ニカイア公会議、アリウス派の排斥
政治・外交コンスタンティヌス1世が招集した最初の全教会規模の公会議。「父なる神と子なるキリストは同一の本質」とするニカイア信条が正統教義とされ、これに反するアリウスの説は異端とされた。国家が教義の統一に直接関与するという、以後の帝国の重要な伝統がここに始まった。
コンスタンティヌス1世が招集した最初の全教会規模の公会議。「父なる神と子なるキリストは同一の本質」とするニカイア信条が正統教義とされ、これに反するアリウスの説は異端とされた。国家が教義の統一に直接関与するという、以後の帝国の重要な伝統がここに始まった。
古代ギリシアの植民市ビザンティオンの地に「新しいローマ」として新首都が建設され、コンスタンティヌス1世自らの名にちなみコンスタンティノープルと命名された。以後1000年以上にわたり、この都は東方における「ローマ帝国」の中心であり続けることになる。
帝国を再統一し新首都を築いた初代皇帝が没した。臨終の床で洗礼を受けたと伝わり、生涯を通じてキリスト教への信仰と伝統的な皇帝崇拝の要素を併せ持ち続けたその複雑な立場は、キリスト教化していく帝国の過渡期を象徴している。
軍才を示していたユリアヌスが皇帝に即位すると、急速にキリスト教化していた帝国において伝統的な多神教の復興を試みた。キリスト教徒への直接的な迫害は避けつつも異教神殿の再建や哲学教育の振興を進めたが、その治世はわずか2年足らずで終わることになる。
ササン朝ペルシアへの大規模な遠征を敢行したユリアヌスは、撤退戦の混乱の中で受けた槍傷がもとで陣没した。異教復興の試みはこの若い皇帝の死と共に潰え、以後のローマ皇帝が再び異教に戻ることはなかった。
帝国領内への移住を認められながら不当な扱いに不満を募らせていた西ゴート族が蜂起し、フリティゲルン率いる軍がウァレンス率いるローマ軍を包囲殲滅した。皇帝自身も戦死するというローマ軍事史上稀に見る大敗であり、以後のゲルマン諸部族の帝国領内への本格的な浸透を象徴する転換点となった。
テオドシウス1世が発した勅令により、ニカイア信条に基づく三位一体のキリスト教が帝国の公式な国教と定められた。これにより異端とされた諸教派だけでなく、伝統的な多神教信仰も公的な地位を完全に失うことになった。
テオドシウス1世の招集により開かれた公会議で、ニカイア信条が再確認・拡充され(ニカイア・コンスタンティノープル信条)、コンスタンティノープル総主教座がローマに次ぐ第二の地位を持つと定められた。新首都の教会的地位を高めるこの決定は、後のローマとの対立の遠因の一つともなった。
全ローマを統一支配した最後の皇帝テオドシウス1世が没し、帝国は東の息子アルカディウスと西の息子ホノリウスに分割相続された。この分割は制度上は行政上の分担に過ぎなかったが、以後東西が再統合されることはなく、東側は独自の道を歩み続けることになる。
西ゴート王アラリックの軍勢がローマ市を略奪し、「永遠の都」の陥落は西方世界に衝撃を与えた。しかし東の帝国はこの動乱と直接の関わりを持たず無傷であり、東西の国力・安定度の差はこの一件を境に誰の目にも明らかになっていく。
テオドシウス2世の治世に築かれた三重の城壁は、以後1000年以上にわたりコンスタンティノープルを事実上難攻不落の都市たらしめた大事業である。この防御施設が、後の幾多のアヴァール・アラブ・ブルガリアによる包囲を退ける物理的な基盤となった。
キリストの神性と人性を分けて捉えるネストリウスの教説が、キュリロスら反対派の主導により異端と断じられた公会議。追放されたネストリウス派はペルシア方面へ逃れて独自の教会を形成し、その教えは後にシルクロードを経て唐代の中国へ「景教」として伝わることになる。
キリストの神性と人性は「混同されず分割されず」一体であるとする教義が正統と定められ、キリストの人性は神性に吸収されるとする単性論が異端とされた。この決定を受け入れないエジプト・シリアの単性論勢力は独自の教会(コプト教会・シリア正教会)を形成し、帝国からの離反を強めていく遠因となった。
