第1回古代オリンピックの開催
人物・逸話伝承によればBC776年、ゼウスに捧げる祭典競技としてオリンピアで最初の古代オリンピックが開催された。参加資格を持つのは自由なギリシア人男性のみだったが、開催中は全ポリスが戦争を一時停止する「聖なる休戦」が敷かれ、政治的に分裂したポリス群を結びつける数少ない汎ギリシア的な催しとなった。以後4年に一度、約1200年にわたって開催され続けた。
伝承によればBC776年、ゼウスに捧げる祭典競技としてオリンピアで最初の古代オリンピックが開催された。参加資格を持つのは自由なギリシア人男性のみだったが、開催中は全ポリスが戦争を一時停止する「聖なる休戦」が敷かれ、政治的に分裂したポリス群を結びつける数少ない汎ギリシア的な催しとなった。以後4年に一度、約1200年にわたって開催され続けた。
口承で伝えられてきた『イリアス』『オデュッセイア』が、フェニキア文字を改良して作られたギリシア文字によって記録され始めたとされる時期。トロイア戦争を題材にしたこれらの叙事詩は、諸ポリスに共通する神話観・英雄観・価値観の土台を提供し、政治的に統一されていないギリシア人たちに「ギリシア人である」という文化的一体感を与えた。
スパルタは隣接するメッセニアへの侵攻を繰り返し、複数次にわたるメッセニア戦争の末にその肥沃な土地と住民を征服した。征服されたメッセニア人は「ヘロット」と呼ばれる隷属農民の身分に落とされ、スパルタ市民の生活を支える経済基盤となった。反乱を常に警戒する必要から、スパルタ社会全体がリュクルゴス制のもとで徹底した軍事国家へと変貌していった。
BC621年、アテナイでドラコンが初めて成文法を制定した。それまで貴族層が独占していた慣習法の知識を文字化して公開したことは画期的だったが、些細な窃盗にすら死刑を科すなど内容は極端に厳格だった。この過酷さは「ドラコン的(draconian)」という言葉として現代英語にまで残っている。この法は約30年後、ソロンの改革によりその大半が緩和された。
債務奴隷の蔓延で内乱寸前だったアテナイで、調停者に選ばれたソロンが抜本改革を断行した。全市民の債務を帳消しにし(セイサクテイア)、出自でなく財産額に基づく四等級の参政権制度を導入して、貧しい市民にも一定の政治参加の道を開いた。貴族と平民の双方から不満は残ったが、この改革はアテナイ民主政への長い道のりの出発点となった。
ミレトスの自然哲学者タレスが日食の到来を予言したとされる。折しもメディアとリュディアが5年越しの戦争を続けていた最中、予言通り戦場が突如暗転したことに両軍が恐れをなし、これを不吉な兆しと見て即座に休戦・講和した。科学的観察が現実の政治・軍事の帰趨に直接影響を与えた稀有な事例として、後世まで語り継がれている。
貴族間の党派対立に乗じたペイシストラトスが策略を用いて権力を掌握し、僭主として君臨した(二度の失脚と復権を経て安定)。強権的な支配下でも既存の法制度は概ね維持され、貧農への融資や大規模な公共事業、文化振興策により民衆の支持を集めた。彼の治世はアテナイの経済的繁栄をもたらし、皮肉にも次代の民主政確立の土台を整えることになった。
軍事国家として台頭したスパルタは、直接支配ではなく個々のポリスとの二国間軍事同盟網を積み重ねる形でペロポネソス半島の大部分に影響力を及ぼす体制を築いた。加盟ポリスはスパルタを盟主とする戦争に兵を提供する義務を負う一方、内政には比較的高い自治が認められた。この緩やかな同盟体制は、後のペルシア戦争でギリシア世界がスパルタを盟主として結束する軍事的基盤となった。
