アレクサンドロスの即位
政治・外交父フィリッポス2世が娘の婚礼の祝宴中に護衛官に暗殺されると、20歳のアレクサンドロスが電光石火の対応で王位を継承した。即位直後にギリシア諸ポリスで広がった反乱の動きを鎮めるため、わずか十数日でテッサリアを制圧して南下し、諸ポリスに自らの権威を知らしめた。この物語は「古代ギリシア」タイムラインの終盤から続く、東方遠征の出発点である。
父フィリッポス2世が娘の婚礼の祝宴中に護衛官に暗殺されると、20歳のアレクサンドロスが電光石火の対応で王位を継承した。即位直後にギリシア諸ポリスで広がった反乱の動きを鎮めるため、わずか十数日でテッサリアを制圧して南下し、諸ポリスに自らの権威を知らしめた。この物語は「古代ギリシア」タイムラインの終盤から続く、東方遠征の出発点である。
ヘレスポントスを渡海したアレクサンドロス軍が、小アジアの地方総督連合軍と激突した東方遠征最初の大会戦。アレクサンドロス自らが騎兵突撃の先頭に立ち、あわや討ち死にという窮地を将軍クレイトスに救われながらも勝利を収めた。この勝利により小アジア西岸のギリシア人都市が次々とペルシアの支配から解放され、遠征は幸先の良い滑り出しを見せた。
「この結び目を解いた者がアジアの王となる」との伝説が残る複雑な結び目に対し、アレクサンドロスは丁寧に解く代わりに剣で一刀両断にしたと伝えられる。史実性には議論があるものの、この逸話は彼の大胆さと「前例に縛られず力で解決する」統治スタイルを象徴する物語として古代から広く語り継がれた。
ダレイオス3世自らが率いる大軍を相手に、狭い海岸平野という地の利を活かしたアレクサンドロスが決定的勝利を収めた。ダレイオスは自ら戦場を離脱して逃走し、その母・妻・娘たちを含む王家一族が捕虜となった。アレクサンドロスは捕らえた王族を丁重に処遇したことでも知られ、この寛容な扱いは彼の名声をペルシア領内にも広める効果を持った。
難攻不落を誇った海上都市ティルスが降伏を拒むと、アレクサンドロスは海を埋め立てて本土と島とを結ぶ堤道を建設するという前代未聞の攻城戦を7か月にわたり敢行した。都市を陥落させると、激しい抵抗への報復として住民の多くを殺害・奴隷化する厳しい処置を取った。この徹底した攻略はエジプトへの進撃路を確保すると同時に、以後の抵抗勢力への強い見せしめともなった。
ペルシアの圧政に苦しんでいたエジプトはほとんど抵抗せずアレクサンドロスを解放者として迎え入れた。彼はナイル川河口に自らの名を冠する都市アレクサンドリアの建設を命じ、さらに砂漠を横断してシワ・オアシスのアモン神殿を訪れ、そこで「ゼウス・アモンの子」との神託を得たと伝えられる。このアレクサンドリアは、後のプトレマイオス朝のもとでヘレニズム世界随一の学術都市へと発展する。
ダレイオス3世が国力を結集し、戦車や象部隊まで動員した最後の決戦。数で圧倒的に劣るアレクサンドロス軍は斜行陣形と機動力で敵中央の間隙を突き、ダレイオスの本陣に迫った。ダレイオスは三度目にして最後の敗走を遂げ、この敗北によってアケメネス朝の軍事力は事実上壊滅し、以後バビロン・スーサ・ペルセポリスといった帝国の中枢都市が次々と無血開城することになる。
アケメネス朝の儀礼上の首都ペルセポリスは無血開城したが、莫大な財宝が接収された後、壮麗な王宮群は大規模な火災で焼失した。事故説・報復説・酒宴の余興説など出火原因には諸説あるが、いずれにせよペルシア帝国の象徴的中心地の消失は、旧体制の終焉を内外に印象づける出来事となった。
ガウガメラ以来東方へ逃げ続けていたダレイオス3世は、部下のバクトリア総督ベッソスによって幽閉された末、アレクサンドロスの追撃が迫ると見捨てられて刺殺された。アレクサンドロスは虫の息のダレイオスに間に合わず、既に事切れた遺骸に自らの外套をかけ、ペルシア王家の礼式に則って丁重に埋葬させた。約二百年続いたアケメネス朝はこの死をもって事実上滅亡した。
