推古天皇、即位・厩戸皇子が政務に参画
政変前年の崇峻天皇暗殺を経て、蘇我馬子は姪にあたる推古天皇を擁立した。日本初の女性天皇の誕生である。甥の厩戸皇子は皇太子として立てられ、馬子と共に政務に深く参画するようになり、推古・馬子・厩戸皇子の三者による協調体制のもとで新たな国づくりが始まった。
前年の崇峻天皇暗殺を経て、蘇我馬子は姪にあたる推古天皇を擁立した。日本初の女性天皇の誕生である。甥の厩戸皇子は皇太子として立てられ、馬子と共に政務に深く参画するようになり、推古・馬子・厩戸皇子の三者による協調体制のもとで新たな国づくりが始まった。
氏族の出自ではなく個人の才能・功績に応じて冠位を与える冠位十二階が定められた。氏族単位で世襲されてきたそれまでの人事のあり方を改め、天皇を頂点とする官人統治の仕組みへと近づける狙いがあった。
「和を以て貴しと為し」に始まる十七条憲法が定められた。豪族・官人に対する道徳的な訓戒を中心とし、天皇への服従や仏教の尊重を説くこの憲法は、近代的な法典ではなく官人としての心得を示したものだが、律令国家の理念を最初に文章化した画期的な試みであった。
小野妹子を正使とする遣隋使が派遣され、隋の皇帝・煬帝に対等外交を志向する国書がもたらされた。同じ頃、厩戸皇子は自らの宮のあった斑鳩の地に法隆寺を創建しており、対外交渉と仏教興隆の両面で新たな時代の到来を印象づけた。
厩戸皇子と蘇我馬子は、天皇の系譜と国の歴史をまとめた『天皇記』『国記』などの編纂を主導した。これらは律令国家が自らの正統性を語る最初期の試みであったが、645年の乙巳の変で蘇我蝦夷が邸宅に火を放った際、大半が失われることになる。
推古朝の政治を長く支えた厩戸皇子が49歳で没した。その死は多くの人々に深い悲しみをもたらしたと伝わり、没後の時代を経て「聖徳太子」として理想化された人物像が形成されていくことになる。
朝鮮半島の使者を迎える儀式の最中、中大兄皇子は自ら剣を振るって蘇我入鹿を斬り殺した。長らく朝廷の実権を握ってきた蘇我氏の専横に対する、中大兄皇子と中臣鎌足による周到な計画のもとでの決起であった。
子の入鹿が討たれたと知った蘇我蝦夷は、もはや抵抗できないと悟り、一族に伝わる『天皇記』『国記』などの記録もろとも自邸に火を放ち自害した。これにより長く権勢を誇った蘇我本宗家は滅亡した。
即位した孝徳天皇のもと、公地公民制・地方行政区画の整備・戸籍と班田収授法の実施・統一的な租税制度という4か条からなる「改新の詔」が発布された。豪族が私的に土地と人民を支配する体制から、天皇を中心とする中央集権国家へと転換する大方針が示された。
滅亡した百済の復興を助けるべく朝鮮半島に派遣された倭国の水軍は、唐・新羅の連合艦隊に白村江で壊滅的な敗北を喫した。この敗戦により倭国は朝鮮半島への足がかりを完全に失い、以後は唐・新羅の侵攻に備えて国内の防備を固めることに国力を注ぐことになる。
天智天皇の崩御後、皇位を継いだ大友皇子に対し、吉野に退いていた大海人皇子が挙兵した。東国の豪族を味方につけた大海人皇子軍は各地で朝廷軍を打ち破り、瀬田橋の戦いで決定的な勝利を収めた。古代日本最大級の内乱であった。
瀬田橋での敗北により大津宮を支えきれなくなった大友皇子は、山前まで逃れた末に自害した。享年25。近江朝廷は崩壊し、勝利した大海人皇子が新たな政権を樹立することになった。
壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し天武天皇となった。皇族を重んじる皇親政治を敷き、律令や国史編纂の事業に着手するなど、以後の律令国家建設の方向性を決定づけた。
持統天皇の吉野行幸に随行した柿本人麻呂は、天皇の権威を讃える壮麗な吉野讃歌を詠んだ。また荒廃した近江大津宮の跡を訪れては、壬申の乱で滅んだ近江朝廷を悼む歌も残しており、その歌は単なる叙情にとどまらず、皇統の正統性を言葉によって支える公的な役割を担っていた。
天武天皇の遺志を継いだ持統天皇は、中国の都城制にならった日本初の本格的な条坊制都市・藤原京へと遷都した。恒久的な首都という発想そのものが、それまでの遷都の慣習からの大きな転換であった。
刑部親王・藤原不比等らが中心となって編纂した大宝律令が完成し、日本は初めて体系的な成文法典を持つ国家となった。二官八省からなる官僚機構と、全国を統一的に統治する行政制度がここに確立した。
元明天皇は、手狭になった藤原京から、より広大な平城京へと都を移した。「あをによし」と歌われたこの都は、以後740年の一時的な遷都を除いて74年間、律令国家の中心であり続けることになる。