僭主政崩壊後の権力闘争を制したクレイステネスが、BC508年に急進的な政治改革を実施した。血縁に基づく旧来の4部族制を廃止して地縁に基づく10部族制を新設し、抽選で選ばれる五百人評議会を政治の中心に据え、僭主化の芽を摘む陶片追放制度を創設した。この改革によって市民全体が直接政治に参加する体制が整い、後世「民主政(デモクラティア)」の起点として位置づけられる。
ペルシア支配下にあった小アジア西岸のギリシア人植民都市が、ミレトスを中心にBC499年に反乱を起こした。アテナイとエレトリアが艦船を送って支援し、一時はペルシアの拠点サルディスを焼き払うほどの勢いを見せたが、BC494年に鎮圧された。この反乱への本土ギリシアの介入に激怒したペルシア王ダレイオス1世は、報復としてギリシア本土への遠征を決意する。
BC490年、ダレイオス1世が派遣した懲罰遠征軍がマラトン平野に上陸した。数で劣るアテナイ・プラタイア連合軍をミルティアデスが率い、中央を薄く両翼を厚くする陣形でペルシア軍を包囲し撃破した。この勝利はギリシア世界に「東方の大帝国も打ち破れる」という自信を与え、アテナイの国威を大いに高めた。
BC480年、クセルクセス1世率いる数十万のペルシア大軍が再侵攻。スパルタ王レオニダス率いる300の精鋭を含む数千のギリシア軍が、テルモピュライの隘路で数日間持ちこたえた。裏切りによる間道の発覚で退路と背後を断たれる中、レオニダスは残存部隊に撤退を命じつつ自らは踏みとどまり、最後まで戦って全滅した。この玉砕は敗北だが、ギリシア世界の抗戦意志を象徴する出来事として語り継がれた。
アテナイが一時陥落し炎上する中、テミストクレスはギリシア艦隊をサラミス海峡の狭い水域に誘い込む策を進言した。数で劣るギリシア艦隊は狭い海峡でペルシアの大艦隊の機動力を封じ、これを壊滅させた。クセルクセスは対岸の丘からこの敗北を目撃し、親征を断念して帰国した。この勝利がペルシア戦争全体の転換点となった。
サラミス後もギリシアに残留したペルシア陸軍を相手に、スパルタの摂政パウサニアスが率いるギリシア連合軍がBC479年にプラタイアで決戦を挑んだ。数に勝るペルシアの精鋭部隊を打ち破り、ペルシアの地上兵力をギリシア本土から一掃した。同日、小アジア沖のミュカレでもギリシア艦隊が勝利し、二度にわたるペルシアのギリシア遠征は完全に頓挫した。
ペルシアの再侵攻に備え、アテナイを盟主としエーゲ海の島々やイオニアの諸ポリスが参加する軍事同盟「デロス同盟」が結成された。同盟金庫はデロス島の神殿に置かれ、各ポリスの分担金(艦船提供または資金拠出)は清廉な人柄で知られたアリステイデスが公正に査定した。当初は対等な同盟だったが、次第にアテナイの支配色を強めていくことになる。
サラミスの海戦から8年後、自らこの戦争に従軍した劇作家アイスキュロスが、あろうことか勝者ではなく敗者ペルシア宮廷の視点から戦争を描いた悲劇『ペルシア人』を上演した。現存するギリシア悲劇の中で最古の作品であり、同時代の事件を題材にした唯一の現存悲劇でもある。戦勝から日が浅い中で、あえて敵国の悲嘆を描いた作劇は、戦争の栄光だけでなく人間の傲慢(ヒュブリス)への戒めとしても観客に受け止められた。
サラミスの海戦を勝利に導いた英雄テミストクレスは、戦後の対外強硬路線と傲慢な振る舞いが政敵の反発を招き、陶片追放にかけられて国外追放となった。追放後もスパルタから対ペルシア内通の疑いをかけられ、逃亡の末に最終的には敵国であったはずのペルシアに保護を求めるという数奇な晩年を送った。功績と没落が極端に交錯するアテナイ政治の非情さを象徴する事件である。
エピアルテスと共に、貴族の牙城であった長老会議(アレオパゴス評議会)から実質的な政治権限を剥奪する改革を主導したペリクレスは、間もなくアテナイの事実上の指導者としての地位を確立した。以後30年近くにわたり、市民全員が直接参加する急進民主政の枠組みのもとでアテナイを主導し続けることになる。
