ハラッパー・モエンジョ=ダーロ、都市文明が成立
逸話インダス川流域に、整然とした格子状の街路、排水設備、公衆浴場(モエンジョ=ダーロの「グレート・バス」)を備えた高度に計画的な都市文明が興った。エジプト・メソポタミアと並ぶ古代世界最大級の都市文明でありながら、王の存在を示す壮麗な王墓や宮殿はほとんど見つかっておらず、その統治のあり方は今も謎に包まれている。
インダス川流域に、整然とした格子状の街路、排水設備、公衆浴場(モエンジョ=ダーロの「グレート・バス」)を備えた高度に計画的な都市文明が興った。エジプト・メソポタミアと並ぶ古代世界最大級の都市文明でありながら、王の存在を示す壮麗な王墓や宮殿はほとんど見つかっておらず、その統治のあり方は今も謎に包まれている。
乾燥地帯に位置する都市遺跡ドーラヴィーラでは、雨水を計画的に集めて貯える大規模な貯水池群が築かれていた。インダス文明の諸都市が、地域ごとの気候条件に応じて高度な工学的知見を発達させていたことを示す好例である。
動物や記号を彫った小さな印章が各地の都市から大量に出土している。刻まれた文字(インダス文字)は短い記号列がほとんどで、対応する二言語併記の史料も存在しないため、現在に至るまで解読されていない。このため、インダス文明の言語系統や政治体制について、文献史料に基づく直接的な理解はほとんど得られていない。
シュメールの文書には、ペルシア湾を越えた先にある交易相手として「メルッハ」の名が繰り返し現れる。多くの研究者はこれをインダス文明を指す名と推定しており、インダス系の印章がメソポタミアの遺跡から出土していることも、両文明の間に活発な交易関係があったことを裏づけている。
動物に囲まれて座る角のある人物像を彫った印章(通称「パシュパティ印章」)が出土しており、一部の研究者はこれを後のヒンドゥー教の主神シヴァの原型(「原シヴァ神」)とみなす説を唱えている。しかし文字が未解読である以上、この図像が実際に何を表していたのかは確定できず、後世の宗教との連続性を過度に読み込むことへの慎重な見方も根強い。
紀元前1900年頃を境に、インダス文明の諸都市は急速に衰退し、放棄されていった。かつてはアーリヤ人の侵入が原因とする説が有力視されたが、現在では河川の流路変化や大規模な気候変動による農業基盤の崩壊を主因とする見方が主流となっている。都市文明としてのインダス文明はここで終わりを迎えるが、この地に住み続けた人々の文化が完全に途絶えたわけではない。
インド・ヨーロッパ語族に属する言語を話す人々(アーリヤ人)が、中央アジア方面から北西インドへと入ってきたとされる。かつては軍事的な「侵入」として語られることが多かったが、近年の考古学・遺伝学研究では、征服というより数世紀にわたる段階的な移住・混交の過程であったとする見方が有力になっている。「侵入」の実態や規模については、ドーリア人のギリシア本土南下と同様、今なお活発な議論が続いている。
インド最古の文献であり、インド・ヨーロッパ語族最古級の文献の一つでもある『リグ・ヴェーダ』が、口承によって編まれ始めた。インドラやアグニなど自然の力を神格化した神々への賛歌集であり、文字による記録ではなく、何世紀にもわたり暗唱によって正確に伝承されたという点で、世界の文献史上でも特異な存在である。
鉄製の道具が普及し始めると、それまで開発が進んでいなかったガンジス川流域の密林の開墾が可能になった。ヴェーダ時代の人々の生活圏は、パンジャーブ地方からガンジス川流域へと東進し、後の十六大国が並立する舞台が形づくられていく。
祭祀を司るバラモン、戦士・王侯であるクシャトリヤ、農牧・商業に従事するヴァイシャ、隷属的な労働に従事するシュードラという四つの身分(ヴァルナ)からなる社会秩序が形成されていった。この枠組みは後世のカースト制度の原型となり、以後のインド社会のあり方に長期にわたり影響を及ぼすことになる。
