クレルモン教会会議 — 教皇ウルバヌス2世の呼びかけ
政治・外交ビザンツ皇帝アレクシオス1世がセルジューク朝に対する傭兵の派遣を教皇ウルバヌス2世へ要請したところ、教皇はこれを聖地エルサレム奪回の大遠征へと拡大させる演説をクレルモンで行った。1071年のマラーズギルドの戦い以来アナトリアの大半を失っていたビザンツ帝国にとっては限定的な軍事支援の要請に過ぎなかったが、結果として西欧全土を巻き込む第1回十字軍が組織される直接の契機となった。
ビザンツ皇帝アレクシオス1世がセルジューク朝に対する傭兵の派遣を教皇ウルバヌス2世へ要請したところ、教皇はこれを聖地エルサレム奪回の大遠征へと拡大させる演説をクレルモンで行った。1071年のマラーズギルドの戦い以来アナトリアの大半を失っていたビザンツ帝国にとっては限定的な軍事支援の要請に過ぎなかったが、結果として西欧全土を巻き込む第1回十字軍が組織される直接の契機となった。
隠者ピエールの熱狂的な説教に応じた、正規の訓練も装備も欠く貧民層中心の民衆十字軍が、正規軍の到着を待たずに出発した。アナトリアに渡った後まもなくセルジューク朝軍に包囲され、大半が殺害または奴隷とされる壊滅的な結末を迎えた。
民衆十字軍の一部および遠征に便乗した集団が、出発に先立ちラインラント各地のユダヤ人共同体を襲撃し、多数の犠牲者を出した。十字軍という宗教的熱狂が、遠征の目的地に到達する前から域内の非戦闘員に対する暴力として発現した最初の事例である。
本隊の第1回十字軍がセルジューク朝の都ニケーアを包囲した。攻略の直前、城内のセルジューク守備隊はビザンツ側と単独で降伏交渉をまとめ、十字軍に略奪の機会を与えないまま開城した。ビザンツと十字軍の間に生じた最初の微妙な軋轢である。
セルジューク朝軍の機動力ある弓騎兵による奇襲を受けた十字軍は、一時窮地に陥ったが後続部隊の到着で勝利した。この戦いを通じて、十字軍は西欧の重装騎兵戦術がトルコ系遊牧民の戦術に対して脆弱であることを学び、以後の戦い方に活かしていく。
堅固な城壁に守られたアンティオキアを、十字軍は8か月にわたり包囲した末、内通者の手引きでようやく陥落させた。しかし直後には、救援に駆けつけたモスルの大軍によって今度は十字軍側が城内で逆包囲される事態に陥った。窮地の中、キリストを刺したとされる「聖槍」が城内で発見されたとの報が兵士たちの士気を劇的に高め、決死の突撃で包囲軍を打ち破ることに成功した。
本隊から分かれてエデッサへ進んだ一隊が、現地のアルメニア人領主の養子となる形で都市の統治権を得た。これが最初に成立した十字軍国家となり、以後の遠征でアンティオキア・トリポリ・エルサレムが相次いで建てられていく先例となった。
3年に及ぶ行軍の末、十字軍はついにエルサレムを攻略した。占領直後、住民の宗教・民族を問わない大規模な殺戮が行われたことが同時代の年代記に記録されている。指導者の一人ゴドフロワ・ド・ブイヨンは、諸侯からの推挙に対し「キリストが茨の冠を受けた地で王を名乗ることはできない」として王号を辞退し、「聖墳墓の守護者」という称号でエルサレムの統治にあたった。
王号を辞退したゴドフロワ・ド・ブイヨンが没すると、弟のエデッサ伯ボードゥアンが跡を継ぎ、王号を辞さずに即位して初代エルサレム王となった。以後の在位中に沿岸都市の征服を進め、十字軍国家の版図を大きく広げていく。
長期の攻囲戦の末にトリポリが陥落し、4つ目の十字軍国家トリポリ伯領が成立した。これによりエデッサ・アンティオキア・トリポリ・エルサレムという十字軍国家の基本的な版図が出そろい、レヴァント沿岸に細長く連なる国家群が完成した。
元々は巡礼者向けの施療院を運営する組織だった聖ヨハネ騎士団が、教皇から正式な修道会として公認された。当初は医療・慈善活動が主体だったが、後にテンプル騎士団と並ぶ軍事的な宗教騎士団へと性格を強めていく。
アンティオキア公国の軍が、アレッポの太守イル・ガーズィーの軍によって壊滅させられた。アンティオキア公自身を含む多くの騎士が戦死し、この大敗によってアンティオキア公国は長期にわたる軍事的な弱体化を強いられた。
