徳川家康、征夷大将軍就任・江戸開府
政変関ヶ原の戦いで実権を握った徳川家康は、朝廷から征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いた。関ヶ原と大坂の陣という戦国の終幕は既に決していたが、この将軍就任こそが、名実ともに新たな武家政権の始まりを告げる出来事であった。以後260年余り続く江戸幕府の歴史がここに始まる。
関ヶ原の戦いで実権を握った徳川家康は、朝廷から征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いた。関ヶ原と大坂の陣という戦国の終幕は既に決していたが、この将軍就任こそが、名実ともに新たな武家政権の始まりを告げる出来事であった。以後260年余り続く江戸幕府の歴史がここに始まる。
出雲大社の巫女と伝わる阿国が、京都で奇抜な男装をして踊る「かぶき踊り」を披露し、大評判となった。当初は風紀を乱すとして幕府に禁じられることも多かったが、この踊りはやがて男性役者のみが演じる歌舞伎として洗練され、江戸時代を通じて庶民に最も愛される芸能の一つに成長していく。
家康は将軍職をわずか2年で子の秀忠に譲ったが、自らは大御所として駿府に拠り、実権を握り続けた。将軍職の世襲を早々に既成事実化することで、徳川家による政権の恒久性を内外に示す狙いがあったとされる。
幕府はキリスト教の布教を禁じる禁教令を発し、直轄領での信仰を禁止した。当初は貿易の利益を優先して黙認的であった対キリシタン政策が、この頃から本格的な弾圧へと転じていく。
仙台藩主・伊達政宗の命により、家臣の支倉常長を正使とする使節団がスペイン国王・ローマ教皇のもとへ派遣された。太平洋を横断してヨーロッパに至った日本人として初期の例であったが、帰国した頃には幕府の禁教方針が強化されており、この外交的な試みが実を結ぶことはなかった。
大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした直後、幕府は一国一城令で諸大名の居城以外の城を破却させ、武家諸法度で大名の行動を細かく規制した。あわせて発布された禁中並公家諸法度は、天皇・公家の行動にも幕府が介入する根拠となる法令であり、以後の幕府と朝廷の関係を規定する基本枠組みとなった。戦国の実力主義に代わり、法と制度によって秩序を維持する幕藩体制がここに骨格を固めた。
天下統一の総仕上げを成し遂げた家康が75歳で没した。遺言により久能山に葬られた後、日光に改葬されて東照大権現として祀られ、絢爛豪華な日光東照宮が造営された。歴代将軍による日光社参は、幕府の権威を象徴する重要な儀礼として続けられることになる。
武士を頂点に、農民・職人・商人という身分秩序(士農工商)が社会の基本編成として定着していった。実際には身分間の移動や重なりも一定程度存在し、近年の研究では硬直した固定的な身分制というよりも、職分に基づく緩やかな社会編成として理解されることが多い。
家康・秀忠の跡を継いだ家光は、「祖父・父とは異なり、生まれながらの将軍である」ことを諸大名の前で明言したと伝わる。外様大名に対しても直接的な威令を及ぼす姿勢を鮮明にし、幕藩体制の骨格を最終的に固める諸政策を次々と打ち出していく。
後水尾天皇が幕府の許可なく高僧に紫衣を勅許したことに対し、幕府はこれを禁中並公家諸法度違反として無効とした。天皇はこれに抗議して譲位を強行し、幕府の法が朝廷の伝統的権限にも優越することを内外に示す結果となった。この事件は幕府権力の絶頂を象徴する出来事として記憶される。