『リグ・ヴェーダ』に続き、祭式の詠唱を集めた『サーマ・ヴェーダ』、祭式の手順を記した『ヤジュル・ヴェーダ』、呪術的な内容を含む『アタルヴァ・ヴェーダ』が編まれ、四種のヴェーダが出そろった。祭式の複雑化に伴い、これを執り行うバラモン階層の社会的権威も強まっていった。
祭式至上主義であったヴェーダの宗教観に対し、宇宙の根本原理(ブラフマン)と個人の本質(アートマン)の一致を説くウパニシャッド文献群が編まれ始めた。祭式の実践から内省的な哲学的探求へと関心が移るこの動きは、間もなく訪れる釈迦やマハーヴィーラら「沙門」思想家たちの登場を準備するものであった。
ガンジス川流域を中心に、コーサラ・マガダ・ヴァッジ(共和制の部族連合)など16の有力な国家群(マハージャナパダ)が並び立つ時代を迎えた。都市の発達と商業の活発化を背景に、各国は互いに抗争と同盟を繰り返し、その中からやがてマガダ国が頭角を現していく。
シャカ族の王子として生まれたシッダールタは、何不自由ない生活を送っていたが、生老病死という人間の逃れられない苦しみに直面し、29歳で出家を決意したと伝わる。生年については北伝仏教の伝える前563年頃と、南伝仏教の記録や近年の研究に基づく前463年頃の二説があり、確定していない。
マガダ国王ビンビサーラは婚姻政策と征服を組み合わせて勢力を拡大し、マガダを十六大国の中でも有数の強国に押し上げた。都ラージャグリハは釈迦をはじめとする多くの宗教思想家が説法を行う、当時の思想的な中心地の一つともなった。
6年に及ぶ苦行の末にそれが解脱への道ではないと悟った釈迦は、苦行を捨てて瞑想に専念し、菩提樹の下でついに悟りを開いたと伝わる。以後、鹿野苑での初めての説法(初転法輪)を皮切りに、45年にわたり北インド各地で教えを説いて回ることになる。
釈迦とほぼ同時代に活動した思想家ヴァルダマーナは、徹底した不殺生(アヒンサー)と苦行による魂の浄化を説き、ジャイナ教の教団を確立した。その教えは釈迦の仏教とともに、祭式中心のバラモン教に対抗する「沙門」思想の二大潮流を形づくった。
釈迦やマハーヴィーラだけでなく、この時代の北インドでは祭式中心のバラモン教の権威に異を唱える多様な思想家(沙門)が同時多発的に現れた。快楽と物質のみを実在とする唯物論を説いたアジタ・ケーサカンバリンや、宿命論を説いたマッカリ・ゴーサーラら「六師外道」と呼ばれる思想家たちも、この思想的沸騰の一角を成した。
アジャータシャトゥルは父ビンビサーラを幽閉して王位を奪うと、隣接する大国コーサラや、部族連合国家ヴァッジ族との戦争に踏み切った。長年の戦争の末にヴァッジ族の同盟を切り崩してこれを併合し、マガダをガンジス川流域随一の強国へと押し上げた。
霊魂や来世の存在を否定し、知覚できるものだけを実在とみなす徹底した唯物論・快楽主義を説く一派(チャールヴァーカ、順世派)も、この時代の沙門思想の一翼を担った。原典のほとんどは失われ、主に敵対する立場の文献を通じて間接的にその主張が伝わっている。
アジャータシャトゥル以後もマガダの拡大は続き、ガンジス川流域の覇権を確立した。新たに都となったパータリプトラは、以後数世紀にわたりナンダ朝・マウリヤ朝・グプタ朝と続く諸帝国の都として、北インド政治史の中心であり続けることになる。
ペルシア帝国を滅ぼしたアレクサンドロス大王は、東方遠征の最終段階としてインダス川を越えて侵攻した。パンジャーブの王ポロスは象部隊を率いて激しく抵抗し、敗れながらもその勇猛さがアレクサンドロス自身に評価されて所領を安堵された。しかし長年の遠征に疲弊した兵士たちが反乱に近い形でそれ以上の東進を拒み、遠征はここで打ち切られた。
