ペリー、浦賀に来航
政変アメリカ大統領の国書を携えたペリー提督率いる4隻の軍艦(黒船)が浦賀沖に姿を現した。圧倒的な威容を前に幕府は対応に苦慮し、翌年の回答を約して久里浜での国書受け取りに応じた。
アメリカ大統領の国書を携えたペリー提督率いる4隻の軍艦(黒船)が浦賀沖に姿を現した。圧倒的な威容を前に幕府は対応に苦慮し、翌年の回答を約して久里浜での国書受け取りに応じた。
再来航したペリーとの交渉の末、日米和親条約が締結された。下田・箱館の開港を認めるもので、200年以上続いた鎖国体制はここに事実上終わりを告げた。
攘夷論の重鎮である水戸斉昭が幕政参与として発言力を強め、開国路線を進める幕閣との間に緊張が高まっていった。
初代駐日アメリカ総領事ハリスが下田に着任し、通商条約の締結に向けた粘り強い交渉を開始した。
病弱な将軍家定の後継をめぐり、一橋慶喜を推す斉昭ら一橋派と、紀州の慶福(後の家茂)を推す井伊直弼ら南紀派が激しく対立した。
大老に就任した井伊直弼は、朝廷の勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印した。この独断は攘夷派・朝廷双方の強い反発を招くことになる。
大老となった井伊直弼は将軍継嗣を紀州の慶福(家茂)に決定し、一橋派を退けた。この強引な手法が反対派の憎悪を集める結果となる。
井伊直弼は無断調印や将軍継嗣問題で自らに反発した大名・公家・志士たちを次々と弾圧した。吉田松陰をはじめ多くの人材がこの粛清で命を落とすか投獄された。
老中暗殺計画への関与を疑われた松陰は、安政の大獄の中で斬首刑に処された。享年29。松下村塾で育てた門下生たちが、後に維新の中核を担っていくことになる。
将軍継嗣問題で井伊直弼と対立した斉昭は、安政の大獄の一環として隠居謹慎を命じられた。水戸藩士たちの間に直弼への怨嗟が募っていく。
水戸脱藩浪士らを中心とする一団が、登城中の井伊直弼の行列を桜田門外で襲撃し、直弼を暗殺した。幕府の最高権力者が白昼堂々討たれたこの事件は、幕府の権威失墜を天下に印象づけた。
公武合体を推進した老中・安藤信正が、和宮降嫁を屈辱外交とみなす尊攘派浪士に坂下門外で襲撃され負傷した。信正は一命を取り留めたが政治的威信を失い失脚した。
幕政改革を求めて上洛した島津久光の行列を横切ったイギリス人らを、供の薩摩藩士が殺傷した。この事件が翌年の薩英戦争の直接の引き金となる。
生麦事件の賠償を求めるイギリス艦隊が鹿児島湾に来航し砲撃戦となった。薩摩は鹿児島城下に大きな被害を受けるが、イギリス側も旗艦艦長の戦死など損害を被り、この戦いを機に薩摩は攘夷の非現実性を悟り開明路線へ転じていく。
朝廷が定めた攘夷決行の期日に従い、長州藩は下関海峡を通過する米・仏・蘭の艦船を砲撃した。この攘夷の実行が、翌年の四国連合艦隊による報復を招くことになる。
薩摩藩と会津藩が結び、朝廷内の尊攘急進派と結託していた長州藩勢力を京都から一掃した。三条実美ら急進派の公家7人も長州へ逃れ(七卿落ち)、長州は一時的に政治の表舞台から締め出された。
前年の砲撃への報復として、英・米・仏・蘭の四国連合艦隊が下関を攻撃し、長州藩の砲台は完全に破壊された。高杉晋作が講和交渉にあたり、この敗北を通じて長州は西洋の軍事力の実態を痛感することになる。
下関戦争の敗北を経て、高杉は攘夷一辺倒から近代的な軍備の必要性を痛感し、身分を問わない奇兵隊を活用しながら藩内の倒幕路線への転換を図っていった。
新選組が、京都放火と天皇拉致を計画していたとされる尊攘派志士の会合を池田屋で襲撃した。多くの長州・土佐系志士が殺害・捕縛され、桂小五郎はかろうじて難を逃れた。この事件が長州藩内の過激派を勢いづかせ、禁門の変への導火線となった。
池田屋事件に激高した長州藩は京都へ進軍し御所付近で会津・薩摩などの兵と衝突した。長州軍は敗れ、久坂玄瑞は自刃した。この戦闘で長州は「朝敵」の烙印を押されることになる。
禁門の変で朝敵となった長州を討つべく、幕府は諸藩に動員をかけ長州征討軍を編成した。長州藩は戦わずして恭順の姿勢を示し、禁門の変の責任者を処罰することで一旦の矛を収めた。