幕府は老中発行の許可状(奉書)を持つ船以外の海外渡航を禁じ、貿易統制の第一歩を踏み出した。これ以後、日本人の海外渡航・帰国の禁止、ポルトガル船来航禁止と、段階的に対外交流を制限していく一連の政策(いわゆる鎖国令)が数年にわたり積み重ねられていく。
武家諸法度の改定により、諸大名が1年おきに江戸と領国を往復する参勤交代が正式な制度として義務づけられた。莫大な費用を要するこの制度は諸藩の財政を圧迫して謀反の余力を奪う一方、街道の整備や江戸を中心とする全国経済の一体化を促す副産物ももたらした。同時に日本人の海外渡航・帰国も全面的に禁止された。
重税とキリシタン弾圧に苦しんだ島原・天草の農民たちが、少年天草四郎を総大将に担いで蜂起した。一揆勢は廃城・原城に立てこもり、幕府が派遣した12万を超える大軍を相手に約4か月にわたり抵抗を続けた。
兵糧攻めの末に原城は陥落し、天草四郎を含む一揆勢はほぼ全員が殺害された。この大規模な蜂起は幕府に強い衝撃を与え、キリシタンへの警戒をいっそう強めるとともに、翌年のポルトガル船来航禁止という最終的な対外政策の決定を後押しすることになった。
島原・天草一揆でのキリシタンの結束力に衝撃を受けた幕府は、ポルトガル船の来航を全面的に禁止した。これにより幕府は対外交流を完全に断ったわけではなく、長崎(オランダ・清)、対馬(朝鮮)、薩摩(琉球)、松前(アイヌ)という「四つの口」を通じた管理された交流を維持し続けた。近年の研究では、この体制を完全な閉鎖ではなく幕府による対外交流の一元的管理(「海禁」)として理解する見方が定着している。
平戸にあったオランダ商館が、長崎に築かれた人工島・出島に移された。以後、出島は鎖国下の日本にとってヨーロッパへの唯一の窓口となり、商館長が幕府に提出する海外情勢報告(オランダ風説書)は、幕府が世界情勢を把握する貴重な情報源であり続けた。
農民が田畑を売買して土地を失い、年貢を納められなくなる事態を防ぐため、田畑の永代売買を禁じる法令が発布された。年貢収入の安定的な確保を狙った政策であったが、実際には質入れなどの形で土地の事実上の移転は続いていくことになる。
軍学者・由井正雪が、改易政策で溢れた牢人たちを糾合して幕府転覆を計画したが、密告により未然に発覚し自害した。この事件を重く見た幕府は、大名家の断絶を防ぐため、当主の急死に際して末期養子を認める条件を緩和し、牢人発生を抑制する政策転換に踏み切った。
由井正雪の乱の直後という不安定な情勢の中、わずか11歳の家綱が将軍職を継いだ。幕政は老中たちの合議によって支えられ、以後、武力によらず法と儀礼で秩序を保つ「文治政治」へと幕府の統治スタイルが大きく転換していく。
本郷から出火した火災は折からの強風に煽られて江戸の大半を焼き尽くし、江戸城天守閣も焼失した。死者は10万人を超えたとも伝えられる江戸時代最大の火災である。幕府は復興にあたり延焼を防ぐ広小路や火除地を整備したが、財政的な理由から天守閣は以後再建されることがなかった。
主君の死に際して家臣が後を追って自害する殉死の風習が、武家諸法度の改定にあわせて正式に禁止された。武功によって主従関係が結ばれた戦国的な価値観から、家に奉公する官僚的な主従関係への転換を象徴する政策であった。
松前藩との不平等な交易に不満を募らせたアイヌの首長シャクシャインが、蝦夷地各地のアイヌを糾合して蜂起した。当初は松前藩を大いに苦しめたが、和睦の席でシャクシャインが謀殺されて蜂起は瓦解した。この敗北によりアイヌは松前藩により従属的な交易体制に組み込まれていくことになる。