稗田阿礼が記憶していた神話・伝承を、太安万侶が漢字を用いて筆録し、日本最古の歴史書『古事記』が完成した。天地開闢から推古天皇の代までを描くこの書は、律令国家が自らの由来を語る根本の物語となった。
元明天皇は諸国に対し、地名の由来・産物・土地の肥沃さ・古老の伝承などを記して報告するよう命じた。地方の地誌をまとめて中央に集約させるこの事業は、律令国家が全国の地理と伝承を把握し、統治の基礎資料とするための一環であった。
舎人親王を総裁として編纂が進められた正史『日本書紀』全30巻が完成し、朝廷に奏上された。中国の史書にならった漢文編年体で書かれたこの正史は、対外的にも国家の正統性を示す公式記録として位置づけられた。
大宝律令の制定を主導し、娘を天皇家に嫁がせて藤原氏の礎を築いた不比等が62歳で没した。その死後、後ろ盾を失った朝廷では皇族出身の長屋王が台頭し、藤原氏の四兄弟との間に緊張が高まっていく。
左大臣として朝政を主導していた長屋王は、藤原四兄弟の陰謀により「私かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」との密告を受け、邸宅を武力で包囲された。無実を訴える術もなく、長屋王は妻子もろとも自害した。この事件により藤原四兄弟は朝廷の要職を独占することになる。
17年に及ぶ長期留学から帰国した吉備真備は膨大な典籍と学問を、玄昉は数多くの経典を携え、いずれも朝廷から破格の歓迎を受けた。橘諸兄政権のもとで急速に重用されていくことになるが、この急な台頭が後の反発を招く火種にもなる。
大宰府から広がったとされる天然痘の大流行が都を襲い、朝廷の要職を独占していた藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が、数か月のうちに相次いで病死するという未曾有の事態が起きた。藤原氏の権勢は一時的に大きく後退することになる。
藤原四兄弟の死により生じた権力の空白を埋め、皇族出身の橘諸兄が右大臣として政権の中心に立った。唐帰りの吉備真備・玄昉を側近として重用し、藤原氏に代わる新たな政治の刷新を進めた。
大宰府に左遷されていた藤原広嗣は、朝廷の混乱の元凶は吉備真備と玄昉であるとしてその排除を求め、九州で1万を超える兵を率いて挙兵した。朝廷はただちに大軍を派遣し、鎮圧に乗り出した。
追討軍との戦いに敗れた広嗣は海路の逃亡を図ったが、目的地にたどり着けず捕らえられ、まもなく斬られた。九州を揺るがしたこの反乱の衝撃は大きく、聖武天皇はこの直後から都を転々とする異例の行動に出ることになる。
藤原広嗣の乱に強い衝撃を受けた聖武天皇は、平城京を離れて恭仁京への遷都を断行した。しかしその後も難波京、紫香楽宮と5年にわたり都を転々とすることになり、この時期は後世「彷徨五年」と呼ばれる。
相次ぐ疫病・飢饉・反乱に深く心を痛めた聖武天皇は、仏教の力によって国を鎮め守ろうと願い、盧舎那大仏の造立を命じる詔を発した。国家の総力を挙げた前代未聞の大事業がここに始まった。
民衆から絶大な信望を集めていた行基は、聖武天皇からの直々の要請を受け、大仏造立事業への協力を決めた。かつて朝廷から弾圧された民間布教僧が国家事業の中心的な担い手となる、異例の転換であった。
5年にわたる遷都の彷徨の末、聖武天皇はついに平城京へと戻った。大仏の造営はこの平城京の地で本格的に再開され、東大寺の建立に向けた事業が加速していく。
現存する日本最古の漢詩集『懐風藻』が編まれた。大友皇子や大津皇子ら皇族から歴代の官人までが詠んだ漢詩を集めたこの書は、律令官人にとって漢文の教養と詩作が公的な能力の一部として求められていたことを示している。
インド出身の僧・菩提僊那を導師に迎え、盛大な開眼供養の儀式が営まれた。すでに譲位していた聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇が居並ぶ中、大仏の瞳に魂を入れる筆が入れられた。国家仏教の一大事業がここに結実した瞬間であった。
譲位した聖武上皇に代わり、皇女の阿倍内親王が即位して孝謙天皇となった。女性天皇の即位という異例の事態であり、当初は藤原仲麻呂の後見のもとで政治が進められることになる。
父・諸兄の死後、急速に権勢を強める藤原仲麻呂に危機感を抱いた橘奈良麻呂は、これを打倒する謀反を密かに計画した。しかし計画は事前に発覚し、仲麻呂側によって一味は一斉に捕らえられた。