ゲルマン系将軍オドアケルが西ローマ最後の皇帝を廃し、帝冠と紋章を東の皇帝ゼノンのもとへ送った。西方に皇帝が立てられることはもはやなく、以後コンスタンティノープルの皇帝が唯一かつ正統な「ローマ皇帝」を名乗り続けることになる。
皇帝ゼノンと総主教アカキオスが単性論派との融和を図る妥協文書「ヘノティコン」を発したことに対し、ローマ教皇がこれを容認せず双方が互いを破門した。東西教会は35年にわたり公式な交わりを絶ったままとなり、1054年の大シスマを先取りする最初の亀裂となった。
皇帝ゼノンの支援と黙認のもと西方へ進軍していた東ゴート王テオドリックが、和睦の宴の最中にオドアケルを自らの手で斬殺してイタリア王となった。名目上は東の皇帝の宗主権下にありながら、実際には独自に安定した統治を敷くこの王国が、以後半世紀にわたりイタリアを統治することになる。
アナスタシウス1世が断行した徹底的な財政改革により、腐敗した徴税制度が整理され新たな銅貨フォリスが安定的に流通するようになった。この改革によって蓄えられた莫大な国庫の黒字が、後のユスティニアヌスの野心的な再征服事業を資金面で可能にした。
ササン朝のカワード1世がビザンツ領メソポタミアへ侵攻し、506年まで断続的な国境紛争が続いた。両大国は決定的な決着をつけられぬまま和睦したが、この対立の構図は後継のホスロー1世・2世の代にさらに激化し、7世紀初頭の帝国存亡を賭けた大戦争へとつながっていく。
叔父ユスティヌス1世の甥として引き立てられていたユスティニアヌスが即位し、旅芸人の娘であった妻テオドラと共に、後に「大帝」と称される野心的な治世を開始した。「一つの帝国、一つの法、一つの教会」という理念のもと、古代ローマの栄光を最後にもう一度取り戻そうとする事業が始まる。
トリボニアヌスを中心とする法学者委員会が、千年にわたり蓄積された膨大なローマ法を体系的に整理統合する事業に着手した。同じ年、異教哲学の牙城であったアテナイのプラトンの学院(アカデメイア)が閉鎖され、古代ギリシア哲学の公的な伝統に一つの区切りがつけられた。
戦車競走の観客派閥の対立に端を発した暴動が皇帝退位要求にまで発展し、市街の大半が焼失する大惨事となった。逃亡を勧める重臣たちに対しテオドラが徹底抗戦を主張したと伝わり、最終的にベリサリウスらの軍が競技場に閉じ込めた暴徒数万人を殺害して鎮圧した。
ベリサリウス率いる遠征軍がトリカマルムの戦いでヴァンダル王ゲリメルを破り、1世紀近く独立を保っていたヴァンダル王国を滅ぼして北アフリカを帝国領に復帰させた。ユスティニアヌスの掲げる西方再征服事業の最初の大きな成功であった。
ニカの乱で焼失した旧聖堂に代わり、巨大なドームを特徴とする新たなハギア・ソフィア大聖堂がわずか5年余りで完成した。完成式典でユスティニアヌスは「ソロモンよ、私はあなたに勝った」と叫んだと伝わり、以後900年以上にわたりキリスト教世界最大の聖堂であり続けた。
イタリアの東ゴート王国に対する再征服戦争において、ベリサリウスが東ゴートの都ラヴェンナを陥落させた。一時は東ゴート側から西の皇帝として推戴される申し出まで受けたと伝わるが、これを固辞し忠誠を貫いた。
腺ペストとみられる疫病が帝国全土を襲い、首都だけでも人口の相当割合が失われたと伝わる。皇帝自身も感染しながら一命を取り留めたが、この大流行による労働力・徴税基盤の損失は、その後の帝国の国力に長期的な打撃を与えることになった。
それまで中国からの輸入に頼っていた絹の生産技術を得るため、ユスティニアヌスの命を受けた修道士が蚕の卵を杖の中に隠して密かに持ち帰ったと伝わる。これにより帝国は独自の絹産業を確立し、以後の重要な国家収入源の一つとなった。
ベリサリウス撤退後も抵抗を続けていたトーティラ率いる東ゴート軍が、老将ナルセスの軍にタギナエの戦いで敗れ王も戦死し、20年近くに及んだゴート戦争がついに終結した。イタリアは名目上帝国領に復帰したが、長期の戦乱で徹底的に荒廃し、往時の繁栄を取り戻すことはなかった。