幕府への恭順に傾く藩の保守派に対し、高杉晋作はわずかな同志と共に功山寺で挙兵した。奇兵隊などの支持を得て藩の実権を奪取し、長州藩の方針を倒幕路線へと転換させた。
犬猿の仲であった薩摩と長州の間を、坂本龍馬らが奔走して取り持ち、京都で軍事同盟(薩長同盟)が結ばれた。倒幕への流れを決定づける歴史的な同盟であった。
再び長州征討に踏み切った幕府だったが、近代化された長州軍と薩摩藩の不参加もあり各地で苦戦を重ねた。将軍家茂の死を機に幕府は停戦を余儀なくされ、幕府の軍事的権威は決定的に低下した。
第二次長州征討の陣中にあった家茂が、大坂城で20歳の若さで病死した。これを機に幕府軍は長州征討の停止を決定した。
家茂の死を受け、一橋慶喜が十五代将軍に就任した。幕政改革に意欲を見せるが、時代の流れはすでに倒幕へと大きく傾いていた。
公武合体路線を支えてきた孝明天皇が突然崩御した。天然痘とされるが、討幕派による毒殺を疑う説も根強く語られている。倒幕への大きな障壁が失われることになった。
孝明天皇の崩御を受け、14歳の睦仁親王が明治天皇として即位した。以後、岩倉具視ら倒幕派公家がこの若き天皇のもとで政局を主導していく。
龍馬は大政奉還後を見据えた新国家の基本方針「船中八策」を起草した。議会政治・憲法制定など、後の明治国家の骨格に通じる先見的な構想が示されている。
後藤象二郎の進言を受けた山内容堂は、将軍慶喜に対し政権を朝廷に返上するよう建白した。武力討幕を避け、徳川家の存続の道を残すための穏健な政権移譲案であった。
慶喜は容堂らの建白を受け入れ、政権を朝廷に返上する大政奉還を上表した。260年余り続いた徳川幕府による統治はここに名目上終わりを告げたが、実質的な権力は依然として旧幕府側に残されていた。
大政奉還からわずか1か月後、龍馬と中岡は京都の近江屋で何者かに襲撃され死去した。新時代の到来を目前にした二人の死は、今なお犯人像をめぐり議論が続いている。
岩倉具視・西郷隆盛ら倒幕派は宮中クーデターにより、幕府・摂関制度の廃止と天皇親政の復活を宣言した。慶喜は依然として大きな勢力を持っており、旧幕府勢力と新政府方の緊張は一気に高まった。
王政復古後の最初の会議で、岩倉らは慶喜に対し官位の返上と領地の一部返還(辞官納地)を求めることを決定した。山内容堂ら公議政体派は反発したが押し切られ、旧幕府方の不満は決定的なものとなった。
辞官納地に反発した旧幕府軍が京都へ進軍し、鳥羽・伏見で薩長を主力とする新政府軍と衝突した。兵数で劣る新政府軍だったが、「錦の御旗」を掲げて官軍としての大義名分を得たことも大きく、旧幕府軍を撃破した。戊辰戦争の幕開けである。
鳥羽・伏見での敗北を受け、慶喜は大坂城の将兵を残したまま密かに軍艦で江戸へ退却した。この行動は将兵の士気を大きく失わせ、旧幕府方の劣勢を決定づけた。
新政府は有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任じ、江戸を目指す東征軍を組織した。皇族自らが軍を率いる異例の体制で、新政府の正統性を内外に示した。
明治天皇が公卿・諸侯を率いて神々に誓う形式で、新政府の基本方針「五箇条の御誓文」が発布された。広く会議を興し万機公論に決すべしなど、後の近代国家建設の理念的な出発点となった。
江戸総攻撃が迫る中、篤姫は実家である薩摩の西郷隆盛らに徳川家の存続を懇願する書状を送った。旧幕臣・大奥・皇女和宮それぞれの働きかけが、無血開城への機運を後押しした。
江戸総攻撃を目前に控え、勝海舟と西郷隆盛が会談し、江戸城の無血開城で合意した。100万都市・江戸を戦火から救ったこの決断は、戊辰戦争の帰趨を大きく左右した。
江戸開城後も上野の寛永寺に立てこもり抵抗を続けた旧幕臣の彰義隊を、大村益次郎が指揮する新政府軍がわずか一日で壊滅させた。江戸周辺における旧幕府方の組織的抵抗はここに終わった。
会津・庄内両藩の赦免を求める東北諸藩は、新政府の強硬姿勢に反発して奥羽越列藩同盟を結成した。会津藩を中心に新政府軍への本格的な抗戦体制が整えられた。
新政府軍は会津領内へ進撃し、会津若松城を包囲した。10代の少年で編成された白虎隊が城の落城と誤認して集団自刃するなど、多くの悲劇を生みながら会津藩は必死の抗戦を続けた。