幕府の命を受けた河村瑞賢は、東北・北陸の年貢米を安全かつ効率的に江戸・大坂へ輸送する東廻り航路・西廻り航路を整備した。この全国的な海運網の確立により、大坂は「天下の台所」として全国の物資が集散する経済の中心地としての地位を確立していく。
三井高利は江戸に呉服店・越後屋を開き、「店前現銀売り・掛け値なし」という定価・現金取引の新商法を打ち出した。それまでの掛け売り(信用取引)中心の商慣行を覆すこの手法は、価格の透明性を高めて庶民の支持を集め、越後屋を江戸屈指の大店へと押し上げた。
家綱の跡を継いだ綱吉は、儒学を篤く奨励して湯島聖堂を整備するなど、文治政治をさらに推し進めた。学問を重んじるこの姿勢は、元禄文化の爛熟を後押しする土壌ともなっていく。
井原西鶴は、一人の男の生涯にわたる恋愛遍歴を軽妙に描いた浮世草子『好色一代男』を刊行した。公家や武家ではなく町人自身の欲望と生活を主役に据えたこの作品は空前の人気を博し、以後の元禄文化における町人文学隆盛の先駆けとなった。
綱吉は動物、特に犬の殺生を禁じる一連の法令を度々発令した。世継ぎに恵まれなかった綱吉が、前世の殺生を戒める助言を受けて発したとする逸話が伝わるが真偽は定かではない。行き過ぎた運用は違反者への過酷な処罰を招き、庶民の生活を圧迫する悪法として「犬公方」の名とともに後世まで語り継がれることになった。
松尾芭蕉は門人曾良を伴い、江戸から東北・北陸を巡る約150日間、2400キロに及ぶ旅に出た。この旅の道中で詠んだ俳句と紀行文を織り交ぜた『奥の細道』は、簡潔にして深い余情をたたえた文章で、日本の紀行文学の最高峰と評されることになる。
諸国を実地に歩いて収集した知見をまとめた日本初の本格的な農学書『農業全書』が刊行された。作物栽培から農具、土壌改良に至るまで実践的に解説したこの書は、以後の農業生産力向上に長く貢献することになる。
江戸城中で高家・吉良義央に刃傷に及び切腹を命じられた赤穂藩主・浅野長矩の仇を討つべく、筆頭家老・大石内蔵助率いる47人の旧家臣が吉良邸に討ち入り、主君の無念を晴らした。主君への忠義を貫いた美談として庶民に熱狂的に支持されたこの事件は、後に『忠臣蔵』として大きく脚色されて広まったが、実際の経緯や人物像には創作による誇張も多く含まれている。
実際に起きた心中事件を題材にした人形浄瑠璃『曾根崎心中』が初演され、空前の大当たりとなった。義理と人情の間で引き裂かれる町人男女の悲劇を描くこの作品以降、心中を扱う「世話物」は浄瑠璃・歌舞伎の一大ジャンルとして確立されていく。
相模トラフを震源とする巨大地震が関東南部を襲い、江戸をはじめ広範囲に甚大な被害をもたらした。地震に伴う津波も房総半島から伊豆にかけて大きな被害を与え、元禄文化の繁栄の陰で自然災害の脅威が繰り返し社会を揺るがしていたことを物語る。
南海トラフを震源とする宝永地震が発生した直後、その49日後には富士山が噴火した(宝永大噴火)。この噴火は記録に残る富士山最後の噴火であり、火山灰は江戸市中にまで降り積もって農地に深刻な被害を与えた。相次ぐ天災は幕府の財政をさらに圧迫することになった。
西洋数学とほぼ独立に高度な代数計算法(点竄術)を編み出し、円周率の精密な近似値も算出した和算家・関孝和が没した。その業績は弟子たちに受け継がれ、江戸時代を通じて独自の発展を遂げる和算という学問分野の礎を築いた。
綱吉が没すると、生類憐みの令は直ちに廃止された。後を継いだ6代家宣・7代家継のもとで、儒学者・新井白石が幕政の実権を握り、貨幣の質を戻す改鋳や長崎貿易の制限など、綱吉時代の乱れた財政・貿易を引き締める「正徳の治」を進めていく。
