同君連合の成立 — 一人の王が二つの王国を戴く
政治エリザベス1世が子を残さずに没し、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王位を継いだ。二つの王国は議会も法も教会もそれぞれ別のまま、同じ王を戴くことになる。王は一つの国への統合を望んだが、両方の議会に拒まれた。
エリザベス1世が子を残さずに没し、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王位を継いだ。二つの王国は議会も法も教会もそれぞれ別のまま、同じ王を戴くことになる。王は一つの国への統合を望んだが、両方の議会に拒まれた。
カトリックへの寛容が進まないことに絶望した一団が、開会中の議事堂の地下に火薬を仕掛けた。密告で未然に防がれ、関係者は処刑される。以後カトリックへの取り締まりは強まり、宗教が政治の亀裂として固定された。
株式会社が資金を集めて北米に恒久的な入植地を築いた。最初の数年は飢えと病でほとんどが死んだが、タバコの栽培が始まると採算が立つ。国家ではなく会社が植民地を開くという形が、以後の帝国の作り方になった。
反乱で没収したアイルランド北部の土地に、イングランドとスコットランドからプロテスタントの入植者が計画的に送り込まれた。既存の住民は条件の悪い土地へ移される。信仰と出自で分かれた社会の構造が、この政策で作られた。
国教会とピューリタンの対立を収めるため、王の命令で五十人近い学者が七年をかけて訳した。教会で読み上げられることを前提に、耳で聞いて分かる韻律が選ばれている。英語の散文の規範として、以後三百年読み継がれた。
国教会に従うことを拒む一団がオランダを経て北米へ渡った。上陸前に多数決で自治を取り決める文書を交わしている。信仰の統一を求めた国内の政策が、大西洋の向こうに別の社会を作らせた。
議会の同意のない課税、理由を示さない逮捕、民家への兵士の宿営、平時の戒厳令を禁じる文書が、戦費を必要とする王に受け入れさせられた。マグナ・カルタを持ち出して起草したのは老法律家コークである。以後の憲法上の議論の基礎になった。
王は議会を解散し、十一年にわたって招集しなかった。船舶税など古い名目の課税を内陸にまで広げ、星室庁で反対者を裁く。財政は回ったが、課税の正当性を争う裁判が各地で起こり、統治への同意が細っていった。
内陸のバッキンガムシャーに課された船舶税の支払いを、地主ハムデンが拒んで裁かれた。判決は僅差で政府側の勝ちだったが、王の課税権をめぐる議論が全国に知れ渡る。裁判が政治の争点を広める装置として働いた。
国教会式の祈祷書をスコットランドに強いたところ、長老派が国民盟約に署名して武装した。二度の遠征に失敗し、賠償金を課される。その支払いのために王は十一年ぶりに議会を呼ばねばならなくなった。
戦費のために招集された議会は、ただちに星室庁を廃し、三年に一度の招集を義務づけ、議会の同意なしに解散されないと定めた。ストラフォードは私権剥奪法で処刑される。王が呼び戻した議会が、王の権限を次々に削っていった。
王は兵を連れて下院の議場に入り、五人の議員を逮捕しようとした。全員が事前に逃れており、議長は彼らの居場所を答えることを拒む。国王が下院に立ち入った最後の日となり、王はその数日後にロンドンを離れた。
王が軍旗を掲げて開戦した。おおよそ北部と西部とウェールズが王党派、ロンドンと南東部とイースト・アングリアが議会派につく。港と艦隊と関税収入を握った議会派が、長期戦で有利に立った。
議会派とスコットランド盟約派の連合軍が王党派を破り、イングランド北部が王の手から離れた。クロムウェルの騎兵が追撃に出ず、隊列を保って戦場に留まったことが勝因とされる。ルパート公はこの騎兵を鉄騎隊と呼んだ。