老将パルメニオンの息子フィロタスが暗殺陰謀を知りながら報告しなかった容疑で告発・処刑されると、離れた地にいたパルメニオン自身にも謀反の疑いがかけられた。裁判の機会も与えられぬまま、王の密命を受けた使者によって暗殺された。この粛清は、遠征の長期化に伴い王と古参将軍団との間に広がっていた不信の深さを象徴する事件となった。
かつてグラニコスでアレクサンドロスの命を救った古参将軍クレイトスが、酒宴の席でペルシア風の振る舞いを強める王を痛烈に批判した。激怒したアレクサンドロスは酔いに任せて槍を投げつけ、その場でクレイトスを刺殺してしまった。我に返った王は深い自責の念に苛まれたと伝えられ、この事件は東方融合政策への軍内の反発が頂点に達した瞬間として記憶される。
バクトリア遠征中に激しい抵抗を続けた「岩の要塞」を陥落させたアレクサンドロスは、その地の豪族の娘ロクサネに一目惚れし、政略というより恋愛結婚に近い形で正式な妃に迎えたと伝えられる。この結婚は現地エリート層との融和を図る意図もあったが、後にロクサネが産む遺児アレクサンドロス4世が、王の死後の後継者争いの中心に置かれることになる。
インド遠征でパウラヴァ王ポロスの軍勢と激突。増水した大河を渡河する奇襲でポロス軍の戦象部隊に対抗し、激戦の末に勝利した。降伏したポロスに「王としてどう扱ってほしいか」と問うと「王として扱ってほしい」と堂々と答えたため、アレクサンドロスはその気概を評価してポロスをそのまま王位に留め、以後の忠実な同盟者とした。
8年に及ぶ遠征と度重なる雨季の行軍に疲弊しきった兵士たちは、ガンジス川流域のさらなる大国の噂を聞くと、ついにこれ以上の東進を拒んだ。アレクサンドロスは説得や不機嫌な籠城など様々な手を尽くしたが、兵士たちの総意は変わらず、ついに東征の終了と帰還を宣言せざるを得なかった。彼の生涯で唯一「敵ではなく自軍に譲歩した」出来事として知られる。
帰還後の祝賀の中、アレクサンドロス生涯の盟友ヘファイスティオンが熱病で急死した。王の悲嘆は尋常でなく、数日間食事も統治も放棄し、盛大かつ異例の国葬と神格化まで断行させた。この過度な喪failに服する様は、単なる友情を超えた特別な関係性の深さを物語るものとして、後世の史家にも注目され続けている。
次なる遠征としてアラビア半島征服を計画していたさなか、アレクサンドロスは高熱を発する原因不明の病に倒れ、10日あまり後にバビロンで32歳の生涯を閉じた。後継者を明確に指名しなかったため、臨終の間際に「最強の者に」と告げたと伝わる曖昧な遺言だけが残された。この死によって史上最大級の帝国は指導者を失い、以後数十年にわたる後継者たちの死闘「ディアドコイ戦争」の幕が上がる。
後継者を持たぬまま急死した王の遺した混乱を収めるため、将軍たちがバビロンに集結して会議を開いた。知的障害を持つ異母兄ピリッポス3世と、間もなく生まれる遺児(後のアレクサンドロス4世)を名目上の共同王とし、実権はペルディッカスが摂政として、各地の統治は将軍たちが総督(サトラップ)として分担する妥協案がまとめられた。この会議での領土配分が、以後のディアドコイ戦争における各将軍の勢力基盤となる。
帝国全体への統制強化を図る摂政ペルディッカスは、独自路線を強めるプトレマイオスを討つべくエジプトへ侵攻した。しかしナイル川渡河の際に多数の兵士が溺死・鰐に襲われるなどの惨事が続き、進軍は完全に頓挫した。度重なる失策に激怒した自軍の将校団により、ペルディッカスは陣営内で殺害された。この事件は「第一次ディアドコイ戦争」の実質的な決着点となった。
ペルディッカス没落を受け、将軍たちが再びシリアのトリパラディソスに集結して帝国領土の再分配を行った。老将アンティパトロスが新たな摂政に選ばれ、セレウコスがバビロニア総督の座を得るなど、以後の勢力図を大きく左右する人事が決定された。しかしこの会議もまた次の対立の火種を残すことになり、真の安定にはほど遠かった。
ペルディッカス派に与したエウメネスが、アンティパトロス側についた歴戦の将軍クラテロスの軍と激突した。ギリシア人であるがゆえに軽んじられがちだったエウメネスだったが、巧みな用兵でクラテロスを打ち破り、乱戦の中でクラテロス自身を討ち取った。人望の厚かった歴戦の将軍の死は、ディアドコイたちの間にエウメネスへの強い憎悪を植え付けることになった。