新井白石は、金銀の海外流出を食い止めるべく、長崎貿易における清・オランダ船の来航数と貿易額を制限する海舶互市新例を発布した。鎖国下でも唯一開かれていた長崎貿易にすら統制を強めるこの政策は、財政再建を最優先する正徳の治の性格を象徴している。
紀州藩主から異例の将軍就任を果たした吉宗は、悪化していた幕府財政の立て直しに着手した。倹約の奨励、新田開発の推進、上米の制など、以後30年近くにわたる享保の改革の諸政策を次々と打ち出していく。
旗本・御家人の借金をめぐる訴訟が急増し評定所の機能が麻痺していたことから、金銭貸借に関する紛争は当事者間の話し合い(相対)で解決すべきとし、幕府がこれを受理しない方針を打ち出した。訴訟の激減という即効性はあったが、債権者である商人側の不満も招いた。
吉宗はキリスト教に関係しない実学書に限り、漢訳された洋書の輸入制限を緩和した。天文学・医学・農学など実用的な西洋の知識に触れる道が開かれたこの決定は、後の蘭学発展の重要な素地となった。
吉宗は庶民が直接意見・不満を投書できる目安箱を評定所前に設置した。この投書がきっかけとなって貧民のための医療施設・小石川養生所が設立されるなど、実際の政策に反映される例もあった。あわせて実施された江戸の人口調査は、当時の江戸が既に100万人規模の巨大都市であったことを裏づけている。
参勤交代の江戸在府期間を半減する代わりに、諸大名から石高に応じた米を上納させる上米の制が定められた。異例ながら実効性のある財政再建策として機能する一方、目安箱への投書を受けて、貧しい病人のための施療施設・小石川養生所も設立された。
役職に応じた石高の不足分を在職中だけ支給する足高の制が定められた。これにより家格の低い有能な人材でも要職に登用しやすくなり、大岡忠相のような身分にとらわれない人材登用を可能にした。
古文辞学(古学)を提唱した儒学者・荻生徂徠は、吉宗の諮問に応える形で経世論『政談』を著した。武士の土地からの遊離が社会の不安定要因であると指摘するなど、儒学の枠を超えた現実的な統治論を展開し、後の経世家たちに大きな影響を与えた。
吉宗に見出された大岡忠相は、江戸町奉行として防火制度の整備や小石川養生所の運営など都市行政に幅広く手腕を発揮した。後世「大岡裁き」として数々の名裁判の逸話が語り継がれ、公正な名奉行の代名詞となったが、その多くは講談・芝居による後世の創作である。
「天下の台所」大坂に集積した年貢米を取引する堂島の米市場が、幕府から正式に公認された。将来の米価を先取りして取引する帳合米商いの仕組みは、世界的にも先駆的な先物取引として知られ、当時の大坂が高度に洗練された金融市場を持つ商業都市であったことを示している。
冷夏とウンカの大量発生により、西日本一帯で深刻な凶作が発生した。餓死者は1万人を超えたと伝えられ、幕府は救済のため甘藷(サツマイモ)の栽培を奨励するなど、飢饉への備えを見直す契機となった。
それまで先例と慣習に頼っていた裁判の基準を明文化した法典、公事方御定書が完成した。刑罰の基準を統一してある程度の予測可能性を担保するこの法典は、以後幕末まで幕府の裁判実務の基本典拠として用いられ続けた。
公家に神道・儒学を講じて尊王論を説いていた竹内式部が、幕府によって京都から追放された。朝廷の権威回復を志向する尊王思想への警戒感を幕府が明確に示した最初期の事件であり、後の幕末尊王攘夷運動の遠い先触れとして位置づけられる。
旗本の家柄から異例の出世を重ねてきた田沼意次が、将軍の側近として幕政に強い影響力を持つ側用人に就任した。年貢に頼らず商業の力を活用する、それまでとは一線を画す政策路線がここから本格化していく。