身分ではなく能力で将校を選び、給与を国庫から定期的に払う常備軍が編成された。ネイズビーで王党派の主力を壊滅させ、王の私信を鹵獲する。そこにはカトリック勢力への援助要請が書かれており、公開されて王の立場を決定的に損なった。
勝利した軍の内部で、将校と兵士の代表が新しい国制を議論した。水平派は財産に関わらない成人男子の選挙権を求め、将校側は財産を持つ者だけが国に利害を持つと反論する。議論は決裂し、以後水平派は弾圧された。
王との交渉を続けようとする議員を、大佐プライドの部隊が議場の入口で選別して締め出した。残った百人足らずが残部議会と呼ばれ、翌月に国王の裁判を決める。軍が議会の構成を決めるという前例がここで作られた。
軍が議会から反対派を排除し、残った議員が特別法廷を設けて王を裁いた。王は法廷の正当性を認めず弁明を拒む。ホワイトホールの前で公開処刑され、群衆から呻きが上がったと複数の証言が伝える。共和国が宣言された。
ドロヘダとウェックスフォードで守備隊と住民が大量に殺され、以後の抵抗は急速に崩れた。土地はカトリック地主から取り上げられ、議会への貸し手と兵士へ分配される。アイルランドの土地所有はこの数年で決定的に入れ替わった。
処刑された王の子を新しい王として迎えたスコットランドに対し、クロムウェルが遠征した。数で劣り病に苦しむ状況から夜明けの奇襲で勝ち、翌年ウスターでも破る。スコットランドは初めて武力で併合された。
イングランドとその植民地への輸入を、自国船か産出国の船に限る法が定められた。中継貿易で栄えるオランダを直接に狙ったもので、翌年からの三度の英蘭戦争を招く。海運と海軍を国家が育てる政策の出発点になった。
クロムウェルは残部議会を実力で解散し、成文憲法のもとで護国卿となった。イングランド・スコットランド・アイルランドが一つの議会に代表を送る体制が初めて作られる。地方は軍の少将たちに分割して統治させた。
クロムウェルの死後、軍の内部が割れて統治が回らなくなった。スコットランド駐留軍のマンクがロンドンへ進み、議会を再開させて王を呼び戻す。王は復讐を弑逆者に限ると約束し、十一年の共和政は終わった。
自然について実験で確かめる集まりが、王の特許状を得て公認された。権威ある人の言葉ではなく実験を根拠にするという姿勢を、標語として掲げている。学会誌が創刊され、成果を公表して検証を受ける仕組みが整った。
前年のペストで市の人口の五分の一近くが死に、翌年の大火で市域の八割が焼けた。再建では木造の密集を避けて煉瓦と石が義務づけられ、道幅が広げられる。セント・ポール大聖堂はレンの設計で建て直された。
第二次英蘭戦争で、オランダ艦隊がテムズ河口を遡って停泊中の軍艦を焼き、旗艦を曳航して帰った。戦費を節約して艦隊を係留していたことが招いた事態である。海軍史上最悪の屈辱として記録され、クラレンドンが失脚した。
王がカトリックへの寛容を進めようとしたのに対し、議会は公職に就く者に国教会の儀式への参加を義務づけた。この法により王弟ジェームズが海軍卿を辞し、カトリックであることが公になる。王位継承をめぐる十年の争いが始まった。
カトリックの王弟を継承から外す法案をめぐり、賛成する側と反対する側が全国規模で組織的に運動した。互いを罵る言葉として使われたホイッグとトーリーが、そのまま政党の名として定着する。同じ年に人身保護法も成立した。
拘束された者の身柄を裁判所へ出させ、拘束の理由を示させる手続きが法として固められた。理由を示さない投獄を封じるこの仕組みは、権利の請願からの半世紀の争点だった。英語圏の刑事手続きの基礎になっている。
ジェームズ2世に男子が生まれ、カトリックの王朝が続くと見た有力者たちがオランダのウィレムを招いた。ウィレムは大軍とともに上陸し、王の軍は崩れて王は亡命する。ほとんど戦闘なく王朝が替わった。
