遣唐使の停止
政変遣唐大使に任じられた菅原道真は、唐の混乱と航海の危険を理由に派遣の中止を建議した。これにより実質的に遣唐使は廃止され、大陸文化の直接的な影響力が薄れる中で、日本独自の「国風文化」が花開く下地が整っていく。
遣唐大使に任じられた菅原道真は、唐の混乱と航海の危険を理由に派遣の中止を建議した。これにより実質的に遣唐使は廃止され、大陸文化の直接的な影響力が薄れる中で、日本独自の「国風文化」が花開く下地が整っていく。
学者の家柄でありながら異例の出世を遂げた道真が右大臣に就任した。左大臣・藤原時平と並ぶ地位に上り詰めたが、これが藤原氏側の警戒と反発を強める結果にもなった。
藤原時平は道真が娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀っていると醍醐天皇に讒言し、道真は大宰権帥として大宰府へ左遷された。事実上の流罪であり、道真の政治生命はここで絶たれた。
都への帰還を許されぬまま、道真は失意のうちに大宰府で没した。「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」の歌に、都への尽きせぬ思いが託されている。
道真を追い落とした時平が39歳の若さで急死した。以後も都では落雷や疫病、皇族の相次ぐ死が続き、これらはことごとく道真の怨霊の祟りと恐れられた。朝廷は道真の官位を復し、天満宮に祀ることで鎮魂を図った。
所領をめぐる一族内の私闘から始まった将門の武力行使は、次第に国司との対立へと発展し、坂東一円を巻き込む大規模な争乱へと拡大していった。
坂東諸国の国府を次々と制圧した将門は、自らを「新皇」と称し、独自の官制を敷いて坂東に新たな政権を樹立しようとした。朝廷の権威に真正面から挑むこの行動は、都に大きな衝撃を与えた。
伊予の下級貴族であった純友は、瀬戸内海の海賊衆を糾合して大規模な反乱を起こし、周辺の国府や大宰府までも脅かした。将門の乱とほぼ同時期に起きたこの東西呼応の争乱は、朝廷に深刻な危機感を抱かせた。
朝廷方に転じた平貞盛と藤原秀郷の連合軍が将門軍を急襲し、将門は矢を受けて討死した。「新皇」を称してからわずか2ヶ月ほどでの陥落であり、乱は急速に収束していった。
朝廷が派遣した追討軍に大宰府を奪還され、純友の勢力は急速に瓦解した。伊予に逃れた純友も捕らえられ、獄中で没したと伝わる。将門・純友二つの乱が同時に鎮圧されたことで、朝廷は当面の危機を脱した。
冷泉天皇の即位に伴い藤原実頼が摂政となった。天皇の奇行が噂される中、朝廷内では藤原氏各流と源高明ら他氏出身の有力者との間で、次期天皇をめぐる緊張が高まっていく。
為平親王を擁立しようとしているとの密告により、左大臣・源高明は謀反の疑いをかけられ大宰権帥に左遷された。藤原氏による他氏排斥の最後の事件とされ、これ以降、摂政・関白の地位は事実上藤原北家によって独占される摂関政治体制が確立していく。
寵愛した女御を亡くし悲嘆に暮れる花山天皇に、藤原兼家の子・道兼が「共に出家しましょう」と持ちかけ宮中から連れ出した。天皇が出家すると道兼はそのまま逃げ帰り、これが兼家一派による周到な策謀であったことが露見した。
花山天皇の退位を受け、兼家の外孫にあたる懐仁親王が一条天皇として即位した。兼家は念願の摂政の座につき、藤原氏の権勢はさらに強固なものとなった。
関白であった兄・道隆が病死し、後を継いだもう一人の兄・道兼も就任からわずか数日で疫病により没するという不運が重なった。五男でありながら生き残った道長に運が巡り、氏長者・内覧の地位を得て事実上の政権を掌握した。
伊周が女性関係のもつれから花山法皇の一行に矢を射かける事件を起こし、これを口実に伊周・隆家兄弟は左遷された。道長最大のライバルであった伊周はこれにより完全に政治力を失い、道長の権力基盤は決定的なものとなった。
実家の後ろ盾を失いながらも一条天皇の寵愛を受け続けた定子が、第二皇女の出産直後に24歳で世を去った。清少納言が仕えた華やかな後宮サロンは、その中心を失うことになった。
長徳の変の後も官位の回復を望み続けた伊周だったが、ついに政治の表舞台に返り咲くことなく37歳で没した。中関白家はこの死により事実上没落し、道長の藤原摂関家が名実共に朝廷を主導する体制が固まった。