軍師チャーナキヤの助力を得たチャンドラグプタは、マガダを支配していたナンダ朝を打倒し、マウリヤ朝を建国した。アレクサンドロスの東方遠征が残した権力の空白を突く形での挙兵であり、以後わずか数十年でインド亜大陸の大部分を統一する帝国の第一歩となった。
チャーナキヤの著と伝えられる『実利論』は、統治・外交・諜報・経済政策・軍事に至るまでを体系的に論じた実践的な政治指南書である。目的のためには謀略も辞さない現実主義的な内容から、しばしば同時代のインドにおける「マキャヴェッリの君主論」に例えられる。
北西インドの領有をめぐってチャンドラグプタと衝突したセレウコス1世は、戦象500頭と引き換えに国境地帯を割譲して講和した。この関係を通じてセレウコス朝の使節メガステネスがマウリヤ朝の宮廷に長期滞在し、見聞をまとめた『インディカ』は、文献の乏しいマウリヤ朝の実態を伝える貴重な外部記録となった。
晩年のチャンドラグプタは王位を子ビンドゥサーラに譲り、ジャイナ教に帰依して南方のシュラヴァナベルゴラに赴き、断食による死(サッレーカナー)を選んだと伝わる。史実性については議論があるが、事実であれば、帝国建設者が晩年に出家・苦行者となった稀有な例となる。
チャンドラグプタの子ビンドゥサーラが即位し、帝国をさらに南方のデカン高原へと拡大した。ヘレニズム諸国との外交も継続し、セレウコス朝の宮廷に甘いイチジク酒と哲学者の派遣を求める書簡を送ったという逸話が伝わっている。
熾烈な後継者争いの末、ビンドゥサーラの子アショーカが即位した。即位当初は父祖の路線を継ぐ征服者として振る舞い、帝国の版図をさらに拡大しようとしていた。
アショーカ王は東海岸の独立国カリンガに侵攻し、これを征服した。しかしアショーカ自身が磨崖法勅に記したところによれば、この戦いで10万人以上が死に、さらに多くの人々が捕虜となるなど凄惨な犠牲を伴い、アショーカはこの惨状に深い後悔の念を抱いたと伝わる。
カリンガ戦争の惨状を目の当たりにしたアショーカ王は仏教に深く帰依し、以後は武力による征服(ディグ・ヴィジャヤ)ではなく、「ダルマ(法)」による統治を掲げるようになった。この転換は、征服者から統治理念を語る為政者への、統治スタイルの大きな転換点となった。
アショーカ王はダルマの理念を、帝国各地の岩壁や石柱にプラークリット語で刻ませた。その中には、ギリシア語・アラム語で記された法勅も含まれ、シリアのアンティオコス2世、エジプトのプトレマイオス2世、マケドニアのアンティゴノス2世ゴナタスら、遠く地中海世界のヘレニズム諸王への言及が見られる。年代記の伝統を欠くインド古代史において、これらの碑文はアショーカ王の在位年代を外部の史料と直接照合できる、数少ない確実な基準点となっている。
アショーカ王が掲げた「ダルマ」は特定の教義に偏らない普遍的な倫理規範で、動物福祉、寛容、非暴力、両親・年長者への敬意などを説くものであった。特定の宗派を国教として強制するのではなく、あらゆる信仰の共存を認めるその姿勢は、多民族・多宗教からなる大帝国の統治理念として機能した。
アショーカ王は仏教を国外にも広めるべく各地に布教使節を派遣し、その一環として子(あるいは弟)のマヒンダをスリランカへ送った。マヒンダは時の王を仏教に改宗させることに成功し、この布教が後に上座部仏教が東南アジア一帯に定着していく最初の一歩となった。
「法(ダルマ)による統治」を掲げた稀代の皇帝アショーカが没した。彼の死後、後継者たちの間で内紛が起こり、マウリヤ朝は急速に求心力を失っていくことになる。