議会の同意なき課税と常備軍の維持、法の停止、議会での言論への訴追を禁じ、頻繁な議会の開催を定めた。王位はこれを受け入れることを条件に与えられる。王が議会に先立つのではなく、議会が王を作るという関係が明文になった。
ジェームズ2世の軍が迫ったとき、市の見習い工たちが独断で城門を閉じた。百五日の籠城で市民の四分の一が飢えと病で死に、川の防柵が破られて解囲される。降伏せずという言葉がこの籠城から残った。
亡命したジェームズ2世はフランスの支援を得てアイルランドへ渡り、ウィリアムと対決して敗れた。翌年リムリックが降伏し、カトリックの土地所有と公職への道は刑罰法によってさらに狭められる。少数の地主が島を支配する体制が固まった。
運動の三法則と万有引力によって、惑星の軌道と落ちる物体を一つの体系で説明した。ハレーが自費で出版している。自然が数学の言葉で書かれているという確信が、以後の科学と工学の前提になった。
新王への忠誠の誓いが期限に数日遅れたことを口実に、マクドナルド氏族が政府軍に襲われた。兵は十日以上その家に泊まって歓待を受けたうえで、明け方に手をかけている。ハイランドで政府への不信が固まった。
フランスとの戦費を賄うため、出資者に利子を払う長期の国債を発行し、その管理のために銀行が作られた。議会が課税で返済を保証するため、王個人の借金より信用が高い。国家が安く大量に借りられる仕組みが、以後の戦争と帝国を支えた。
スコットランドが独自の植民地を中米に築こうとして、国内の資本の四分の一を注ぎ込んだ。熱病と補給の失敗で二千人が死に、計画は全損に終わる。この破綻が、九年後の合同を受け入れる大きな理由になった。
王位はプロテスタントに限ると定め、ハノーファー選帝侯家に継承権を移した。血統の近い五十人以上のカトリックが飛び越されている。議会が王朝そのものを選ぶという原則が、ここで最も明確な形をとった。
北海沿岸から五百キロを行軍したマールバラ公が、オイゲン公と合流してフランス・バイエルン連合軍を壊滅させた。ウィーンが救われ、ルイ14世の四十年に及ぶ優位が終わる。行軍の目的地は最後まで秘匿されていた。
イングランドとスコットランドが合同し、グレートブリテン王国が成立した。スコットランドは議会を失う代わりに、イングランドの市場と植民地への参入を認められる。ダリエン計画の破綻で困窮していたことが、合意の後押しになった。
スペイン継承戦争の講和で、ジブラルタルとメノルカ、ニューファンドランドとノヴァスコシアを得た。加えてスペイン領植民地への奴隷供給の独占権を三十年間認められる。地中海と大西洋の両方に足場ができた。
国債を株式に転換する計画をめぐって南海会社の株価が急騰し、半年で崩れた。多数の議員と閣僚が関与しており、政界は大混乱に陥る。収拾にあたったウォルポールが信用を得て、以後二十一年の政権につながった。
王が閣議に出席しなくなったこともあり、大臣たちの合議が国政の中心になった。ウォルポールは下院の多数を保ち続け、二十一年にわたり政権を握る。首相という語はもとは悪口だったが、その職務が慣行として定着した。
密輸を防ぐために酒と煙草を倉庫で管理して課税する案が、役人の家宅捜索を招くとして猛反発を受けた。全国で反対の請願と暴動が起き、ウォルポールは可決の見込みがありながら撤回する。世論が政策を止めた早い例である。
スペインの沿岸警備隊に耳を切り取られたという船長の訴えが議会で取り上げられ、開戦の世論が高まった。二十年間戦争を避けてきたウォルポールは押し切られ、以後求心力を失う。カリブ海での戦闘は失敗続きだった。
国教会の司祭ジョン・ウェスレーが、教会に来ない鉱夫や労働者のもとへ出向いて野外で説教を始めた。組を作って互いに励まし合う仕組みが、工業地帯の労働者に広がる。後年の労働運動の組織の作り方にも影響した。
ジェームズ2世の孫がハイランドの氏族を集め、エディンバラを占領してイングランド中部のダービーまで南下した。しかしイングランドでの支持もフランスの上陸も無く、引き返す。ロンドンでは一時的に取り付け騒ぎが起きた。