老中にまで昇った田沼意次は、商人の同業組合である株仲間を公認し、その営業独占を認める代わりに運上金・冥加金を徴収する仕組みを整えた。あわせて蝦夷地開発計画や印旛沼干拓など、幕府として前例のない大規模な開発事業も構想し、商業と開発を通じた財政再建を追求した。
杉田玄白・前野良沢らは、オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の図版の正確さに驚嘆し、辞書もろくにない中で足かけ4年をかけてこれを翻訳、『解体新書』として刊行した。この一書の刊行が、以後急速に発展していく蘭学・洋学の本格的な出発点となった。
故障して長年放置されていたオランダ製の摩擦起電機(エレキテル)を、平賀源内が独力で解読・修理して見世物として公開した。実用性よりも当時の人々を驚かせる見世物としての側面が強かったが、西洋の科学技術への旺盛な好奇心を体現する出来事として知られる。
冷害と後述する浅間山の大噴火が重なり、東北地方を中心に江戸時代最大級の飢饉が発生した。餓死者・疫病死者はあわせて数十万人に及んだとされ、農村の疲弊は各地で百姓一揆や都市部での打ちこわしを頻発させる社会不安の温床となった。
浅間山が大規模に噴火し、火砕流と土石流によって山麓の村々が壊滅した。噴出した大量の火山灰は関東一円の農地を覆って深刻な冷害を招き、進行中であった天明の大飢饉をさらに深刻化させる一因となった。
深刻化する飢饉への不満から、江戸・大坂をはじめ全国の都市で米穀商や富商を襲う大規模な打ちこわしが発生した。この社会不安への対応の失敗と、賄賂政治への批判の高まりの中で田沼意次は失脚し、その革新的な商業重視政策の多くは、後継の松平定信によって否定されることになる。
白河藩主として天明の大飢饉を一人の餓死者も出さずに乗り切った手腕を評価され、松平定信が老中首座に就任した。田沼時代の商業重視路線を一転させ、農業を基本とする質素倹約の統治理念に立ち返る寛政の改革が始まった。
困窮する旗本・御家人を救済するため、彼らが札差(金融業を兼ねる米仲買商)から負っていた借金を帳消しにする棄捐令が発布された。旗本・御家人の一時的な救済にはなったが、以後彼らへの新規融資を渋る札差が急増し、かえって金詰まりを招く結果となった。
幕府の教学機関である昌平坂学問所において、朱子学以外の儒学(陽明学・古学など)を事実上禁じる方針が示された。思想統制を通じて武士の規律を引き締めようとするこの政策は、学問の多様性を狭めたとして批判も招いた。
漂流民・大黒屋光太夫の送還を名目に、ロシアの使節ラクスマンが根室へ来航し通商を求めた。幕府は通商そのものは拒んだが、長崎への入港許可証(信牌)を与えて交渉の余地を残した。北方からのロシアの接近が、以後半世紀にわたる対外的な緊張の始まりとなった。
海防の必要性を説いた林子平の『海国兵談』は、世を惑わす言論とみなされて版木を没収され、林子平自身も蟄居に処された。ロシアの南下という現実の脅威を先取りした警世の書が弾圧されたこの一件は、時代を先取りする言論への幕府の抑圧姿勢を象徴している。
わずか10か月ほどの短い期間に約140点の役者絵を発表し、忽然と姿を消した謎の絵師・東洲斎写楽が活動した。誇張された表情で役者の個性を鮮烈に捉える「大首絵」の手法は、同時代には賛否両論を呼んだが、後世高く再評価されることになる。
本居宣長は35年の歳月を費やし、『古事記』の実証的な注釈書『古事記伝』全44巻を完成させた。中国由来の思想(漢意)を排し、日本古来の精神を記紀神話や古典文学に見出そうとするこの学問は、国学として体系化され、幕末の尊王思想にも大きな影響を及ぼしていく。