38年の治世を経てユスティニアヌスが没した。帝国の版図は地中海のほぼ全域を覆う最大版図に達していたが、度重なる戦争と疫病により国力は限界まで消耗しており、その反動はわずか3年後のランゴバルド侵入という形ですぐに現れることになる。
ゲルマン系のランゴバルド族がイタリアへ侵入し、北部を中心に広範な領域を占領してランゴバルド王国を建てた。ユスティニアヌスがようやく回復させたばかりのイタリアは早くも大半を失うことになり、以後帝国はラヴェンナ周辺や南部の一部沿岸都市を保持するのみとなった。
ビザンツ帝国の帝位簒奪の混乱に乗じ、ササン朝のホスロー2世が大規模な侵攻を開始した。この戦争は四半世紀以上にわたり続き、両大国とも国力を根底から使い果たすことになる、古代世界最後にして最大級の全面戦争となった。
アフリカ総督の子ヘラクレイオスが暴君フォカスを打倒し即位した。この治世を境に帝国の公用語は実質的にラテン語からギリシア語へと切り替わり、以後の「ビザンツ帝国」の文化的性格をより明確に方向づけることになった。
ホスロー2世率いるペルシア軍がエルサレムを陥落させ、キリスト教世界最大の聖遺物とされた「聖十字架」を戦利品として持ち去った。この衝撃はキリスト教世界全体に及び、帝国の存亡そのものが疑われる危機的状況の象徴となった。
ヘラクレイオスが遠くカフカス方面へ反攻に出ている隙を突き、アヴァール可汗国とペルシア軍が呼応してコンスタンティノープルを包囲した。しかし難攻不落の城壁と艦隊の防衛の前に攻略できず撤退し、帝国は滅亡の淵から辛くも脱した。
ヘラクレイオスが自ら率いた反攻軍が、ペルシア領深くまで進撃してササン朝軍を決定的に打ち破った。この勝利によりホスロー2世はまもなく息子に廃位・処刑され、四半世紀に及んだ大戦争はビザンツの勝利に終わったが、両国とも疲弊しきった状態で新たな脅威を迎えることになる。
ペルシアとの死闘で疲弊しきったビザンツ帝国に対し、新興のアラブ・ムスリム軍がハーリド・イブン・アル=ワリードの指揮のもと決定的な勝利を収めた。この敗北によりシリア・パレスチナの防衛は事実上崩壊し、ヘラクレイオスは撤退しながら「さらばシリアよ」と嘆いたと伝わる。かつての宿敵ササン朝を打倒したばかりのイスラーム勢力が、間を置かずビザンツの脅威にもなったことになる。
アラブ・ムスリム軍がエジプトを征服し、帝国は首都の食糧供給を長く支えてきた最重要の穀倉地帯を永久に失った。シリアに続くこの喪失により、帝国の版図と経済基盤は決定的に縮小することになった。
ウマイヤ朝の大艦隊が674年から678年にかけて断続的にコンスタンティノープルを包囲したが、この戦いで初めて実戦投入された新兵器「ギリシア火」(水上でも燃え続ける火炎放射兵器)を用いたビザンツ艦隊の抵抗によって撃退された。製法は国家最高機密として厳重に秘匿された。
キリストに神の意志と人の意志という二つの意志があるとする「単意論」を異端と断じた公会議。単性論に代わる新たな妥協案として提示されていたこの教義も否定されたことで、帝国と離反状態にあったエジプト・シリアの単性論教会との断絶はいっそう決定的なものとなった。
ユスティニアヌスが再征服して以来帝国領であった北アフリカの中心都市カルタゴが、ウマイヤ朝の攻撃により陥落した。これにより帝国は北アフリカにおける最後の拠点を失い、地中海西部における影響力は大きく後退した。
ウマイヤ朝は大艦隊と大軍でビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを再び包囲したが、即位したばかりのレオン3世が指揮する籠城戦の前に攻めあぐね、ギリシア火や厳しい冬の寒さ、疫病の流行により翌年撤退を余儀なくされた。この失敗により、東方からのヨーロッパ本土への直接的な進出は決定的に頓挫し、フランク王国のトゥール・ポワティエ間の戦い(732年)と並び称される歴史の分岐点となった。