ぬかるんだ荒野で、砲と銃列を備えた政府軍がハイランドの突撃を四十分で粉砕した。その後の掃討は徹底し、氏族長の司法権は廃され、タータンとバグパイプも禁じられる。ブリテン島で戦われた最後の会戦になった。
安価なジンの氾濫でロンドンの死亡率が出生率を上回る状態が続いた。小売の免許を高くして流通を絞る法が定められ、消費は数年で大きく減る。都市に集まった貧困層の暮らしが、統治の問題として扱われ始めた。
東インド会社の三千の兵が、ベンガル太守の五万に勝った。実際には太守の司令官と銀行家を事前に抱き込んでおり、戦闘はほとんど行われていない。会社は徴税権を得て、商社から統治機構へ変わり始めた。
ウルフの軍が夜半に断崖を登り、城塞の背後の平原に現れた。会戦は十五分で決し、両軍の司令官がともに戦死する。この年はインド・西アフリカ・カリブ海・ヨーロッパでも勝報が続き、奇跡の年と呼ばれた。
七年戦争の講和でカナダとミシシッピ以東、フロリダ、インドの覇権を得た。しかし戦費で国債は倍増し、北米の防衛費をどう賄うかが新たな問題になる。植民地に負担を求める決定が、十二年後の独立戦争を招いた。
北米の防衛費を賄うため、印刷物と証書に印紙を義務づけた。植民地は本国議会に代表を送っていないとして拒否し、不買運動で撤回させる。しかし議会は同時に、植民地に対して立法する権限を持つと宣言した。
ジェームズ・クックは三度の航海でニュージーランドとオーストラリア東岸を測量し、正確な海図を残した。食事の管理で壊血病をほぼ防いだことも大きい。この航海の記録が、十八年後の流刑植民地の建設に繋がった。
東インド会社の茶に独占的な販売を認めたことに反発し、船荷が海へ投げ込まれた。本国は港の閉鎖と自治の停止で応じ、植民地側は大陸会議を開いて結束する。制裁が反対勢力をまとめてしまった。
ベンガルの徴税を握った東インド会社が経営難に陥り、政府に救済を求めた。議会は資金を出す代わりに総督を置き、会社の統治に監督を及ぼす。私企業がインドを統治するという形が、ここから公的な支配へ移り始めた。
分業が生産力を高め、各人の利益の追求が結果として社会全体の富を増すと論じた。植民地を囲い込む重商主義と、東インド会社のような特権会社を明確に批判している。刊行はアメリカ独立宣言と同じ年である。
フランス艦隊が海上を封鎖し、退路を断たれたイギリス軍が降伏した。二年後のパリ条約で十三植民地の独立を承認する。ノース内閣は議会の不信任で倒れ、帝国の重心はインドと東方へ移った。
北米を失って流刑先が無くなり、千人余りを乗せた船団がシドニー湾に着いた。以後八十年で十六万人が送られる。先住民の社会は疫病と土地の収奪で急速に破壊され、その影響はいまも続いている。
炭鉱からマンチェスターまで運河が引かれ、石炭の輸送費が大きく下がった。以後三十年で全国に運河が掘られ、重い荷を安く運べるようになる。鉄道が来るまでの工業化を、水路が支えた。
蒸気を別の容器で冷やす分離凝縮器によって燃料の消費が大きく減り、回転運動への変換で工場の機械を動かせるようになった。水車のある川沿いに縛られていた工場が、石炭のある場所や港の近くに建てられる。
水力紡績機を並べた大規模な工場が川沿いに建てられ、数百人が交代制で昼夜働いた。家で自分の都合で織っていた仕事が、時計と規則に従う働き方に置き換わる。機械よりも、この働き方の仕組みが広がった。
コークスによる製鉄が確立し、その鉄だけで橋が架けられた。石でも木でもない材料で構造物を作れると示したことが大きい。以後、鉄は機械と鉄道と建築の共通の素材になっていった。
個別の議会法で進められていた土地の囲い込みを、まとめて処理する法が定められた。農業の生産性は上がったが、共同地で家畜を飼って暮らしていた層は土地を失う。都市の工場へ人が流れる条件がここで整った。