謀反への関与を厳しく追及された奈良麻呂は、拷問の末に獄中で命を落とした。連座した多くの貴族・官人も処罰され、橘氏の勢力はこの一件で大きく後退することになった。
橘奈良麻呂の変の後、藤原仲麻呂は自ら擁立した淳仁天皇のもとで太政大臣にまで昇りつめ、「恵美押勝」の名と特別な地位を与えられた。人臣として最高位に達し、その権勢は頂点に達した。
現存最古の歌集『万葉集』は、天皇の行幸に随行して詠まれた讃美の歌、東国から徴発され九州の防備に赴く兵士たちの防人歌、大伴家持を含む数百人の歌など、律令国家が全国から集めた歌の総体である。収録される最後の歌は759年に大伴家持が詠んだもので、編纂そのものの完成年は確定していないが、8世紀後半とされる。
僧・道鏡を寵愛する孝謙上皇との対立が深まった仲麻呂は、権力を維持すべく挙兵に踏み切った。しかし上皇方に機先を制されて近江へ追われ、追討軍との戦いに敗れていった。
琵琶湖畔まで追い詰められた仲麻呂は、一族もろとも討ち取られた。太政大臣にまで昇った権勢は一夜にして瓦解し、擁立された淳仁天皇もまもなく廃位され淡路に流されることになる。
恵美押勝の乱を退けた孝謙上皇は、淳仁天皇を廃位して淡路に追放し、自ら再び皇位に就いて称徳天皇となった。以後、深く信頼する道鏡を重用する政治が本格化していく。
称徳天皇の絶大な信任のもと、道鏡は太政大臣禅師を経て、皇族にも準じる前例のない地位「法王」にまで昇りつめた。一介の僧が事実上の最高権力者となる、律令国家史上異例の事態であった。
「道鏡を天皇の位に就かせれば天下太平になる」との神託があったとの報告を受け、称徳天皇は和気清麻呂を宇佐八幡宮へ真偽の確認に派遣した。だが清麻呂が持ち帰ったのは「臣下の道鏡には皇位を継がせるな」という正反対の神託であり、道鏡の即位の野望はここで断たれた。
道鏡の期待に反する神託を持ち帰った清麻呂は、道鏡の怒りを買って官位を剥奪され、大隅国へ追放された。しかし称徳天皇の崩御後に名誉を回復され、桓武朝では都造りの功労者として重用されることになる。
後継者を定めぬまま称徳天皇が崩御すると、唯一の後ろ盾を失った道鏡はただちに失脚し、下野国の薬師寺別当へと左遷された。天智系の光仁天皇が擁立され、道鏡の専権時代は幕を閉じた。
光仁天皇の崩御を受け、皇子の桓武天皇が即位した。仏教勢力が強く政治に介入する平城京の体質を刷新すべく、新たな都への遷都を構想し始める。
桓武天皇は側近の藤原種継を造長岡宮使に任じ、平城京から長岡京への遷都を断行した。水運の便に優れた新天地での再出発であったが、この都はわずか10年で放棄されることになる。
造営工事の陣頭指揮を執っていた種継が、夜の視察中に何者かに矢で射られ、翌日死去した。この暗殺事件の首謀者として、皇太子・早良親王とその周辺が厳しく追及されることになる。
種継暗殺への関与を疑われた早良親王は皇太子の地位を剥奪され、淡路へ配流されることになった。無実を訴えて食を絶った親王は、配流の船上で憤死した。以後、都で疫病や皇族の不幸が相次ぎ、これが早良親王の祟りと恐れられることになる。
相次ぐ怪異や早良親王の祟りへの恐れもあり、桓武天皇は長岡京を離れて平安京へと都を移した。以後1000年以上にわたり都であり続けるこの遷都をもって、律令国家建設の一つの区切りとされる。
朝廷に帰順していた蝦夷系の豪族・伊治呰麻呂が、按察使・紀広純らを殺害して反乱を起こし、多賀城を焼き払った。この事件を機に、陸奥では朝廷と蝦夷との間で数十年に及ぶ大規模な戦争の時代が始まる。
征東大使・紀古佐美が率いる数万の朝廷軍は、阿弖流爲の指揮する蝦夷軍の巧みな戦術の前に胆沢の巣伏で大敗を喫し、多くの兵を失って撤退した。律令国家の正規軍が蝦夷に手痛い敗北を喫した象徴的な戦いであった。
紀古佐美の敗北を経て、桓武天皇は武勇に優れた坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、陸奥への本格的な遠征を委ねた。田村麻呂は巧みな用兵で蝦夷の抵抗拠点を着実に切り崩していく。
胆沢城を築いて勢力基盤を固めた田村麻呂の前に、長年抵抗を続けてきた阿弖流爲と母礼はついに500余人を率いて降伏した。田村麻呂は二人の武勇と器量を惜しみ、都へ連行した後も助命を強く嘆願した。
田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず、朝廷の公卿たちは「野蛮の性、反覆常なし」として二人の処刑を決定した。阿弖流爲・母礼は河内国で斬られ、長く続いた蝦夷との戦争は律令国家側の勝利という形で一つの区切りを迎えた。