レオン3世が聖像(イコン)崇敬を偶像崇拝であるとして禁じる勅令を発した。度重なる軍事的苦境が神の怒りの表れだとする見方や、聖像を用いないイスラーム・ユダヤ教への対抗意識が背景にあるとされ、以後一世紀以上にわたり帝国を二分する聖像破壊運動(イコノクラスム)が始まった。
小アジアに侵攻してきたウマイヤ朝軍を、レオン3世とその子コンスタンティノス5世が率いる軍が撃退した勝利。この勝利以降、東方国境は比較的安定し、帝国はイスラーム勢力の攻勢に対しようやく守勢一辺倒から脱しつつあった。
コンスタンティノス5世が招集した教会会議で、聖像崇敬を偶像崇拝として明確に断罪する教義が採択された。しかし総主教座の代表を欠くなど正統性に難があり、後の第2ニカイア公会議によって「エキュメニカル(全教会規模)」な公会議としての地位を否定されることになる。
摂政エイレーネーの主導により開かれた公会議で、聖像は崇拝の対象ではなく崇敬(尊重)の対象であるとする教義的な区別を立てて聖像崇敬を正統と認め直した。しかし帝国内の軍部を中心とする根強い聖像破壊派の勢力はなお健在で、対立の火種は残り続けた。
ローマ教皇レオ3世が、西欧の大半を統一したフランク王カールに「ローマ皇帝」の帝冠を授けた。コンスタンティノープルでは女帝エイレーネーが統治しており、「東の帝位は女性には空位も同然」という西方側の論理も戴冠の一因とされる。以後、東西で並立する二人の「ローマ皇帝」の正統性を巡る対立が、両世界の分断を象徴する構図として長く尾を引くことになった。
ブルガリアとの戦いでの敗北などが「聖像崇敬への神の罰」と結びつけて論じられたことを背景に、レオン5世が聖像破壊政策を復活させた。修道院長テオドロス・ステュディテスをはじめとする聖像崇敬派の聖職者は激しい弾圧と流罪に見舞われたが、屈服しない抵抗を続けた。
幼帝ミカエル3世の摂政テオドラのもとで聖像崇敬が最終的かつ恒久的に回復された。この日は以後「正教の勝利」としてギリシア正教会の祝日となり、120年近くにわたり帝国を二分してきた聖像を巡る対立にようやく終止符が打たれた。
皇帝の命を受けた兄弟の学僧がモラヴィアへ派遣され、スラヴ語を表記するための独自の文字を考案して聖書と典礼を翻訳した。この文字はキリル文字として発展し、以後のスラヴ世界の正教化とビザンツ文化圏の拡大における最も重要な事業の一つとなった。
農民出身から立身したバシレイオス1世が先帝を暗殺して即位し、マケドニア朝を開いた。出自は簒奪者ながら、以後150年続くこの王朝の下で帝国は軍事・経済・文化のあらゆる面で最も安定した黄金時代を迎えることになる。
古代ギリシア・ローマの古典文献の収集・書写、精緻な写本装飾、モザイク芸術の復興など、マケドニア朝下で古典文化への回帰を特徴とする文化的復興が花開いた。この時代に書写・編纂された古典文献の多くが、現代にまで伝わる最古の写本の源流となっている。
レオン6世が、父の代から進められていた法典編纂事業を完成させ、ユスティニアヌスの『ローマ法大全』(ラテン語)をギリシア語に翻訳・再編した体系的な法令集『バシリカ法典』を発布した。以後の帝国の基本法典として長く用いられ続けた。
自ら「ブルガリア人とローマ人の皇帝」を称するブルガリア王シメオン1世の攻勢を背景に、アラブ艦隊が帝国第二の都市テッサロニキを襲撃・略奪した。この時期の帝国は東西両面での圧力に苦しみ、なお守勢を強いられ続けていた。
将軍ニケフォロス・フォカスが、1世紀以上にわたりイスラーム海賊の一大拠点となっていたクレタ島を奪回した。エーゲ海の安全を大きく回復させたこの勝利は、帝国が守勢から攻勢へ転じつつあることを象徴する画期となった。
既に皇帝となっていたニケフォロス2世フォカスの軍が、3世紀にわたりイスラーム勢力下にあった古都アンティオキアを奪回した。シリア方面での帝国領の回復は、7世紀の大喪失以来最大級の攻勢の成果であった。