BC454年、デロス島にあった同盟の共通金庫が「ペルシアの脅威から守るため」という名目でアテナイに移された。しかしこの資金はやがてアテナイ自身の公共事業やパルテノン神殿建設にも流用されるようになり、対等だったはずの同盟は事実上アテナイの帝国的支配体制へと変質していった。離脱を試みる同盟諸都市は軍事力で鎮圧され、アテナイの海上覇権はエーゲ海全域に及んだ。
ペリクレスの主導のもと、彫刻家フェイディアスを総監督としてアクロポリスの丘に女神アテナを祀る壮大な神殿パルテノンの建設が始まった。デロス同盟の資金を大規模に投じた事業であり、同盟諸国からは反発も招いたが、完成した神殿はギリシア古典建築の最高傑作として、アテナイの富と文化的威信を象徴する存在となった。
太陽を燃える岩塊に過ぎないと説いたアナクサゴラスが「不敬神(アセベイア)」の罪で告発された。実際の狙いは彼を重用してきたペリクレスへの政治攻撃であり、フェイディアスへの横領告発と並んで、開戦前夜のペリクレス包囲網の一環だったと見られている。ペリクレスは奔走して友人の処刑こそ免れさせたが、アナクサゴラスはアテナイを去らざるを得なかった。自然哲学と政治権力が衝突した最初期の事件であり、30年余り後のソクラテス裁判の先例となった。
アテナイの海上帝国化に対する周辺ポリスの反発と、スパルタの警戒感が積み重なった末、BC431年にペロポネソス戦争が勃発した。ペリクレスは陸戦を避けアッティカの住民を城壁内に避難させ、海軍力で優位を保つ持久戦略を採った。しかしこの戦略は皮肉にも過密都市での疫病流行という予期せぬ災厄を招くことになる。
ペリクレスの籠城戦略により城壁内に人口が密集していたアテナイを、正体不明の疫病が襲った。数年にわたり流行し、市民の推定4分の1から3分の1が死亡したとされる壊滅的な被害をもたらした。社会秩序も乱れ、法や宗教への敬意が失われる退廃的な風潮が広がったとトゥキュディデスは記録している。
疫病流行の最中、政敵の攻撃で一時失脚していたペリクレス自身も感染し、BC429年に没した。約30年にわたりアテナイを主導してきた指導者を失ったことで、以後の政治はより扇動的で近視眼的な指導者たちに委ねられるようになり、トゥキュディデスはこれを「名目上は民主政だが実質はペリクレス一人の支配だった」時代の終わりと評した。
喜劇作家アリストファネスが、ソクラテスを「考える工房(プロンティステリオン)」を営む詭弁家として舞台上で戯画化し、若者に屁理屈で親を殴る正当性を教える胡散臭い教師として描いた。上演当時は喜劇コンクールで3位という不本意な成績に終わったが、この戯画化されたソクラテス像は市民の間に広く浸透し、24年後の裁判で「若者を堕落させる詭弁家」という偏見の土壌を用意したのではないかと指摘されている。
シチリア遠征の主導者として出航したアルキビアデスは、出発直前に起きたヘルメス神像破壊事件への関与を疑われ、裁判のために本国召還を命じられた。裁判を待たず敵国スパルタに亡命した彼は、進行中のシチリア遠征に関する機密情報や、テーバイ近郊への恒久要塞建設案などをスパルタに助言し、アテナイに深刻な打撃を与えた。
アテナイはシラクサ征服を目指し過去最大規模の遠征軍を送ったが、指揮官の一人アルキビアデスは出征直後に召還され亡命、残された消極的なニキアスの指揮下で戦機を逃し続けた。スパルタの将軍ギュリッポスの到着で戦況は逆転し、最終的にアテナイの陸海軍あわせて数万が壊滅、生存者は石切場での過酷な捕虜生活を強いられた。この大敗によりアテナイの国力は決定的に損なわれた。