兼家の妻の一人であった道綱母は、夫の複数の妻との関係に苦しむ自らの半生を赤裸々に綴った『蜻蛉日記』を著した。一人の女性の内面を見つめる先駆的な日記文学として、後の女流文学に大きな道を開いた。
道長が大堰川で催した舟遊びで、漢詩・和歌・管弦それぞれの舟に分かれた文人たちの中から、公任はどの舟に乗っても一流の腕前を見せたと伝わる。この故事から「三船の才」の呼び名が生まれ、公任の類まれな教養が広く知れ渡った。
中宮定子に仕える清少納言は、四季の情趣や宮廷生活の機微を鋭い観察眼で描いた随筆『枕草子』を著した。「春はあけぼの」の書き出しで知られるこの作品は、没落しゆく定子の後宮の華やかな記憶を今に伝えている。
夫と死別した紫式部は、その文才を見込まれて中宮彰子に女房として出仕する前後から、光源氏の生涯を描く長編物語『源氏物語』の執筆を開始したと考えられている。この作品はやがて全54帖におよぶ王朝文学の最高峰へと結実していく。
道長は評判高い『源氏物語』の作者を娘・彰子の後宮に招き入れた。紫式部は彰子に仕えながら執筆を続け、その様子は自らの手による『紫式部日記』にも記録されている。
冷泉天皇の皇子たちとの相次ぐ恋愛遍歴が都の評判となる一方、その恋心を詠んだ和歌の技巧は紫式部をして「天性の歌人」と言わしめるほどであった。後に彰子にも女房として仕え、王朝随一の恋愛歌人としての名声を確立した。
小野道風・藤原佐理と並ぶ「三跡」の一人として、行成の優美な書風「権跡」は貴族社会で高く評価された。実務官僚としても道長に深く信頼され、政治と文化の両面で王朝の全盛期を支えた。
三女・威子が後一条天皇の中宮に立てられ、道長の娘三人が同時に太皇太后・皇太后・中宮の地位を占めるという前代未聞の状況が実現した。祝宴の席で道長が詠んだ「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることも無しと思へば」の歌は、その権勢の頂点を象徴している。
女真族系とされる異民族「刀伊」の船団数十隻が対馬・壱岐を襲い、多くの島民が殺害・拉致された。九州本土にも迫るが、大宰権帥であった藤原隆家が現地の武士団を指揮して迎撃し、これを撃退した。中央の貴族社会にとって数少ない対外的な軍事的脅威であった。
病を機に出家した道長は、政務の第一線からは退くが、なお隠然たる影響力を保ち続けた。晩年は法成寺の建立に心血を注ぎ、この世に極楽浄土を再現しようとした。
摂関政治の頂点を極めた道長が62歳で没した。娘たちを通じて三代の天皇の外戚となり、望月にたとえられるほどの栄華を築いたその生涯は、王朝文化が最も華やかであった時代の象徴として記憶されている。
房総で勢力を誇った平忠常が国司と対立して反乱を起こし、追討軍を退けるほどの勢いを見せた。しかし朝廷が源頼信を新たに派遣すると、忠常はその威名を聞いてほとんど戦わずに降伏した。この一件は源氏が東国武士団の信望を集める大きな契機となった。
陸奥奥六郡を実質支配していた安倍頼時が朝廷への貢租を怠っているとして、陸奥守・源頼義による追討が始まった。当初は安倍氏が優勢に戦いを進め、頼時自身も緒戦で活躍したが、やがて戦いは長期化していく。
末法の世が到来するとの不安が広がる中、頼通は宇治の別荘を寺院に改め、阿弥陀如来を祀る鳳凰堂を建立した。極楽浄土をこの世に体現しようとしたこの建築は、藤原摂関家の富と美意識の到達点として今も残る。
頼義の嫡男・義家は若くして戦の陣頭に立ち、安倍貞任との激戦の中でその武勇を示した。石清水八幡宮で元服したことにちなむ「八幡太郎」の名は、この前九年の役での活躍を通じて東国武士たちの間に広く知れ渡っていった。
出羽の清原氏が源氏方に加勢したことで戦局は一気に傾き、安倍氏最後の拠点・厨川柵は陥落、貞任も討死した。12年におよぶ前九年の役はここに終結し、源頼義・義家父子の武名は東国全域に轟くことになった。
半世紀近く摂政・関白を務めた頼通は関白の座を弟に譲り、宇治へと退いた。外戚関係にない皇子の即位が現実味を帯びる中、藤原摂関家の権勢に陰りが見え始めていた。
母が藤原氏出身でなかったため、実に170年ぶりに摂関家を外戚としない天皇が即位した。荘園整理などの改革に着手したその治世は、道長・頼通と続いた摂関政治の絶頂期に、静かながら決定的な転換をもたらすことになる。