キエフ大公ウラディーミル1世が、バシレイオス2世の妹アンナを妃に迎える条件として自らギリシア正教に改宗し、国家として正教を受容した。この改宗によりルーシはビザンツ文化圏に組み込まれ、キュリロスとメトディオスの築いたスラヴ語典礼の伝統とあいまって、以後のロシアの宗教的・文化的方向性を決定づけることになった。
バシレイオス2世率いる軍がブルガリア軍を峡谷で包囲殲滅した決定的な勝利。捕虜となった1万5000人のブルガリア兵の目をことごとくつぶし、100人に1人だけ片目を残して同胞を故郷まで導かせたという凄惨な処置が伝えられ、この戦いを機に皇帝は「ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)」の異名で呼ばれるようになった。
クレイディオンの大勝から4年、抵抗力を失ったブルガリア帝国がついに完全に併合された。40年近い死闘の末に成し遂げられたこの併合により、帝国の北方国境はドナウ川まで回復し、7世紀以来最大の版図を取り戻した。
半世紀近い治世を経てバシレイオス2世が没した。帝国は空前の版図と満杯の国庫を誇る絶頂期にあったが、生涯独身を貫き後継者を育てなかったため、この死を境に統治体制は急速に揺らぎ始め、マケドニア朝の栄光は長くは続かなかった。
キエフ大公国の艦隊がコンスタンティノープルへ来襲したが、ギリシア火を用いた迎撃により撃退された。ウラディーミル1世の改宗から半世紀余りを経てもなお散発的な軍事的緊張が残っていたことを示す一件であり、この後ルーシとの関係は次第に平和的な交易・宗教的紐帯へと移行していく。
典礼上の相違を巡る対立から、ローマ教皇特使フンベルトゥスが総主教ミカエル・ケルラリオスをハギア・ソフィア大聖堂の祭壇上で破門し、総主教も特使らを破門し返した。この相互破門は東西教会の恒久的な分裂(大シスマ)として、現代に至るまで解消されていない。
ノルマン人の首領ロベルト・イル・グイスカルドが、ビザンツ最後の南イタリア拠点バーリを陥落させた。5世紀近く保持していたイタリア半島の足場をこれで完全に失い、同じ年に東方でも大敗を喫することになる帝国にとって、まさに東西両面から国力が崩れ始める象徴的な年となった。
セルジューク朝のアルプ・アルスラーンが、ビザンツ皇帝ロマノス4世自らが率いる大軍を撃破し、皇帝を捕虜にした。この勝利によってアナトリア(小アジア)へのトルコ系民族の本格的な移住・定着が始まり、帝国は最も豊かな穀倉地帯であり兵員の供給源でもあった中核領土を恒久的に失うことになった。この危機感が、後に皇帝が西欧へ救援を求め十字軍を招く遠因の一つとなる。
マラーズギルドの敗戦後、帝国内の権力闘争による混乱に乗じてトルコ系遊牧民が急速にアナトリア内陸部へ進出・定着した。わずか10年余りの間に、帝国の人的・経済的基盤の核心であったアナトリアの大半が事実上失われることになった。
軍人貴族出身のアレクシオス1世が即位し、コムネノス朝を開いた。ノルマン人・ペチェネグ人・セルジューク朝という複数方面からの脅威に同時に晒される絶望的な状況からの立て直しを託され、以後の帝国はこの新王朝のもとで一時的な再興期を迎える。
ノルマン人との戦いへの海軍支援と引き換えに、アレクシオス1世はヴェネツィアに帝国全土での関税免除という破格の通商特権を与えた。この決定はさしあたりの軍事的窮地を救ったが、以後帝国内の商業活動をヴェネツィア・ジェノヴァなどイタリア商人が席巻する結果を招き、帝国自身の経済的自立を長期的に蝕んでいくことになった。
首都に迫るほどの脅威となっていた遊牧民ペチェネグ人の大軍を、アレクシオス1世がクマン人と同盟して壊滅させた勝利。バルカン方面の脅威を除いたことで、帝国はようやく東方のセルジューク朝対策に本腰を入れる余裕を得た。
アレクシオス1世がセルジューク朝に対する傭兵の派遣を教皇ウルバヌス2世へ要請したところ、教皇はこれを聖地エルサレム奪回の大遠征へと拡大させる演説をクレルモンで行った。ビザンツ側が求めたのは限定的な軍事支援に過ぎなかったが、結果として西欧全土を巻き込む第1回十字軍が組織される直接の契機となった。