ペルシアの資金援助で艦隊を再建したスパルタの提督リュサンドロスが、油断していたアテナイ艦隊をヘレスポントス海峡沿岸で奇襲し、ほぼ無傷で壊滅させた。この敗北によりアテナイは黒海方面からの穀物輸送路を完全に断たれ、戦争継続能力を失った。ペロポネソス戦争の事実上の決着をつけた海戦である。
食料補給路を断たれ包囲されたアテナイは、BC404年についに降伏した。デロス同盟は解体され、アテナイの誇りであった長城と港湾の城壁は破却された。約27年に及んだペロポネソス戦争はスパルタの勝利で終結し、ギリシア世界の覇権はアテナイからスパルタへと移った。
アテナイ降伏後、リュサンドロスの後押しを受けた寡頭派の三十人がアテナイの実権を掌握し、いわゆる「三十人僭主」による恐怖政治が始まった。民主派市民や富裕な政敵を次々と処刑・追放し、その犠牲者はアテナイ市民の推定5%に及んだとされる。あまりの過酷さに反発が強まり、わずか8ヶ月余りで崩壊することになる。
三十人僭主の圧政に対し、亡命していた民主派の市民トラシュブロスらが蜂起し、内戦の末に僭主政権を打倒した。スパルタの仲裁もあり、恩赦を伴う穏健な形で民主政が復活した。約1世紀続いた民主政の伝統は一時中断を経てもなお市民の間に深く根付いており、その回復力を示す出来事となった。
民主政復活からほどないBC399年、ソクラテスは「若者を堕落させ、国家の神々を信じない」罪で告発され、市民による裁判で死刑を宣告された。三十人僭主の中に彼の元弟子がいたことなどが背景にあったとされる。弟子たちが用意した逃亡の機会を、法への服従を説いて自ら拒否し、独房で毒杯を仰いで死んだ。この死は弟子プラトンの著作を通じ、西洋哲学に絶大な影響を残した。
スパルタの覇権拡大に反発したアテナイ・テーバイ・コリントス・アルゴスが、かつての宿敵ペルシアの資金援助を得て反スパルタ同盟を結成し開戦した。小アジア遠征中だったスパルタ王アゲシラオスは急遽本国に呼び戻され、多正面での消耗戦を強いられた。この戦争でギリシアのポリス間抗争にペルシアが再び介入する構図が定着した。
疲弊した諸ポリスは、ペルシア王を調停者として和約を結んだ。この和約はイオニアの諸ポリスをペルシアの支配下に戻す代わりに、ギリシア本土の諸ポリスの「自治」を認める内容で、事実上スパルタがこれを口実に他ポリスへの内政干渉を正当化する道具として利用した。かつてギリシアがペルシアを撃退した誇りは、この和約により大きく揺らぐことになった。
スパルタの傀儡政権からテーバイを奪還したペロピダスらが、150組・300人の男性同士の恋人のペアからなる精鋭部隊「神聖隊」を創設した。愛する者の前で臆病な姿を見せられないという強い結束と士気により、他のどの部隊よりも高い戦闘力を発揮したとされる。この部隊は間もなく訪れるスパルタとの決戦で中核的役割を果たすことになる。
エパメイノンダス率いるテーバイ軍が、従来の横並び戦術を捨てて左翼に兵力を極端に集中させる「斜線陣」という革新的戦術を用い、無敗を誇っていたスパルタの重装歩兵軍を正面から撃破した。この一戦でスパルタの軍事的神話は崩れ去り、ギリシア世界の覇権はスパルタからテーバイへと移った。
レウクトラの勝利を受け、エパメイノンダスはペロポネソス半島へ進軍し、300年近くスパルタに隷属させられてきたメッセニアの人々を解放した。新首都メッセネを建設して独立国家として自立させ、スパルタから経済的基盤である隷属労働力(ヘロット)の大半を永久に奪い去った。この一撃によりスパルタは二度と往時の国力を回復することはなかった。
テーバイの覇権拡大を警戒するスパルタ・アテナイ連合軍とテーバイ軍がマンティネイアで激突した。エパメイノンダスは戦術的勝利を収めたが、決着の最中に致命傷を負い戦場で没した。彼という求心力を失ったテーバイの覇権はまたたく間に瓦解し、ギリシア諸ポリスは決定的な覇者を欠いたまま消耗を続けることになった。