巡礼者の道中の安全を守ることを目的に、ユーグ・ド・パイヤンら少数の騎士がテンプル騎士団を創設した。修道誓願と武装闘争を兼ね備えた「戦う修道士」という新しい存在は、後の宗教騎士団の原型となり、十字軍国家の軍事力の中核を担っていく。
細長く分散した十字軍国家の防衛を支えるため、この頃からクラック・デ・シュヴァリエをはじめとする大規模な城塞の建設・拡張が本格化した。宗教騎士団がこれらの城塞の維持・防衛を担い、少数の兵力で広大な領域を守る要となっていく。
エデッサ伯からエルサレム王となっていたボードゥアン2世が、遠征中にトルコ系の太守に捕らえられた。翌年多額の身代金と引き換えに解放されたが、建国から日の浅い十字軍国家の脆弱さを露呈する事件だった。
エルサレム王国は、ヴェネツィアの艦隊の協力を得てレヴァント有数の港湾都市ティルスを攻略した。その見返りとしてヴェネツィアは各都市に独自の商館・居住区と関税免除の特権を与えられ、後にジェノヴァ・ピサも同様の特権を得ていく。この通商特権が、イタリア海洋都市を東方交易で大きく成長させる土台となった。
エルサレム王国では、西欧から持ち込まれた封建的な慣習法を現地の実情に合わせて成文化する動きが進んだ(後に『エルサレム慣習法典』としてまとめられる)。人口の大半を非キリスト教徒の現地住民が占める中で、少数の西欧系入植者がいかに統治機構を築いたかを示す制度的な基盤である。
モスルとアレッポを統合したザンギーが、最初の十字軍国家エデッサを攻略し、その支配に終止符を打った。十字軍国家の一つが完全に滅ぼされたのは初めてのことであり、この衝撃的な喪失の報せが西欧に伝わると、新たな大規模遠征(第2回十字軍)を求める声が高まることになった。
エデッサ陥落の報を受けた教皇エウゲニウス3世が、新たな十字軍への参加を呼びかける勅書を発した。ウルバヌス2世の呼びかけから半世紀を経て、十字軍への参加が教皇による正式な宗教的義務として制度化されていく過程を示す文書である。
教皇の要請を受けたクレルヴォーのベルナールが、フランス各地で第2回十字軍への参加を熱烈に説いた。その説得力は絶大で、フランス王ルイ7世・神聖ローマ皇帝コンラート3世という二人の君主を同時に遠征へ動かすという、前回を上回る規模の動員を実現した。
ルイ7世とコンラート3世がそれぞれ大軍を率いて出発したが、アナトリアでセルジューク朝軍の攻撃を受け大きな損害を被った。かろうじてシリアに到達した軍は、当初の目標であったエデッサ奪回ではなく、無関係だったダマスクスへの攻囲を決断することになる。
第2回十字軍の呼びかけは聖地への遠征だけでなく、イベリア半島でのレコンキスタや北方のスラヴ人(ヴェンド人)に対する遠征にも「十字軍」の資格を与えて動員した。この年に行われたリスボン攻略は、聖地遠征とは独立しながらも同じ十字軍の理念のもとで進んだ、数少ない成功例の一つとなった。
第2回十字軍は、本来エデッサの支配者だったザンギー朝ではなく、それまで比較的友好的だったダマスクスを標的に選ぶという戦略的な失策を犯した。わずか数日の攻囲で撤退を余儀なくされ、多大な犠牲を払いながら実質的な成果を何一つ得られないまま遠征は終わった。この失敗により、以後数十年にわたり西欧諸侯の大規模な聖地遠征への意欲は大きく後退することになる。
弟ヨハネス2世への帝位継承を阻もうとした陰謀が発覚し修道院での隠棲を余儀なくされたビザンツ皇女アンナ・コムネナが、その晩年に父アレクシオス1世の治世を描いた歴史書『アレクシアス』を書き上げた。第1回十字軍の行軍をビザンツ側の視点から観察した第一級史料であり、西欧側の年代記とはしばしば異なる、警戒と困惑の入り混じった十字軍観を伝えている。
エルサレム王ボードゥアン3世が、ファーティマ朝が保持していた最後の沿岸拠点アスカロンを長期の攻囲の末に攻略した。これにより王国はレヴァント沿岸のほぼ全域を確保し、領土的には最大の広がりを見せる時期を迎えた。
父ザンギーの跡を継いだヌールッディーンが、十字軍の攻囲を退けたダマスクスを平和裏に掌握し、シリアの大半をザンギー朝のもとに統一した。エルサレム王国を挟撃できる態勢が整い、以後イスラム側の攻勢が強まっていく。