第1回十字軍はビザンツ領を経由する際、征服した旧帝国領をアレクシオス1世へ返還すると誓約していた。しかし激戦の末アンティオキアを陥落させたボエモン1世はこの誓約を反故にして自ら公として居座り、ビザンツと十字軍側の間に根深い不信感を植え付ける結果となった。
ドナウ川を渡って侵入してきたペチェネグ人の残存勢力を皇帝ヨハネス2世コムネノスが撃破した戦い。この勝利をもって、かつて帝国を脅かした遊牧民ペチェネグ人は歴史の表舞台からほぼ姿を消すことになった。
西欧文化に強い憧れを持つマヌエル1世が即位し、ラテン人(西欧人)を積極的に宮廷へ登用する開かれた政策を進めた。イタリア・小アジア方面での勢力拡大を目指す野心的な外交・軍事政策を展開したが、その代償として国内の反ラテン人感情も同時に蓄積させていった。
弟ヨハネス2世への帝位継承を阻もうとした陰謀が発覚し修道院での隠棲を余儀なくされたアンナ・コムネナが、その晩年に父アレクシオス1世の治世を描いた歴史書『アレクシアス』を書き上げた。皇女という立場でありながら本格的な歴史叙述を成し遂げた稀有な例として、第1回十字軍期のビザンツ側の視点を伝える第一級史料になっている。
アナトリア内陸部の回復を目指したマヌエル1世の大遠征軍が、セルジューク朝の待ち伏せに遭い壊滅的な敗北を喫した。この敗戦により、マラーズギルド以来の悲願であったアナトリア内陸部の回復は事実上永久に断念されることになった。
反ラテン人感情を煽って権力を握ったアンドロニコス1世のもと、首都在住のイタリア商人ら西欧系住民(ラテン人)が民衆によって大規模に虐殺された。この事件は西欧側のビザンツに対する不信と敵意を決定的に強め、23年後の第4回十字軍によるコンスタンティノープル攻撃の伏線ともなった。
恐怖政治への反発から蜂起した民衆に捕らえられたアンドロニコス1世が、市中を引き回された末に凄惨なリンチによって処刑された。この処刑をもってコムネノス朝は終焉し、後を継いだアンゲロス朝のもとで帝国はさらなる混乱と衰退の時代に突入していく。
資金不足に陥っていた第4回十字軍は、廃位された皇帝イサキオス2世の子アレクシオス4世からの報酬約束に応じてコンスタンティノープルへ矛先を転じた。しかし約束された資金が用意できず混乱が深まると、ヴェネツィア総督エンリコ・ダンドロの主導のもと十字軍は都市への総攻撃に踏み切り、900年近く異民族の征服を許さなかった帝都は同じキリスト教徒の手によって陥落・徹底的に略奪された。西欧側の一部はこれを「聖地奪回」の延長と正当化したが、ビザンツ側にとっては同信者による裏切りと略奪以外の何物でもなかった。
陥落したコンスタンティノープルを首都に、十字軍指導者らによってカトリックの「ラテン帝国」が建てられ、フランドル伯ボードゥアンが初代皇帝に選ばれた。しかし旧ビザンツ領内の在地勢力からの支持を得られず、その支配は当初から脆弱なものであった。
コンスタンティノープル陥落を受け、旧ビザンツの各地でテオドロス1世ラスカリスによるニカイア帝国をはじめ、トレビゾンド帝国、エピロス専制侯国という複数の亡命政権が並立した。中でもニカイア帝国が最も有力な正統後継の主張者として台頭していく。
堅実な内政と農業振興によって国力を蓄えたヨハネス3世ヴァタツェスが、ライバルであったエピロス専制侯国を破ってバルカン方面にも勢力を広げた。この治世を通じて、亡命政権に過ぎなかったニカイアは事実上のビザンツ正統後継国家へと成長していった。
ニカイア帝国の摂政ミカエル・パレオロゴスが、エピロス専制侯国・ラテン帝国・シチリア王国の連合軍を破った戦い。この勝利によりバルカン方面での主導権を確立したニカイアは、コンスタンティノープル奪回に向けた最後の障害を取り除いた。
ミカエル8世パレオロゴスの配下の将軍が、手薄になっていた守備の隙をついて奇襲的に無血でコンスタンティノープルへ入城した。1204年の陥落から57年、亡命政権であったニカイアは帝都を奪回してパレオロゴス朝を開き、ビザンツ帝国は名実共に復活した。しかし失われた国力は容易には回復せず、以後の帝国は往時とは比較にならない縮小した勢力にとどまり続けることになる。
