へと再編されていった。
アルバ公による苛烈な弾圧統治への反発から、オラニエ公ウィレム1世を指導者とするネーデルラントの独立運動が本格的な武力闘争に発展した。以後80年におよぶ長期の独立戦争「八十年戦争」の始まりとなった。
教皇・スペイン・ヴェネツィアの神聖同盟艦隊が、ドン・フアン・デ・アウストリアの指揮のもとオスマン帝国艦隊を壊滅させた。ガレー船同士による最後の大規模海戦の一つとされ、ヨーロッパのオスマン帝国に対する恐怖を大きく和らげた。
ユグノー指導者コリニー暗殺未遂への報復を恐れた王母カトリーヌの主導で、パリに集結していたユグノーの大規模な虐殺が実行された。コリニー自身も真っ先に殺害され、虐殺は数日のうちに地方都市にも波及し、数千人から数万人が犠牲になったとされる。
ネーデルラント北部7州がスペインからの独立を目指して軍事・外交上の同盟を締結した。この同盟が事実上のオランダ共和国の母体となり、南部の(現ベルギー)諸州とは異なる道を歩むことが決定的になった。
ポルトガル王家の後継者断絶を受け、母方の血統からフェリペ2世がポルトガル王位を継承した。スペインとポルトガル両国の海外領土がフェリペ2世のもとに統合され、名実ともに「太陽の沈まぬ帝国」が現出することになった。
オランダ独立運動の指導者ウィレム1世が、フェリペ2世が懸けた懸賞金目当てのカトリック教徒によりデルフトの自邸で射殺された。独立運動の求心力を担った指導者の死は大きな打撃となったが、運動そのものは彼の子孫や後継指導者に引き継がれた。
イングランド王位継承をめぐる陰謀への関与を疑われたスコットランド女王メアリー・ステュアートが、従妹エリザベス1世の命により処刑された。カトリックの女王が処刑されたことはスペインを強く刺激し、翌年の無敵艦隊派遣を後押しする一因となった。
フェリペ2世がイングランド侵攻のため派遣した大艦隊「アルマダ」が、ドレイクらの指揮するイングランド艦隊の攻撃と暴風雨により壊滅的な損害を受け撤退した。この敗北はスペインの海上覇権に大きな打撃を与え、イングランドが海洋国家として台頭する転機となった。
ヴァロワ朝の断絶を受け、ユグノーの指導者だったアンリ・ド・ナヴァルがフランス王アンリ4世として即位し、ブルボン朝が始まった。カトリック勢力の強い抵抗が続いたため、1593年にカトリックへ改宗して国内融和への道を開くことになる。
アンリ4世がユグノーに信仰の自由と一定の政治的権利を認める勅令を発し、30年以上続いたフランス宗教戦争に終止符を打った。ヨーロッパで初めて国家が公式に宗教的少数派の権利を法的に保障した先駆的な事例とされる。
エリザベス1世の勅許によりイギリス東インド会社が設立され、アジア貿易の独占権が与えられた。国家に代わって貿易・統治・軍事行動までも担う特許会社という新しい組織形態は、後の大英帝国のアジア進出の先駆けとなった。
独立戦争のさなかにあったオランダで、複数の貿易会社を統合したオランダ東インド会社(VOC)が設立された。株式による資金調達や恒久的な組織形態を備えた世界初の近代的多国籍企業とされ、以後アジア貿易でポルトガル・スペインを凌駕する勢力を築いていく。
フランスに宗教的和平をもたらしたアンリ4世が、カトリック狂信者ラヴァイヤックにより馬車の中で刺殺された。幼い後継者ルイ13世の摂政政治が始まり、宗教的緊張は完全には解消されないまま、8年後のドイツでの三十年戦争勃発へとつながっていく。
カトリックへの改宗を強要されることを恐れたボヘミアの新教徒貴族が、皇帝の代官2名をプラハ城の窓から投げ落とした事件。両名は堀のごみの山に落ちて奇跡的に無事だったが、この反乱行為が三十年戦争という近世ヨーロッパ最大級の戦乱の引き金となった。
反乱を起こしたボヘミア新教徒貴族連合軍が、皇帝フェルディナント2世率いるカトリック同盟軍に大敗した。戦後ボヘミアの新教徒貴族は徹底的に弾圧・没収され、以後ボヘミアは強制的なカトリック化が進められることになった。
劣勢に立たされていたドイツの新教徒諸侯を救援するため、スウェーデン国王グスタフ2世アドルフが自ら大軍を率いてドイツに上陸した。先進的な軍制と機動戦術を武器に各地で皇帝軍を撃破し、三十年戦争の戦局を大きく揺るがした。
ヴァレンシュタイン率いる帝国軍とグスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍が激突した。スウェーデン軍は勝利を収めたものの、グスタフ・アドルフ自身は濃霧の中の乱戦で戦死し、「北方の獅子」を失ったプロテスタント陣営は大きな痛手を負った。
強大化しすぎた権勢を皇帝フェルディナント2世に危険視されたヴァレンシュタインが、謀反の疑いをかけられ皇帝配下の将校らによって暗殺された。稀代の軍事指導者の退場は、長期化する戦争の泥沼化をさらに深めることになった。
30年にわたり続いた戦争を終結させる講和条約が締結された。カルヴァン派を含む宗教的選択の自由が正式に認められ、オランダ・スイスの独立も国際的に承認された。国家主権を基本単位とする近代的な国際秩序(ウェストファリア体制)の出発点とされ、ここに大航海時代・宗教改革の激動の時代は一つの区切りを迎える。