内紛で弱体化したファーティマ朝エジプトの支配権をめぐり、ヌールッディーンとエルサレム王国が数次にわたり介入・遠征を繰り返した。ヌールッディーンが派遣した将軍シールクーとその甥サラーフ・アッディーンの遠征軍が、最終的にこの争奪戦を制することになる。
シリアの大半を統一しエルサレム王国を追い詰めていたヌールッディーンが没した。その死により生じた権力の空白は、エジプトで既に実権を握っていたサラーフ・アッディーンによって埋められ、以後彼がイスラム側の統一の主導権を握っていくことになる。
ヌールッディーンの命でエジプトへ派遣されていたサラーフ・アッディーンが、宰相として実権を握った。名目上はファーティマ朝カリフとヌールッディーンの双方に仕える立場だったが、この実権掌握が彼自身の勢力基盤の起点となった。
エルサレム王国生まれの聖職者ティルスのギヨームが、十字軍国家の建国からの詳細な年代記の執筆に着手した。王国内部の統治実態や宮廷の動きを克明に記録したこの年代記は、十字軍国家側の内在的な視点を伝える基本史料として、後世の研究に不可欠な存在になっている。
サラーフ・アッディーンは、200年以上続いたシーア派のファーティマ朝カリフ制を廃止してスンナ派の宗主権(アッバース朝カリフへの忠誠)を回復させ、自らアイユーブ朝を樹立した。エジプトの資源と人口を手にしたことで、彼はエルサレム王国を包囲する最大の脅威へと成長していく。
ハンセン病を患いながらも自ら輿に乗って出陣したボードゥアン4世率いるエルサレム王国軍が、数で大きく上回るサラーフ・アッディーンの軍を奇襲し撃退した。若き病身の王による会心の勝利として、王国の士気を大いに高めた一戦である。
シリアの名門貴族出身で十字軍国家と隣接する領地で数十年を過ごしたウサーマ・イブン・ムンキズが、晩年にダマスクスで回想録を著した。十字軍騎士との個人的な友情や、逆に西欧の風習への当惑を率直に記したこの回想録は、単純な敵味方の図式には収まらない当時の日常的な交流の実相を伝える貴重な史料となっている。
病により若くして没したボードゥアン4世の後、王位継承をめぐってエルサレム王国内部で深刻な内紛が生じた。有力者間の対立の末、妹シビーユの夫であったギー・ド・リュジニャンが王位に就いたが、その統治能力への疑念は解消されないままだった。
休戦協定を無視して隊商やメッカ巡礼路を繰り返し襲撃していたシャティヨンのルノーが、サラーフ・アッディーンの身内が含まれる隊商への襲撃と身代金要求を行った。度重なる協定違反に激怒したサラーフ・アッディーンはついに全面対決を決意し、この一件が開戦の直接の引き金となった。
エルサレム王国はほぼ全軍を動員してサラーフ・アッディーンの大軍に挑んだが、水源のない灼熱の丘に誘い込まれ、渇きと包囲によって壊滅した。国王ギー・ド・リュジニャンは捕虜となり、キリスト教徒にとって最も神聖な聖遺物とされた「真の十字架」も戦場で奪われた。この一日で王国の防衛力の大半が失われ、以後の急速な領土喪失を決定づけた。
ヒッティーンでの大勝の余勢を駆り、サラーフ・アッディーンは88年前に十字軍が奪ったエルサレムを包囲し、開城させた。1099年の占領時に行われたような大規模な虐殺は行わず、身代金と引き換えに住民の多くを解放するという寛容な処置を取った。この対照は、同じ都市の陥落という出来事が立場によっていかに異なる記憶として残るかを象徴している。
ヒッティーンで捕虜となっていたギー・ド・リュジニャンが、二度と武器を取らないという誓約と引き換えにサラーフ・アッディーンによって釈放された。しかし釈放後まもなくこの誓約を破って軍を率い、アッコン攻囲を開始することになる。
エルサレム喪失を受けて西欧で組織された第3回十字軍に先立ち、釈放されたギー・ド・リュジニャンが独自にアッコンの奪還を試みて包囲を開始した。この長期にわたる攻囲戦が、後続する西欧諸国の主力軍を迎える集結点となっていく。
