保元の乱
合戦崇徳上皇と後白河天皇の対立に藤原摂関家の内紛が絡み、両陣営がそれぞれ平氏・源氏の武力を頼った皇位継承争い。後白河方についた清盛・義朝が勝利し、以後の武士の政治的台頭を決定づけた。
崇徳上皇と後白河天皇の対立に藤原摂関家の内紛が絡み、両陣営がそれぞれ平氏・源氏の武力を頼った皇位継承争い。後白河方についた清盛・義朝が勝利し、以後の武士の政治的台頭を決定づけた。
保元の乱の勝者内部で権力争いが再燃し、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵。清盛が留守中の隙を突いたが、清盛は熊野詣から急ぎ引き返して反撃し、義朝を敗走させた。
平治の乱に敗れ東国へ落ち延びようとした義朝は、尾張の家臣・長田忠致の裏切りにより入浴中を襲われ落命した。源氏の棟梁の非業の死は、後年の頼朝の挙兵の原点となる。
平治の乱後、13歳の頼朝は死罪を免れ伊豆国蛭ヶ小島への流罪となった。以後20年にわたる配流生活の中で、頼朝は雌伏の時を過ごすことになる。
平治の乱の勝利を経て急速に昇進した清盛は、武士として初めて太政大臣に上り詰めた。日宋貿易による経済力と、一族を高位高官に就ける人事によって平氏政権の絶頂期が始まる。
平氏の専横に反発する後白河法皇の近臣たちが、京都東山の鹿ヶ谷の山荘に集まり平氏打倒を密議した。計画は密告により露見し、清盛は関係者を厳しく処罰したが、後白河との溝は決定的に深まった。
清盛と後白河法皇の間で調整役を果たしてきた重盛が病に倒れ死去した。平氏内部の抑止力を失った清盛は、以後急速に強硬路線へと傾いていく。
重盛の死を機に、清盛は多数の反平氏派公卿を解任・追放し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して院政を停止させた。平氏一門による事実上の独裁体制が確立した。
清盛の外孫にあたる安徳天皇がわずか3歳で即位し、平氏は天皇の外戚として権勢の絶頂に達した。一方でこの皇位継承は以仁王ら他の皇位継承候補の反発を招くことになる。
皇位継承から外され続けた以仁王が、源頼政の勧めで諸国の源氏・武士に平氏打倒を呼びかける令旨を発した。この令旨は頼朝・義仲をはじめ各地の反平氏勢力の挙兵を促す起爆剤となった。
挙兵の計画が露見した以仁王と頼政は、園城寺の僧兵と共に南都を目指すが平氏の追討軍に宇治川で追いつかれた。頼政は平等院で自害し、以仁王も逃走中に討たれ、決起はわずか数日で潰えた。
以仁王の令旨を受け取った頼朝は、舅の北条時政ら在地武士団の支持を得て伊豆で挙兵し、平氏方の伊豆国目代・山木兼隆を討った。20年の雌伏を経た頼朝の挙兵である。
挙兵直後の頼朝はわずかな手勢で平氏方の大庭景親らに石橋山で大敗し、山中に身を潜めて命からがら安房国へ逃れた。梶原景時が敵陣にいながら頼朝を見逃した逸話もこの戦いに由来する。
安房で体勢を立て直した頼朝は、上総広常ら坂東の豪族を次々に従えて大軍勢となり、源氏ゆかりの地・鎌倉に入った。以後鎌倉は東国支配の本拠地として整備されていく。
頼朝討伐に派遣された平維盛の軍は、富士川を挟んで頼朝軍と対峙した。夜半に水鳥の一斉に飛び立つ羽音を源氏方の夜襲と誤認した平氏軍は、戦わずして総崩れとなり京へ敗走した。
頼朝の従兄弟にあたる義仲もまた以仁王の令旨を受け、信濃国木曾で挙兵した。頼朝とは別の勢力圏を形成し、以後は独自に北陸方面で平氏と戦っていく。
全国的な反平氏の挙兵が広がる中、清盛は熱病に倒れ64歳で死去した。求心力の要を失った平氏一門は、力量に劣る宗盛のもとで難局への対応を迫られることになる。
北陸に進出した義仲軍が、再び平維盛率いる平氏の大軍を倶利伽羅峠で撃破した。夜襲と牛の角に松明を括り付けて突撃させたという奇策が伝わり、平氏の軍事力に決定的な打撃を与えた。
倶利伽羅峠の敗報を受け、義仲軍の入京を目前にした平氏一門は、幼い安徳天皇と三種の神器を奉じて都を放棄し、西国へと落ち延びた。栄華を誇った平氏政権はここに事実上崩壊した。
平氏が去った都に義仲が入京し、後白河法皇から平氏追討の宣旨を与えられた。しかし木曾育ちの義仲の軍勢は都の作法に不慣れで、兵糧の徴発などをめぐり京の人々の不興を買っていく。