廃止法案は二十年にわたり否決され続けたが、請願と不買運動で世論が動き、ついに可決された。以後は海軍の艦隊が大西洋で奴隷船の取締りにあたる。奴隷制そのものの廃止はさらに二十六年後になった。
戦時の不況と機械化で職を失った織工が、工場の機械を壊して回った。政府は機械の破壊に死刑を科し、数千の兵を投入して鎮圧する。技術そのものへの反対というより、賃金と慣行を守る交渉の手段だったとする見方が強い。
旅客と貨物を蒸気機関車で定時に運ぶ最初の本格的な鉄道が開通した。二十年で全国に網が広がり、人と物の移動の速さが一桁変わる。各地でばらばらだった時刻が、鉄道の時刻表に合わせて統一されていった。
フランス革命の波及を恐れ、政府は人身保護法を停止し、五十人を超える集会に許可を要するとした。労働者の団結も禁じられる。フランスと戦うために、国内では権利の章典が定めた自由を自ら止めた。
三年前の蜂起とフランス軍の上陸を受け、アイルランド議会を廃してロンドンの議会に統合した。ピットはカトリックの公職就任を認める約束と抱き合わせにする構想だったが、国王が拒んで辞職する。合同だけが残った。
ネルソンの艦隊が仏西連合艦隊を破り、本土侵攻の可能性が消えた。以後一世紀にわたり、海の支配権を争う相手はいなくなる。ネルソン自身はこの戦闘で戦死し、国葬に付された。
ヨーロッパの港から締め出されたイギリスは、密輸の網を広げ、南米と東方へ市場を移した。一時的な不況は起きたが、封鎖の側の同盟国のほうが物資の欠乏に苦しむ。海の支配を握っている側が経済戦争でも優位に立った。
ポルトガルに上陸したイギリス軍が、六年にわたりフランス軍を削り続けた。現地のゲリラと連携し、補給線を断ちながら退いては攻める。ナポレオンはこの戦線を自らの潰瘍と呼び、三十万の兵を釘づけにされた。
稜線の裏に兵を伏せて砲撃と突撃をしのぎ、プロイセン軍の到着で決着をつけた。二十二年の戦争が終わり、以後一世紀にわたって列強どうしの全面戦争は起きない。海と工業を握った国が、その一世紀の主役になった。
選挙法改正を求めて六万人が集まった集会に義勇騎兵が突入し、十数人が死んだ。政府は取り締まりを強める六法で応じる。しかしこの事件が改革を求める世論を全国的に固め、十三年後の第一次改正へ通じた。
オコンネルがアイルランドで当選しながら議席に就けない状況を作り出し、政府に決断を迫った。カトリックへの反対で知られたウェリントンとピールが、アイルランドでの内戦を避けるために自ら法案を通す。保守党は分裂した。
有権者がわずかしかいない腐敗選挙区を廃し、マンチェスターやバーミンガムといった産業都市に議席を配分した。有権者は成人男子の五人に一人程度にとどまる。しかし議席の配分を動かせると示したことが、その後の改正の道を開いた。
帝国内の奴隷制が廃止され、八十万人が解放された。ただし補償金二千万ポンドは所有者の側に支払われ、解放された人々には徒弟としての無償労働が数年課された。ウィルバーフォースは法案の通過を見て三日後に没した。
九歳未満の就労を禁じ、年少者の労働時間を制限した。重要なのは、守らせるために有給の工場監督官を置いたことである。国家が私企業の現場に立ち入って調べるという仕組みが、ここで初めて実効を持った。
在宅での援助をやめ、救う相手を救貧院に集めた。院内の暮らしは最下層の労働者より悪くすると定められ、夫婦も親子も引き離される。費用は減ったが、貧困を本人の怠惰と見る考えが制度として固定された。
成人男子の普通選挙、秘密投票、議員の財産資格の廃止、議員への歳費、平等な選挙区、毎年の議会という六項目を掲げた運動が起こった。三度の大請願はいずれも議会に退けられる。しかし六項目のうち五つは、その後の数十年で実現した。