アッコン攻囲中、ドイツ系の商人らが同郷の負傷兵を看護するための野戦病院を設けた。これが母体となり、8年後の1198年に正式な宗教騎士団として認可される。テンプル・ホスピタルの両騎士団に次ぐ第3の主要な軍事修道会として、後に北方十字軍でも重要な役割を果たしていく。
第3回十字軍に参加した3人の君主の中で最大規模の軍を率いていた神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が、小アジアの河を渡る際の事故で溺死した。指揮官を失った彼の軍の多くは士気を失い、目的地に到達する前に遠征を断念することになった。
聖地への航路上でキプロス島の統治者と衝突したリチャード1世は、これを機に島全体を征服した。後にキプロスはテンプル騎士団を経てギー・ド・リュジニャンに与えられ、大陸の十字軍国家消滅後もしばらく存続するキプロス王国の起点となった。
2年に及んだ攻囲の末、リチャード1世とフィリップ2世の到着した十字軍がアッコンを陥落させた。しかし身代金と捕虜交換の条件をめぐる交渉が難航すると、リチャード1世は約2700人ともいわれるムスリム捕虜の処刑を断行した。フィリップ2世はこの直後、リチャード1世との不和や本国の政務を理由に遠征を離脱して帰国した。
エルサレムを目指し南下する途中、リチャード1世の軍がサラーフ・アッディーンの軍の待ち伏せを受けたが、統制の取れた行軍隊形を保ったまま反撃に転じてこれを撃退した。十字軍側が野戦でアイユーブ朝軍に勝利した数少ない事例であり、リチャード1世の軍才を示す戦いとして記憶される。
激しく戦い合いながらも、リチャード1世とサラーフ・アッディーンの間には使者を介した独特の敬意が育まれた。リチャード1世が病に倒れた際、サラーフ・アッディーンが自らの侍医と果物・氷を送らせて見舞ったという逸話や、リチャード1世が自らの甥をサラーフ・アッディーンの弟に嫁がせて和平を図ろうとした構想などが伝わる。両雄は結局一度も直接顔を合わせることはなかった。
エルサレムへの到達を二度試みながらも補給線の限界から断念したリチャード1世は、サラーフ・アッディーンとの間で講和を結んだ。エルサレムの奪回はかなわなかったが、沿岸都市の大半を十字軍側が保持すること、そして非武装の巡礼者が自由に聖地を訪れられることが確保された。第3回十字軍が得た成果は、軍事的勝利ではなくこの外交的妥協だった。
中世教皇権の絶頂期を築くことになる若きインノケンティウス3世が教皇に選出された。即位直後から新たな十字軍(第4回)を提唱し、聖地奪回への機運を再び高めようとした。
第4回十字軍の指導者たちは、大艦隊を用意させるためヴェネツィアと巨額の輸送契約を結んだ。しかし実際に集まった兵員はヴェネツィア側の想定を大きく下回り、契約通りの金額を支払うことができなくなった。この債務問題が、以後の遠征の目的地を大きく歪めていく全ての起点となった。
支払い不能に陥った十字軍に対し、ヴェネツィア総督エンリコ・ダンドロは、ヴェネツィアの商売敵であったカトリックの都市ザラの攻略に協力すれば債務を猶予すると持ちかけた。十字軍はこれに応じて同じキリスト教徒の都市を攻撃するという事態を招き、教皇インノケンティウス3世は参加者を破門するに至った。
廃位された皇帝イサキオス2世の子アレクシオス4世が、父の復位と引き換えに莫大な報酬と東西教会合同を約束して十字軍をコンスタンティノープルへ誘い込んだ。ザラで既に道を踏み外していた十字軍にとって、この申し出は財政難を解決する好機と映り、遠征は聖地から完全に逸れてビザンツ帝国の内紛に介入する方向へ進んだ。
即位したアレクシオス4世が約束した報酬を用意できずに廃位・殺害されると、十字軍は残された債務を実力で回収するべくコンスタンティノープルへの総攻撃に踏み切った。900年近く異民族の征服を許さなかった帝都は陥落し、3日間にわたる組織的な略奪と破壊を受けた。西欧側の一部はこれを債務回収と聖地遠征を続けるための資金調達として正当化したが、ビザンツ側にとっては同信者による裏切りと破壊以外の何物でもなかった。夥しい量の聖遺物・美術品がこの略奪を機に西欧へ流出し、多くは今も欧州各地の教会に伝わっている。