1か月におよぶ籠城戦の末、松平容保は降伏し会津若松城は開城した。奥羽越列藩同盟の中心であった会津の敗北は、東北における新政府軍の勝利を決定づけた。
江戸開城を受け入れず、榎本武揚は幕府艦隊を率いて蝦夷地へ渡った。土方歳三ら旧幕臣も合流し、箱館・五稜郭を拠点に新政府への抗戦を続ける構えを見せた。
榎本らは箱館に独自の政権を樹立し、幹部を選挙で選ぶという当時の日本では異例の統治形態(蝦夷共和国)を敷いた。榎本自身が総裁に選出された。
新政府軍が箱館総攻撃を開始すると、土方歳三は市街戦の中で指揮を執り続けたが、銃弾を受けて戦死した。旧幕府方最後の主要な武将の死であった。
抗戦を続けていた榎本武揚もついに降伏し、五稜郭は開城した。鳥羽・伏見の戦いから1年余り続いた戊辰戦争はここに終結し、日本全土が新政府のもとに統一された。
薩長土肥の四藩主が先導する形で、諸大名は土地(版)と人民(籍)を朝廷に返上した。藩主はそのまま知藩事に任じられ実質的な変化は限定的だったが、中央集権化への重要な一歩となった。
国民皆兵の近代的軍制を進めようとした大村は、特権を奪われることを恐れる旧士族に京都で襲撃され、その傷がもとで没した。近代化への抵抗が早くも表面化した事件であった。
薩長土から集められた御親兵を背景に、政府は一挙に全国の藩を廃止し府県を置く廃藩置県を断行した。これにより中央集権的な近代国家の統治機構が実質的に確立した。
岩倉具視を全権大使とし、大久保利通・伊藤博文らを含む大規模な使節団が不平等条約改正の予備交渉と欧米の制度視察のため出発した。約2年に及ぶ視察は、帰国後の政府の近代化路線を大きく方向づけた。
山県有朋の主導により、士族・平民の区別なく満20歳男子に兵役の義務を課す徴兵令が公布された。武士階級による軍事独占の終わりを告げるものであった。
従来の米による年貢に代え、地価を基準に現金で納税させる地租改正が実施された。政府の安定財源を確保する一方、農民には新たな負担も生じ、各地で地租改正反対一揆も起こった。
国交交渉が難航する朝鮮への使節派遣(事実上の武力行使も辞さない構え)を巡り、西郷隆盛らと、内治優先を説く岩倉使節団帰国組の大久保利通らが激しく対立した。西郷の使節派遣は退けられ、西郷・板垣・江藤ら参議が一斉に下野した。弟の従道は政府に残留し、兄弟の道は分かれた。
下野した板垣退助・後藤象二郎らは、少数の有司による専制を批判し、広く民意を反映する議会の設立を求める建白書を政府に提出した。自由民権運動の出発点となる出来事である。
征韓論政変で下野した江藤新平は、郷里佐賀の不平士族に擁されて挙兵したが、大久保利通が直接指揮する政府軍に鎮圧された。江藤は捕らえられ、裁判の手続きも簡略化されたまま梟首という異例の厳しさで処刑された。
維新の元勲でありながら政府への不満を強めていた前原一誠が、郷里萩で不平士族を率いて挙兵したが、ほどなく鎮圧された。前原は捕らえられ処刑された。士族反乱の連鎖は西南戦争へとつながっていく。
鹿児島に下野していた西郷隆盛は、政府への不満を募らせる私学校生徒たちに擁立される形で挙兵した。士族反乱としては最大規模となる西南戦争の始まりである。
西郷軍は熊本城を包囲するが、政府軍守備隊の頑強な抵抗により攻略できず、貴重な時間を空費した。この間に政府軍の増援が続々と九州へ集結していく。
熊本城救援に向かう政府軍と西郷軍が、田原坂で17日間におよぶ激戦を繰り広げた。装備・物量に勝る政府軍が徐々に優勢となり、西郷軍は退却を余儀なくされた。西南戦争最大の激戦として知られる。
田原坂での敗北後、西郷軍は各地を転戦しながら次第に兵力を失い、最終的に本拠地の鹿児島・城山へと追い詰められていった。
政府軍に完全包囲された西郷軍は城山に立てこもるが、総攻撃を受けて壊滅した。西郷隆盛は銃弾を受けた後、介錯を受けて自刃した。桐野利秋も同じ戦いで戦死し、明治維新最大の内戦・西南戦争は終結した。
西南戦争の終結から半年余り、大久保利通は出仕の途上、士族反乱の続発に不満を抱く不平士族らに紀尾井坂で襲撃され暗殺された。西郷・木戸に続き大久保も世を去り、「維新の三傑」はここに全員が世を去った。