西方カトリック勢力(特にシチリア王シャルル・ダンジュー)からの再征服の脅威に備え、ミカエル8世は教皇との教会合同を受け入れることで政治的な保護を得ようとした。しかしこの合同は国内の正教徒聖職者・民衆から強い反発を受け、皇帝の死後まもなく事実上破棄された。
シチリアで起きた反乱により、ビザンツ再征服を狙っていたシャルル・ダンジューの野望は頓挫した。ビザンツ帝国にとって直接の当事者ではないが、結果的に最大の脅威の一つを取り除いた、間接的ながら重要な僥倖であった。
アナトリア北西部の新興トルコ系君侯国オスマン朝の軍が、ビザンツ軍を撃破した戦い。当時は数ある小勢力の一つに過ぎなかったこのオスマン朝が、以後1世紀余りでバルカンからアナトリアまでを飲み込む大帝国へと成長し、最終的にビザンツを滅ぼすことになろうとは、この時点では誰も予想していなかった。
1321年から1354年にかけて、皇位継承や社会階層間の対立を巡る内乱がほぼ絶え間なく続いた。すでに縮小していた帝国の国力はこの内乱によってさらに徹底的に消耗し、オスマン朝をはじめとする周辺勢力の介入を招く隙を自ら広げる結果となった。
ヨーロッパ全土を席巻した黒死病(ペスト)が帝国にも到達し、すでに内乱で疲弊していた人口をさらに大きく減少させた。この人的損失は、ただでさえ縮小し続けていた帝国の軍事・経済基盤を回復不能なまでに追い詰めることになった。
内乱に介入する形でビザンツ側に招かれたオスマン軍が、地震で城壁が崩れたガリポリを占領し、初めてヨーロッパ側(バルカン半島)に恒久的な橋頭堡を築いた。これ以後オスマン朝は急速にバルカンへ勢力を広げ、コンスタンティノープルは徐々にオスマン領に囲まれた孤島のような状態に陥っていく。
バルカン進出を強めるオスマン帝国のムラト1世と、これに対抗するセルビア公ラザルの連合軍が激突し、両軍の指導者が共に戦死する激戦となった。ビザンツ帝国自体の直接の戦いではないが、この敗北によりバルカンにおけるオスマンの覇権は確立し、コンスタンティノープルの孤立はいっそう深まった。
オスマンによるコンスタンティノープルの長期包囲を受け、西欧諸国が組織した最後の大規模な十字軍がバヤズィト1世率いるオスマン軍と激突したが、壊滅的な敗北を喫した。この敗北により西方からの実効的な救援の望みは大きく後退し、帝都の運命はオスマンの意志一つに委ねられる状況となった。
陥落は目前と思われていたコンスタンティノープルであったが、中央アジアから来襲したティムールがアンカラの戦いでバヤズィト1世を撃破し捕虜としたことで、オスマン帝国は後継者争いによる内乱期(大空位時代)に突入した。この予期せぬ介入により、滅亡寸前だったビザンツ帝国は思いがけず半世紀の延命を得ることになった。
西方からの軍事支援を得るため、ヨハネス8世が自ら西欧へ赴きローマ教会との合同を受け入れた公会議。しかし帰国後、この合同は正教徒聖職者・民衆の激しい反発を招いて事実上機能せず、「トルコ人の頭巾の方が教皇の帽子よりましだ」という当時の反発の言葉が伝わるほど、国内では強く拒絶された。
フィレンツェ公会議での合同を受けて組織された最後の十字軍が、ハンガリー王・ポーランド王ヴワディスワフ3世を中心にオスマン軍と激突したが、王自身が戦死する大敗を喫した。西方からのビザンツ救援の試みはこれが事実上最後となった。
メフメト2世率いる大軍が、巨大な攻城砲と艦隊を丘越えさせて金角湾へ進入させる奇策を用いて56日間の包囲の末に難攻不落の城壁を突破した。守備の総指揮を担っていたジュスティニアーニが重傷で戦線を離脱したことが決定打となり、コンスタンティノス11世は帝冠を脱ぎ捨てて一兵卒として敵中へ斬り込み消息を絶った。330年の遷都から1123年、この日をもってローマ帝国は事実上の終焉を迎えた。