陥落したコンスタンティノープルを首都に、十字軍指導者らによってカトリックの「ラテン帝国」が建てられ、フランドル伯ボードゥアンが初代皇帝に選ばれた。本来聖地エルサレムを目指すはずだった第4回十字軍は、こうして同信者の帝都を奪う遠征として幕を閉じた。旧ビザンツ領内の在地勢力からの支持を得られないまま、その支配は当初から脆弱なものだった。
コンスタンティノープル略奪の過程で、1000年近くにわたり帝都の教会に蓄積されてきた夥しい数の聖遺物・聖具・美術品が略奪され、参加した諸侯によって西欧各地へ持ち帰られた。ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の四頭の青銅馬像はその代表例であり、今日も欧州各地の大聖堂に伝わる聖遺物の少なからぬ部分が、この時の略奪品に由来するとされる。
コンスタンティノープル攻撃の報を受けた教皇インノケンティウス3世は、当初これを厳しく非難する書簡を送った。しかし東西教会合同という既成事実を前に、次第にラテン帝国の成立を追認する姿勢へと転じていく。提唱者自身が制御しきれなかったという事実は、十字軍という運動が既にそれ自体の論理で動く力を持つに至っていたことを示している。
南フランスに広がっていたカタリ派(アルビジョア派)と呼ばれるキリスト教の異端に対し、教皇インノケンティウス3世が十字軍を呼びかけた。聖地ではなく同じ西欧内部の異端を討つこの遠征は、以後の十字軍という言葉が「教皇の呼びかけによる聖戦全般」を指すよう意味を広げていく象徴的な出来事となった。
アルビジョア十字軍がベジエを攻略した際、異端者と正統信者を区別しないまま住民の大半を殺害した。教皇特使が「皆殺しにせよ、主が自らの民を選び分けるだろう」と答えたという逸話が伝わるが史実性には議論がある。聖地遠征とは異なり、同じキリスト教徒の共同体に向けられた十字軍の暴力性を象徴する事件として記憶されている。
少年少女による集団が聖地へ向けて出発し、多くが命を落とすか奴隷として売られたという劇的な物語が中世以来語り継がれてきた。しかし近年の研究では、参加者の実態は子供ではなく、既存の十字軍から取り残された貧民層の民衆であったとする見方が有力になっている。伝承としての性格が強い出来事として扱う必要がある。
聖地そのものではなくイスラム世界の心臓部エジプトを攻めることで交渉力を得ようとする新たな戦略のもと、十字軍はナイル川河口の要衝ダミエッタを長期の攻囲の末に攻略した。しかしその後の内陸への進軍で洪水に阻まれて動きが取れなくなり、最終的に得た拠点をすべて放棄して撤退することになった。
第5回十字軍に同行していたアッシジのフランチェスコが、非武装のまま敵陣に赴きアイユーブ朝スルタン、アル=カーミルと直接会見した。改宗させることはかなわなかったが、逆に手厚くもてなされて無事に帰還を許されたと伝わる。武力衝突が常態化した時代における、対話による異例の交流として記憶されている。
十字軍出発の遅延を理由に教皇から破門されていた神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が、その状態のまま独自に遠征を敢行した。アラビア語に堪能で イスラーム文化への理解も深かった彼は、戦闘をほとんど交えずアイユーブ朝スルタンとの外交交渉のみに徹した。
フリードリヒ2世は交渉のみでエルサレム・ベツレヘム・ナザレを含む領域の返還を勝ち取り、自ら聖墳墓教会でエルサレム王として戴冠した。しかし破門された身でありながら得られた「戦わない十字軍」というこの成果は、正当な聖戦とはみなさない教皇側や、十字軍精神を裏切るものとみる一部の同時代人から強い批判も招いた。
モンゴルの西進に押し出される形で南下してきたホラズム・シャー朝の残党が、エジプトのアイユーブ朝と結んでエルサレムを攻撃・占領した。フリードリヒ2世の交渉で得られていた統治権はこの喪失をもって完全に失われ、以後エルサレムが十字軍側の手に戻ることは二度となかった。
エルサレム奪回を目指した十字軍国家連合軍が、ホラズム・エジプト連合軍に大敗を喫した。ヒッティーンにも匹敵する規模の惨敗とされ、十字軍国家の軍事力はこの敗北によってさらに大きく損なわれた。