統治能力を欠く義仲への評価は急落し、後白河法皇は水面下で頼朝に接近し始めた。危機感を強めた義仲は法皇の御所を武力で制圧するが、これがかえって京での孤立を決定的にした。
後白河法皇の要請を受けた頼朝は、義経・範頼の率いる軍を義仲討伐のため京へ派遣した。これが頼朝配下としての義経の初陣であり、以後の平氏討伐戦の指揮官としての活躍の始まりとなる。
義経・範頼軍に京を追われた義仲は近江へ落ち延びるが、粟津で追いつかれ深田に馬を取られたところを討たれた。乳母子の今井兼平も主君の後を追って自害し、木曾源氏の挙兵は幕を閉じた。
義仲討伐後、態勢を立て直した平氏を義経・範頼軍が摂津一ノ谷に攻めた。義経は断崖絶壁の鵯越から少数精鋭で奇襲を仕掛け、油断していた平氏本陣を混乱に陥れて大勝を収めた。
敗走する平氏方の若武者・平敦盛を波打ち際で組み伏せた熊谷直実は、我が子と同年代の少年と知り一度は見逃そうとするが、味方の追撃を見て涙ながらに討ち取った。この体験が後の直実の出家の契機になったと伝わる。
一ノ谷から立て直した平氏は讃岐屋島に本拠を構えるが、義経はわずかな手勢で暴風の中を渡海し、背後から奇襲をかけて平氏を海上へ敗走させた。この戦いで郎党・佐藤継信が義経の身代わりとなって戦死している。
海上に逃れた平氏方が船の竿に扇を掲げ、射抜けるものならと源氏方を挑発した。名指しされた那須与一は荒波に揺れる小舟の的を見事に射抜き、両軍から歓声が上がったという。
本州西端の壇ノ浦で源平両軍の水軍が激突した。開戦当初は潮流を味方につけた平氏が優勢だったが、潮目が変わると源氏方が逆転し、平氏の水手を射るなど戦法を切り替えた義経軍が制圧、平氏は壊滅した。
敗勢が決すると、祖母の二位尼(時子)は幼い安徳天皇を抱いて「波の下にも都がございます」と語りかけ、共に入水した。この時、三種の神器のうち宝剣が海に沈み失われた。
知盛・教経ら主だった一門は次々と入水し、清盛の孫世代までもが海に消えた。棟梁の宗盛は入水しきれず捕らえられ、後に鎌倉・京を引き回された末に処刑された。栄華を誇った平氏はここに滅亡した。
壇ノ浦で救助された建礼門院は都で出家し、洛北・大原の寂光院に隠棲して一門の菩提を弔う日々を送った。後白河法皇が寂光院を訪ねた「大原御幸」は、平家物語の掉尾を飾る名場面として知られる。
平氏討伐の大功を立てた義経だったが、梶原景時の讒言もあって頼朝は鎌倉入りを許さなかった。腰越に留め置かれた義経は自らの忠誠を訴える書状(腰越状)を送るが、頼朝の疑念は解けなかった。
後白河法皇から独自に検非違使の官位を受けたことなど、頼朝の統制を離れた義経の行動が積み重なり、両者の不和は修復不能となった。頼朝は義経討伐の意志を固めていく。
追い詰められた義経は後白河法皇から頼朝追討の院宣を得るが、味方する武士はほとんど集まらなかった。頼朝の圧力を受けた法皇はすぐに義経追討の院宣に切り替え、義経は都を追われる身となった。
義経追討を名目に、頼朝は大江広元の献策により諸国に守護・地頭を置く権限を朝廷から勅許された。これにより頼朝の支配は東国だけでなく全国の武士に及ぶ法的基盤を得ることになった。
都を追われた義経は弁慶ら僅かな郎党と共に潜行し、少年時代に世話になった奥州藤原氏の藤原秀衡を頼って平泉に落ち延びた。秀衡は頼朝の圧力を承知の上で義経を再び匿った。
義経を庇護し続けた秀衡は、子の泰衡らに義経を主君として仰ぎ一致団結して頼朝に対抗するよう遺言し病没した。しかし泰衡はこの遺言を守り抜くことができなかった。
頼朝からの再三の圧力に屈した泰衡は、父の遺言に反して義経の衣川館を急襲した。弁慶ら郎党が奮戦して時間を稼ぐ中、義経は妻子と共に自害し、31年の生涯を閉じた。
義経を討ち頼朝への恭順を示した泰衡だったが、頼朝は義経を匿った罪を口実に大軍を率いて奥州へ進撃した。抵抗虚しく平泉は陥落し、泰衡も家臣に裏切られて討たれ、三代にわたり栄えた奥州藤原氏は滅亡した。
奥州藤原氏の滅亡により、頼朝に対抗しうる武力は日本国内に存在しなくなった。保元の乱に始まった33年にわたる争乱は頼朝の覇権確立をもって幕を閉じ、翌年の上洛、そして征夷大将軍就任へと道を開くことになる。