50歳を過ぎてから天文学・測量術を学んだ伊能忠敬は、私財を投じて蝦夷地南岸の測量に着手した。この測量が高く評価されたことを機に、以後17年をかけて全国の海岸線を実地に踏破する一大事業へと発展していくことになる。
弥次郎兵衛・喜多八の珍道中を描いた滑稽本『東海道中膝栗毛』の刊行が始まり、庶民の間で爆発的な人気を博した。軽妙な会話とドタバタ劇で綴られる旅の物語は、化政期の庶民文化を象徴する娯楽読み物として長く読み継がれることになる。
ラクスマンが得ていた信牌を携えたロシアの使節レザノフが長崎に来航し、正式な通商を求めた。しかし幕府は半年以上待たせた末に要求を拒絶し、面目を潰されたロシア側の一部が樺太・択捉の日本側拠点を襲撃する事件を引き起こし、日露関係は急速に悪化した。
ナポレオン戦争の余波でオランダと敵対していたイギリスの軍艦フェートン号が、オランダ船を装って長崎港に侵入し、薪水・食料を強要して去った。鎖国体制の防衛の甘さを露呈したこの事件は、長崎の警備担当者の処罰と、以後の異国船への警戒強化を招いた。
国後島で測量中のロシア海軍軍人ゴローウニンが幕府側に捕縛され、約2年間松前に抑留された。ロシア側も報復として日本人商人・高田屋嘉兵衛を捕らえたが、嘉兵衛の仲介による交渉の末に双方の捕虜が解放され、日露関係は小康を取り戻した。
83歳の杉田玄白は、40年余り前の『解体新書』翻訳の苦闘を振り返る回顧録『蘭学事始』を著した。辞書もない中で一語一句を手探りで訳していった当時の様子を生き生きと伝えるこの書は、蘭学草創期の貴重な証言として今日まで読み継がれている。
伊能忠敬が没した3年後、弟子たちの手により、17年に及ぶ全国測量の成果である『大日本沿海輿地全図』が完成した。西洋の測量技術と比較しても遜色ない精度を誇るこの地図は、幕府の重要機密として厳重に管理される一方、明治以降の近代的な地図作成にも長く活用されることになる。
相次ぐ外国船の接近に危機感を強めた幕府は、日本近海に現れた外国船を有無を言わさず砲撃して撃退することを命じる異国船打払令を発した。フェートン号事件以来の対外的緊張の高まりを受けた強硬策であったが、この方針は後にモリソン号事件を招き、内外に大きな波紋を呼ぶことになる。
出島のオランダ商館医シーボルトが、国外持ち出しを禁じられていた日本地図(伊能図の写し)を帰国の船に積み込んでいたことが発覚した。シーボルトは国外追放処分となり、地図を渡した幕府天文方の役人も処罰された。鳴滝塾でシーボルトに学んだ高野長英ら多くの門人は、この事件の後も蘭学研究を続けていく。
70歳を過ぎた北斎は、様々な場所から見た富士山を描く連作『富嶽三十六景』を発表した。中でも巨大な波を大胆に描いた「神奈川沖浪裏」は代表作として広く知られ、後にヨーロッパの印象派の画家たちにも大きな影響を与えることになる。
歌川広重は、江戸と京都を結ぶ東海道五十三次の宿場町の風景を叙情豊かに描いた連作を発表した。四季の移ろいと旅情を情感豊かに描くその作風は庶民に「旅」への憧れをかき立て、北斎と並ぶ風景版画の巨匠としての地位を確立した。
冷害による大凶作が全国を襲い、天明の大飢饉と並ぶ江戸時代最大級の飢饉となった。飢饉は数年にわたって断続的に続き、各地で百姓一揆や都市部での打ちこわしが頻発し、幕藩体制の統治能力そのものへの不信を深める結果となった。