マウリヤ朝最後の皇帝ブリハドラタに仕えていた将軍プシュヤミトラは、閲兵式の最中に主君を暗殺してシュンガ朝を樹立した。仏教を保護したマウリヤ朝と異なりバラモン教の祭祀を復興させ、以後インドの政治情勢は再び諸勢力が分立する時代へと戻っていく。
ヘレニズム系のバクトリア王国の王デメトリオス1世は、シュンガ朝樹立の混乱に乗じて北西インドへ進出した。アレクサンドロスの遠征から一世紀以上を経て、ギリシア系の王朝が再びインドの地に領土を築くインド・グリーク朝の歴史がここに始まった。
インド・グリーク朝最盛期の王メナンドロス1世が即位した。その支配領域は北西インドから中央ガンジス平原にまで及んだとされ、仏教にも深い関心を寄せたことで知られる。
メナンドロス1世は仏僧ナーガセーナと繰り返し対話を重ね、無我や輪廻といった仏教教理について議論した。この対話をまとめた『ミリンダ王の問い』は、ギリシア哲学の伝統に育ったヘレニズム系の統治者が仏教思想と真摯に向き合った記録として、東西両世界に類例のない文献となった。
中国北西部の遊牧民・大月氏は、匈奴に敗れて中央アジアへと西走した。バクトリア地方に落ち着いた大月氏の一部族クシャーンがやがて他の部族を統合し、後にインドへ南下してクシャーナ朝を築く勢力の起源となる。
北インドの度重なる政変から距離を置いた南方のデカン高原で、サータヴァーハナ朝が有力な地域国家として台頭した。西海岸の港を通じたローマとの季節風交易によってもたらされる富を背景に長期にわたり繁栄し、南インドの言語・文化の形成に大きな影響を残すことになる。
クジュラ・カドフィセスのもとで統合された大月氏系の勢力は、バクトリアから北西インドへと版図を広げ、クシャーナ朝を築いた。以後この王朝は、中央アジアと北インドを結ぶシルクロード交易の要衝を支配する大帝国へと成長していく。
季節風(モンスーン)を利用した航海術が確立されると、紅海とインド西海岸を数週間で結ぶ直接交易が活発化した。インドからは胡椒・香辛料・宝石・綿布が、ローマからは金貨・ワイン・ガラス製品が運ばれ、南インドの遺跡からは大量のローマ金貨が出土している。
エジプト在住のギリシア語話者の商人によって、紅海からインド洋にかけての港湾・交易品を実務的に記した航海案内記『エリュト�ュラー海案内記』が著された。ムジリスをはじめとするインド西海岸の港とローマ世界との交易の実態を伝える、数少ない同時代の一次史料である。
自己の解脱を重視する従来の仏教(後に上座部仏教と呼ばれる)に対し、あらゆる衆生の救済を目指す菩薩の理念を掲げる大乗仏教の潮流が形成されていった。クシャーナ朝の広域的な交易網を通じて、この新しい仏教は中央アジアから中国へと伝わっていくことになる。
カニシカ王は仏教教理の整理・統一を図る第四回仏典結集を後援したと伝わる。この事業を通じてまとめられた注釈書群は、後にサンスクリット語での仏教教理研究の基盤となった。
インド伝統医学アーユルヴェーダの基礎文献の一つ『チャラカ・サンヒター』が、この時期にまとめられた。病因論・診断法・薬物療法を体系的に論じたこの文献は、以後2000年近くにわたりインド医学の基本典籍として受け継がれていく。
クシャーナ朝最盛期の王カニシカが即位した。その版図は中央アジアから北インドにまで及び、東西交易路の要衝を掌握する大帝国を統治することになる。正確な即位年は今も研究者の間で議論が続いている。
クシャーナ朝の庇護のもと、ギリシア彫刻の写実的な技法とインド仏教の図像が融合したガンダーラ美術が花開いた。それまで象徴(法輪や菩提樹など)でしか表現されなかった仏陀の姿が、初めて人間の姿で彫像として表現されるようになったのもこの様式の特徴である。