少年期をテーバイで人質として過ごし、エパメイノンダスの戦術を間近で学んだフィリッポス2世が、BC359年にマケドニア王に即位した。従来のギリシア諸国が軽視していた辺境国マケドニアで、長槍サリッサを装備した密集歩兵と重装騎兵を組み合わせた画期的な軍隊を作り上げ、周辺の部族国家を次々と征服してマケドニアを一躍軍事大国に押し上げた。
デルポイの聖域を巡ってフォキスと周辺諸国の間で起きた神聖戦争に、テッサリアの要請でフィリッポス2世が介入した。この戦争を通じてマケドニア軍はギリシア中部への足がかりを得ると同時に、「神殿を守る守護者」という大義名分を手にし、ギリシア諸ポリスの政治に本格的に介入する契機を掴んだ。
マケドニアの脅威が現実味を帯びる中、雄弁家デモステネスは民会で繰り返し演説を行い、フィリッポス2世の野心とアテナイの危機を警告し続けた。これらの弾劾演説群は「フィリッピカ(対フィリッポス演説)」と呼ばれ、後世「フィリピック」という「激烈な弾劾演説」を意味する一般名詞の語源にもなった。しかし多くのアテナイ市民は目先の平穏を優先し、彼の警告に十分に応じることはなかった。
デモステネスの説得でついに結束したアテナイ・テーバイ連合軍が、カイロネイアでマケドニア軍を迎え撃った。フィリッポス2世が本隊を指揮し、18歳の息子アレクサンドロスが騎兵を率いてテーバイの精鋭部隊「神聖隊」を包囲殲滅する働きを見せ、ギリシア連合軍は完敗した。この敗北によって独立したポリスが自らの意思で覇権を争う時代は事実上終わりを告げた。
カイロネイアでの勝利後、フィリッポス2世はスパルタを除くほぼ全てのギリシア諸ポリスをコリントスに集め、自らを盟主とする軍事同盟「コリントス同盟」を組織した。加盟ポリスの自治は名目上維持されたが、実質的にはマケドニアの覇権下に組み込まれた。この同盟の名目上の目的として、フィリッポスはペルシアへの汎ギリシア的な復讐遠征を宣言した。
ペルシア遠征の準備を進めていたフィリッポス2世は、BC336年、娘の結婚式典の最中に護衛の一人パウサニアスに突然刺殺された。暗殺の背後関係は諸説あり真相は明らかでないが、この事件により20歳の息子アレクサンドロスが急遽マケドニア王位を継承することになった。父の壮大な遠征計画は、息子によってさらに壮大な規模で実行されることになる。
フィリッポスの死に乗じ、テーバイをはじめとするギリシア諸都市がマケドニアからの離反を試みた。しかしアレクサンドロスはわずか13日でテッサリアを突破して南下し、テーバイを電撃的に包囲・攻略した。見せしめとして詩人ピンダロスの家一軒を除き都市全体を徹底的に破壊し、住民を奴隷として売却した。この容赦ない対応により、他のギリシア諸都市は以後の反抗を完全に断念した。
ギリシア本土を完全に平定したアレクサンドロスは、コリントス同盟の盟主としてペルシア打倒の大義を掲げ、BC334年に軍を率いてヘレスポントス海峡を渡りアジアへ進軍した。ここから先の壮大な東方遠征の物語は、地中海世界と東方世界が交わる新たな時代を描く「ヘレニズム世界」タイムラインに引き継がれる。ギリシア本土にとっては、独立したポリスが主役だった時代の実質的な幕引きとなった出来事である。
BC323年、遠く東方バビロンでアレクサンドロス大王が急死したとの報がギリシアに届くと、アテナイは追放先から呼び戻したデモステネスの主導のもとマケドニアへの蜂起「ラミア戦争」に踏み切った。緒戦は善戦したものの、翌年マケドニアの反撃で敗北。デモステネスは追っ手を逃れられぬと悟り毒を仰いで自ら命を絶った。この敗北によってアテナイの民主政は事実上終わりを迎え、独立したポリスが自らの運命を決める古代ギリシアの時代は幕を閉じた。