深い信仰心で知られるフランス王ルイ9世が、自ら大規模な遠征を率いてエジプトに上陸した。当初はダミエッタを順調に攻略したが、内陸への進軍中にナイル川の増水と疫病に阻まれて身動きが取れなくなった。
撤退中のフランス軍はマムルーク軍に包囲され、ルイ9世自身を含む多数が捕虜となった。国王という最高位の人物が捕らえられるという前代未聞の事態となり、莫大な身代金とダミエッタの返還によってようやく解放された。
ルイ9世を撃退した混乱の中、アイユーブ朝に仕えていた奴隷軍人(マムルーク)たちが実権を握り、自ら王朝を樹立した。以後マムルーク朝は、モンゴルの脅威を退けると同時に、十字軍国家に対する最も組織的で執拗な攻勢を担う勢力となっていく。
西進を続けていたモンゴル軍の守備隊を、バイバルス率いるマムルーク朝軍がアイン・ジャールートで打ち破った。モンゴル軍が野戦で決定的な敗北を喫した稀な事例であり、モンゴルの西方拡大が事実上ここで止まる転換点となった。この勝利を足がかりにバイバルスはまもなくマムルーク朝のスルタンに即位する。
亡命政権ニカイア帝国の軍が、ほぼ無血でコンスタンティノープルに入城し、57年間続いたラテン帝国を滅ぼしてビザンツ帝国を復興させた。第4回十字軍が生み出したラテン帝国は、聖地でいまだ十字軍国家が存続していたこの時期に、先に滅亡を迎えることになった。
スルタンに即位したバイバルスは、モンゴルと十字軍国家の連携を警戒し、両者が結びつく前に叩く方針のもと十字軍国家への組織的な攻勢を開始した。カエサリア・アルスフなど沿岸の要衝が次々と陥落し、十字軍国家の版図は急速に縮小していく。
170年近く存続した最初期の十字軍国家アンティオキア公国が、バイバルスの攻撃によって陥落した。住民の多くが虐殺または奴隷とされ、かつて第1回十字軍の主要な成果の一つであった都市は徹底的に破壊された。
捕虜としての屈辱を晴らすべく再び十字軍を率いたルイ9世は、今度はチュニスを標的に選んだ。しかし上陸後まもなく陣中で疫病が蔓延し、ルイ9世自身も感染して没した。指導者を失った遠征は目的を果たせないまま中止され、西欧諸侯による大規模な聖地遠征への意欲は決定的に失われていく。
ルイ9世の第8回十字軍に合流する形で、イングランドのエドワード王子が独自にアッコンへ遠征した。バイバルスの刺客に襲われ負傷するなど苦難の遠征となり、大きな戦果を挙げられないまま帰国した。この遠征が実質的に西欧側最後の大規模な十字軍遠征となった。
十字軍国家の城塞網を象徴する難攻不落の要塞とされたクラック・デ・シュヴァリエが、バイバルスの攻囲の末に陥落した。ホスピタル騎士団が長年守り抜いてきたこの要塞の喪失は、内陸防衛線の崩壊を決定づけた。
バイバルスの後継者らによる攻勢が続く中、180年近く存続したトリポリ伯領がマムルーク朝軍の攻撃を受けて陥落した。この時点でレヴァント沿岸に残る十字軍国家は、事実上アッコンを中心とするエルサレム王国の残存部分のみとなっていた。
マムルーク朝の大軍による長期の攻囲の末、十字軍国家最後の主要拠点アッコンが陥落した。多くの住民が虐殺されるか奴隷とされ、生き残った者はキプロス島へと逃れた。1095年のクレルモン会議から196年、大陸における十字軍国家の歴史はここに終わりを告げた。
アッコン陥落後、ホスピタル騎士団はキプロスを経てロドス島へ本拠を移し、以後も地中海の海上勢力として存続した。一方テンプル騎士団は本拠地を失って弱体化し、フランス王フィリップ4世による弾圧を受けて1312年に教皇の命で解散させられ、莫大な資産は没収された。
2世紀にわたる十字軍は聖地の恒久的な確保には失敗したが、その影響は軍事的敗北を超えて広く残った。ヴェネツィア・ジェノヴァなどイタリア海洋都市は東方交易の拠点網を築いて経済的に大きく成長し、十字軍を通じてもたらされたギリシア語文献やイスラーム世界の学問は、後のルネサンスにつながる西欧の知的刺激の一つとなった。軍事的な「聖戦」としては終わったが、東西の人・モノ・知識の接触という点では、その後の西欧の歩みに長く影響を残す出来事だった。