新しい救貧法のもとで運営される救貧院の実態を、孤児の目から描いた。分冊での連載という売り方が読者層を大きく広げ、制度への批判が世論として共有される。作者自身が少年時代に工場で働いた経験を土台にしている。
茶の輸入で流出する銀を、インド産アヘンの密売で埋め合わせていた。清がこれを取り締まると艦隊が送られ、南京条約で香港の割譲と五港の開港を認めさせる。自由貿易の要求が砲艦によって通された。
距離に関わらず一律の料金を前払いし、切手を貼るという仕組みが始まった。郵便物は数年で四倍になり、通信が一部の富裕層のものでなくなる。鉄道と組み合わさって、情報の流れが一段速くなった。
ジャガイモの疫病で主食が四年続けて失われた。人口の八百万のうち百万が死に、百万が海を渡る。飢饉の間も穀物と家畜は島から輸出され続けており、政府の対応が市場への介入を避けたことは長く批判されている。
輸入穀物への関税が食料を高くしていた。反穀物法同盟の運動とアイルランドの飢饉を前に、地主層を基盤とする保守党の首相ピールが自ら廃止を決断する。法は野党の票で通り、保守党は分裂して彼は失脚した。
大陸各地で王政が倒れたこの年、チャーティストは三度目の大請願を掲げて集会を開いた。政府は特別警察を組織し、ウェリントンが防備を指揮する。集会は平穏に解散し、請願は署名の水増しを指摘されて退けられた。
医師ジョン・スノウがコレラの死者の住所を地図に落とし、一つの井戸に集中していることを示した。悪い空気が原因という当時の通説に対し、水が媒介だと論じる。井戸のポンプの柄が外され、流行は収まった。
鉄とガラスだけで組み上げた建物に、各国の産物と機械が並べられた。六百万人が訪れ、鉄道の割引運賃で地方から労働者が団体で見物に来る。工業の力を国民の誇りとして共有させた最初の大規模な催しである。
ロシアの南下を止めるためフランスと組んで戦った。電信で戦況が数日で本国に届き、新聞記者と写真家が現地から報じる。軽騎兵旅団の突撃と野戦病院の惨状が世論を動かし、軍の制度が問い直された。
会社の傭兵の反乱から始まり、北インド一帯に広がった。鎮圧は双方に苛烈な報復を伴う。翌年、東インド会社は解散して統治は本国政府に移り、女王の名による直接統治が始まった。
猛暑でテムズ川の汚物が腐り、議事堂の窓に石灰を浸した布を垂らしても耐えられなくなった。議会は十八日で予算を通し、バザルジェットの設計で全長二千キロの下水道が作られる。以後コレラの大流行は起きなくなった。
生物が共通の祖先から自然選択によって分かれてきたと論じた。二十年ためらった末の刊行で、初版は刊行日に売り切れる。人間の位置づけを含めて世界の見方が変わり、科学と信仰の関係が公の論争になった。
二度の失敗のあと、大型船で海底ケーブルを敷き終えた。それまで船で十日かかった大西洋の通信が数分になる。以後、ロンドンは電信網の結節点として、金融と情報の両面で世界の中心になった。
都市の戸主に選挙権が広がり、有権者は倍増した。保守党のディズレーリが自由党の案を上回る内容で通したもので、暗闇への跳躍と評される。以後、政党は労働者の票を意識して組織と政策を作り替えていった。
各国を追われた著者がロンドンで三十年を過ごし、閲覧室にこもって書いた。素材の多くは議会が刊行した工場監督官の報告書と統計である。最も資本主義が進んだ国が、その最も体系的な批判を生む場所になった。
教会の学校が足りない地域に、地方の教育委員会が学校を設けることを定めた。以後の法で就学は義務となり、無償化される。三年前の選挙法改正で票を得た層に読み書きを、という動機が公然と語られた。
消息を絶っていた宣教師探検家を、アメリカの新聞社が派遣した記者が探し当てた。その報道が読者の関心を集め、アフリカ内陸への視線が一気に高まる。探検の記録と地図は、その後の分割の下敷きになった。