天保の大飢饉で困窮する民衆を救おうとしない大坂町奉行所の対応に憤った元与力・大塩平八郎は、私財を投げ打って窮民を救済した末、門弟らと共に武装蜂起した。反乱そのものは半日で鎮圧されたが、幕府の元役人による公然たる反乱という前代未聞の事件は、諸大名・幕閣に強い衝撃を与えた。
日本人漂流民の送還と通商交渉を目的に来航したアメリカの商船モリソン号が、異国船打払令に基づいて浦賀と鹿児島湾で砲撃を受け退去した。武装していない民間船への砲撃は、蘭学者たちの間で幕府の対外政策への批判を強める契機となった。
モリソン号事件への幕府の対応を批判する著作を著した高野長英・渡辺崋山ら蘭学者のグループが、幕府によって弾圧された。渡辺崋山は蟄居の末に自害し、高野長英は投獄後に脱獄して逃亡生活を送ることになった。海外事情に通じた知識人への弾圧は、以後の言論統制の厳しさを象徴する事件となった。
アヘンの密輸を厳しく取り締まった清が、これに反発したイギリスとの戦争(アヘン戦争)に敗れ、香港割譲・開港を強いられたとの情報がオランダ風説書を通じて幕府にもたらされた。アジア最大の帝国と目されていた清の敗北は幕府に大きな衝撃を与え、異国船打払令の見直しを迫る重要な契機となった。
28年の歳月をかけて執筆された長編読本『南総里見八犬伝』が、全98巻をもって完結した。晩年は失明しながらも口述筆記で執筆を続けた馬琴の執念は、原稿料で生計を立てる日本最初期の職業作家としての矜持を物語っている。
アヘン戦争での清の敗北という衝撃的な情報を受け、老中・水野忠邦は内憂外患の危機感から大規模な改革に着手した。享保・寛政の改革を先例としつつ、より急進的な統制策を次々と打ち出していくことになる。
物価高騰の元凶は株仲間による流通独占にあると判断した水野忠邦は、株仲間の解散を命じた。しかし実際には流通の混乱を招いて物価はかえって上昇し、株仲間が担っていた品質管理や紛争調整の機能も失われる結果となった。
アヘン戦争の衝撃を受け、幕府は異国船打払令を撤回し、日本近海に現れた外国船には燃料の薪と水、食料を与えて穏便に退去させる薪水給与令に転換した。武力による排斥から、摩擦を避ける現実的な対応への方針転換であった。
農村から江戸へ流入した人口を強制的に帰農させる人返し令、江戸・大坂周辺の土地を幕府直轄地に組み替えようとする上知令など、水野忠邦の急進的な統制策は、対象となった大名・旗本の強い反発を招いた。上知令は撤回に追い込まれ、水野忠邦自身も老中を罷免されて天保の改革は頓挫した。
オランダ国王ウィレム2世は、世界情勢の変化を踏まえて日本に開国を勧める親書を幕府に送った。長年の友好国からの率直な忠告であったが、幕府はこれを丁重に、しかし明確に拒絶し、鎖国方針の維持を選んだ。
アメリカの司令官ビッドルが軍艦2隻を率いて浦賀に来航し、通商関係の樹立を求めた。幕府から穏便だが明確な拒絶を受けたビッドルは、強硬な態度に出ることなくおとなしく退去した。この経験が、後にペリーがより強い姿勢で交渉に臨む一因になったとされる。
漂流の末アメリカで教育を受け10年ぶりに帰国を果たした中浜万次郎は、その卓越した英語力と実地のアメリカ知識から幕府・諸藩に重用されるようになった。鎖国下の日本にとって数少ない生きた「アメリカ通」として、間もなく訪れる開国交渉の現場で重要な役割を果たすことになる。
アメリカ大統領の国書を携えたペリー提督率いる4隻の軍艦(黒船)が浦賀沖に姿を現した。ビッドルとは異なる威圧的な姿勢を崩さないペリーを前に幕府は対応に苦慮し、翌年の回答を約して久里浜での国書受け取りに応じた。徳川家康の江戸開府から250年、260年続いた幕府の泰平の世は、この来航を境に、終わりへ向けた最後の激動の時代へと突入していく。