ナーガールジュナは、あらゆる事物には固定的な実体がないとする「空」の思想を体系化し、大乗仏教の理論的基盤である中観派を確立した。その論理は後の東アジア仏教思想全体に絶大な影響を与え、後世「八宗の祖」とも称されることになる。
クシャーナ朝最盛期を築いたカニシカ王が没した。正確な没年は不明だが、彼の死後クシャーナ朝は徐々に往時の勢いを失っていく。
西方で新たに勃興したサーサーン朝ペルシアの圧迫を受け、クシャーナ朝は中央アジア方面の領土を失って急速に衰退した。かつて東西交易の要衝を支配した大帝国は、以後複数の地方政権へと分裂していく。
マガダ地方の一豪族に過ぎなかったチャンドラグプタ1世は、有力なリッチャヴィ族の王女クマーラデーヴィーとの婚姻を通じて勢力を拡大し、グプタ朝を建国した。マウリヤ朝の滅亡以来約500年ぶりに、北インドが再び統一へと向かう流れがここから始まる。
チャンドラグプタ1世の子サムドラグプタは、北インドの諸国を直接併合する一方、遠く南インドのデカン地方まで遠征して臣従を誓わせるなど、グプタ朝の版図を飛躍的に拡大した。この事績はアラーハーバードに残る石柱碑文に詳細に刻まれ、グプタ朝の統治実態を伝える貴重な史料となっている。
サムドラグプタの子チャンドラグプタ2世は西方のサカ族(西クシャトラパ)を征服して西インドの海港を確保し、グプタ朝は最盛期を迎えた。「超日王(ヴィクラマーディティヤ)」の称号でも知られるこの治世下、宮廷には詩人カーリダーサをはじめとする文人・学者が集い、古典サンスクリット文化が花開いた。
東晋の僧・法顕は、仏典の原典を求めて60代という高齢で陸路インドへ渡った。399年から414年まで15年に及んだこの旅の記録『仏国記』は、チャンドラグプタ2世治世下のグプタ朝の繁栄ぶりを伝える、数少ない同時代の外部記録として重視される。
宮廷詩人カーリダーサは、戯曲『シャクンタラー』をはじめとする数々の傑作を残した。精緻な韻律と豊かな自然描写を特徴とするその作品は、サンスクリット文学の最高峰と評され、後にヨーロッパにも紹介されてゲーテら西洋の文人にも絶賛された。
口承で伝えられてきた二大叙事詩『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』が、この時期までにおおむね現在の形に完成したとされる。ヴィシュヌ神・シヴァ神への信仰を軸とするヒンドゥー教も、この時期を通じてバラモン教から発展し、体系的な信仰として確立されていった。
グプタ朝の庇護のもと、後にアジア屈指の仏教学問寺院として知られるナーランダー僧院が創建された。最盛期には数千人の学僧が学んだと伝えられ、200年余り後にはるばる唐から訪れた玄奘も、この地で学ぶことになる。
中央アジアの遊牧民エフタル(白匈奴)が北西インドへの侵攻を開始した。皇帝スカンダグプタはこの最初の侵攻を退けることに成功したが、度重なる防衛戦は国庫を大きく消耗させ、グプタ朝の国力に長期的な打撃を与えることになった。
23歳の天文学者アーリヤバタは、円周率の近似値、正弦表、そして位取り記数法における「ゼロ」の概念を用いた計算法を体系的に示した『アーリヤバティーヤ』を著した。地球の自転にも言及したこの業績は、後にイスラム世界を経てヨーロッパの数学・天文学にも大きな影響を与えることになる。
エフタルの王ミヒラクラは北インドへの侵攻を再開し、仏教寺院の破壊など過酷な統治で恐れられた。グプタ朝の権威はこの侵攻によって決定的に揺らぎ、帝国は急速に分裂へと向かっていった。
エフタルの侵攻による打撃と地方勢力の自立が重なり、グプタ朝は中央集権的な統一王朝としての実質を失った。マウリヤ朝以来のインド古典文化の黄金時代はここに幕を閉じ、以後の北インドは、7世紀のハルシャ王による一時的な再統一を経ながらも、長く地方勢力が分立する時代へと移っていく。