労働組合が法的な存在として認められ、資産を守れるようになった。四年後には平和的な争議行為も刑事罰から外れる。八十年近く犯罪として扱われてきた団結が、制度の内側に入った。
財政難のエジプト太守が持つ運河会社の株を、ディズレーリがロスチャイルドから借りた四百万ポンドで買い取った。議会は閉会中で、事後承認を求めている。インドへの最短路を握ったことが、以後のエジプト支配へ通じた。
デリーで盛大な式典が催され、女王がインド女帝を名乗った。統治は二十年前に会社から政府へ移っていたが、これによって帝国という枠組みが目に見える形になる。称号は君主と植民地を直接に結びつけた。
各国がアフリカでの勢力圏の原則を取り決めた。イギリスはエジプトから南アフリカまでを繋ぐ構想のもとで内陸へ進む。二十年ほどのあいだに大陸のほとんどが分割され、その線引きは現在の国境にほぼそのまま残った。
グラッドストンはアイルランドに自前の議会を与える法案を提出したが、自党から反対派が離脱して否決された。七年後の二度目は下院を通ったが貴族院に退けられる。自治の実現は先送りされ、独立運動が力を得ていった。
在位六十年の式典に、帝国各地から軍と代表が集まって行進した。地上の四分の一を支配する国家の絶頂として演出される。同じ年、キプリングは驕りを戒める詩を発表し、この栄華もやがて過ぎると書いた。
金鉱をめぐる対立からボーア人の共和国と戦い、四十万を投入して三年かかった。ゲリラ戦に対し、農場を焼き民間人を収容所に集める方策が取られ、多数が病死する。国際的な非難を浴び、国内でも帝国のあり方が問い直された。
地上の四分の一と人口の四分の一を支配する国家の頂点で、女王が没した。生まれたときは馬車の時代で、死ぬときには鉄道と電信と蒸気船が世界を結んでいる。時代の名がそのまま一人の生涯と重なった。
組合と社会主義団体が集まり、労働者の代表を議会へ送るための組織を作った。六年後に労働党と改称する。組合が合法化されて三十年、権利を守る側から法を作る側へ回るという段階に入った。
エジプトとモロッコでの互いの立場を認め合い、数百年の対立に区切りをつけた。三年後にはロシアとも協商を結ぶ。同盟を持たずに済ませてきた外交が、ドイツの海軍拡張を前に転換した。
同じ口径の主砲だけを並べ、蒸気タービンで速度を上げた戦艦が一年足らずで建造された。既存の戦艦がすべて旧式になり、各国の建艦競争は横一線から始め直しになる。最大の海軍を持つ国が、自らその優位を捨てた。
七十歳以上の低所得者に、救貧法によらない年金が支給された。三年後には疾病と失業の国民保険が続く。貧困を本人の責任とみなしてきた救貧法の考え方から、国家が制度で備えるという考え方への転換である。
年金と海軍の費用を賄うため、土地と高所得への課税を盛り込んだ予算が組まれた。貴族院が二百年の慣行を破ってこれを否決し、憲政の危機になる。選挙で信を問い、貴族院の権限そのものが争点になった。
予算については貴族院は修正も否決もできず、他の法案も二年遅らせられるだけとなった。国王が貴族の大量創出を認める意思を示したことで、貴族院は自ら可決する。第一章から続いた議会と特権の争いが、ここで決着した。
請願では動かないと見た運動が、窓を割り、建物に火を放ち、投獄されてはハンガーストライキで抵抗した。ダービーの競馬場で国王の馬の前に飛び出した一人が死亡する。政府は強制的な食物注入と再収監で応じた。
議会法によって貴族院が止められなくなり、三度目の自治法案が成立へ向かった。アルスターでは十万を超える義勇軍が武装し、南でも対抗する義勇軍が作られる。将校が北への出動を拒む事件も起き、法は大戦の勃発で施行が延期された。
ドイツ軍が中立国ベルギーへ侵入したことを理由に宣戦した。フランスとの協商は軍事同盟ではなく、参戦の可否は閣内でも割れていた。志願だけで百万を超える兵が集まり、二年後には徴兵制が導入される。
西部戦線の膠着を迂回しようと、オスマン領の海峡へ上陸した。八か月で二十万を超える死傷者を出して撤退する。オーストラリアとニュージーランドの部隊の損害が大きく、両国では国民の記憶の起点になった。
一週間の砲撃のあと歩兵が前進したが、鉄条網も掩蔽壕も破壊されていなかった。初日だけで約六万の死傷者を出す。四か月半で前進は十キロに満たず、志願兵で作られた部隊が町ごと失われた。
大戦のさなかにダブリンで共和国が宣言され、六日で鎮圧された。当初ダブリン市民の支持は薄かったが、指導者十五人が次々に銃殺されたことで空気が一変する。二年後の総選挙で独立派が圧勝した。
二十一歳以上のすべての男子と、三十歳以上で財産の要件を満たす女性に選挙権が与えられた。有権者は三倍近くになる。戦時に工場と農場を支えた事実が、反対を押し切る力になった。
百日攻勢のあとドイツが休戦に応じた。本国と帝国を合わせて百万近くが死に、国は債務国に転じる。世界最大の債権国だった立場をアメリカに譲り、経済の主導権が大西洋の向こうへ移った。
ロイド・ジョージはフランスの厳しい要求とアメリカの理想の間で調停に回った。大蔵省の代表として出席したケインズは、賠償が過大でヨーロッパ経済を壊すと論じて辞任し、その主張を本にする。中東の委任統治で版図は最大になった。
集会の禁止に反して集まった群衆に、退路の無い広場で射撃が命じられ、数百人が死んだ。指揮官は本国の一部から英雄扱いされ、それがインド側の失望を決定的にする。ガンディーはこれを機に非協力運動を始めた。
二年の独立戦争のあと、アイルランドはカナダと同じ自治領として自由国になった。北部六州は連合王国に残る。共和国でないことと国王への忠誠の宣誓が受け入れられず、条約に賛成する側と反対する側で内戦になった。
七百年以上イングランドの支配下にあった島の大部分が、自治領として分離した。アルスター9州のうち6州が連合王国に残り、国名も連合王国から「アイルランド」の語が改められる。この境界はいまも国境として残っている。
労働党が少数与党として政権に就いた。九か月で倒れたが、革命ではなく選挙で労働者の政党が政権を取れると示したことの意味は大きい。自由党はこれ以後、二大政党の一角から外れていく。
蔵相チャーチルは戦前と同じ平価で金本位制に戻した。ポンドが割高になり、輸出産業とりわけ石炭が打撃を受ける。ケインズはこの決定が失業を生むと予告し、翌年のゼネストで的中した。
炭鉱夫の賃下げに反対して百七十万人が同情ストに入った。政府は志願者を集めて輸送を維持し、九日で組合側が中止する。炭鉱夫だけが半年戦って敗れた。以後、政治は議会の場に集約されていく。
帝国会議が、本国と自治領は地位において対等であり、いずれも他方に従属しないと定義した。共通するのは国王への忠誠だけだとされる。五年後にこれを法にしたのがウェストミンスター憲章である。
受信料で運営し、政府からも広告主からも独立するという形の放送機関が特許状で作られた。前年のゼネストで放送の影響力が示されたことが背景にある。報道の独立をどう保つかという設計が、ここで一つの型になった。
女性の選挙年齢が男性と同じ二十一歳に引き下げられ、財産の要件も消えた。1832年の改正から九十六年かけて、成人であれば誰でも票を持つ状態になる。パンクハーストはこの法が成立した年に没した。
塩の専売に抗議して海岸まで三百八十キロを歩き、自ら塩を作った。誰にでも真似のできる違法行為を大量に起こすという方法で、統治の仕組みそのものを止める。数万人が投獄され、翌年ロンドンの円卓会議へ招かれた。
本国の議会は自治領のために法を作れなくなり、自治領は本国の法に縛られなくなった。カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ・アイルランド自由国が対等な地位を得る。帝国が連邦に変わる法的な瞬間である。