帝国摂政アンティパトロスは死の床で、実子カッサンドロスではなく古参の部将ポリュペルコンを後継の摂政に指名した。この人選は「血縁より実力」を重んじた判断だったとされるが、野心を挫かれたカッサンドロスの激しい反発を招き、以後マケドニア本国を舞台にした新たな内戦の引き金となった。
アレクサンドロスの母オリュンピアスは、孫アレクサンドロス4世の後見権を巡ってカッサンドロスと激しく対立した。一時は権力を掌握し、政敵と目した共同王ピリッポス3世やその妃を処刑するなど徹底した粛清を行ったが、間もなくカッサンドロスに追い詰められて包囲され、最終的に処刑された。この内紛でロクサネと幼い王アレクサンドロス4世もカッサンドロスの監視下に置かれることになった。
王家への忠誠を貫き通したエウメネスであったが、次第に孤立を深め、最終的にアンティゴノスの大軍に包囲された。頼みとしていた精鋭部隊「銀盾隊」が、自分たちの荷物(略奪した財宝や家族)を人質に取られたことで裏切り、エウメネスをアンティゴノスに引き渡した。アンティゴノスは有能さゆえに助命も検討したが、最終的に処刑を選んだ。これにより王家(アルゲアス朝の遺児)を守ろうとする勢力は事実上消滅した。
エウメネスを排除したアンティゴノスは、小アジアからシリア・バビロニアに至る広大な領域を掌握し、単独で帝国全体を再統一せんとする野心を隠さなくなった。バビロニアを追われたセレウコスはプトレマイオスのもとへ亡命し、プトレマイオス・リュシマコス・カッサンドロスらは共通の脅威を前に反アンティゴノス同盟を結成する。以後、他の全ディアドコイ対アンティゴノス父子という対立構図が固定化していく。
成人が近づき、名目上とはいえ帝国全土の相続権を持つアレクサンドロス4世の存在は、実権を握るカッサンドロスにとって次第に看過できない脅威となった。カッサンドロスは母子を密かに毒殺させ、その死は長らく秘匿された。これによりアルゲアス朝の男系血統は完全に途絶え、以後のディアドコイたちが独自の王朝を開くことへの最後の障壁が取り除かれた。
サラミス(キプロス)沖の海戦でプトレマイオス艦隊を破ったアンティゴノスと息子デメトリオスが、初めて公然と「王(バシレウス)」を名乗った。もはや帝国再統一への望みが絶えたことを悟った他のディアドコイたちも相次いでこれに倣い、プトレマイオス・セレウコス・リュシマコス・カッサンドロスがそれぞれ独立した王として即位を宣言した。この瞬間をもって、単一のアレクサンドロス帝国は名実ともに複数の王国へと分裂した。
プトレマイオスと同盟していた海洋都市国家ロドスに対し、デメトリオスが史上最大級の攻城塔「ヘレポリス」まで投入する大攻囲戦を敢行した。ロドス市民は巧みな防戦でこれを1年以上耐え抜き、最終的にデメトリオスは包囲を解いて撤退した。この奮戦により「攻城者(ポリオルケテス)」の異名を持つデメトリオスすら陥落させられなかった都市として、ロドスの名声は大いに高まった。
帝国再統一を目指すアンティゴノス父子に対し、脅威を感じた他の全ディアドコイ(セレウコス・リュシマコス・カッサンドロス)が連合軍を組んで決戦に挑んだ。セレウコスがインドから持ち帰った500頭の戦象部隊が決定打となり、デメトリオスの騎兵が本隊から引き離された隙にアンティゴノスの歩兵陣は包囲され壊滅、齢80を超えるアンティゴノス自身も戦場で討ち死にした。この会戦をもって帝国再統一の可能性は永久に潰え、後継者王国の並立が確定した。
プトレマイオス1世は亡命アテナイ人デメトリオス・ファレレウスの提言を受け、アレクサンドリアに古代世界最大の図書館と、学者たちが研究に専念できる施設「ムセイオン」の建設を開始した。「世界中の全ての書物を収集する」という野心的な方針のもと、入港する船の書物を強制的に写本させるなど徹底した収集が行われ、後にユークリッドやエラトステネスら錚々たる学者を輩出する古代随一の学術拠点に成長していく。
後妻の讒言を信じて実子アガトクレスを処刑した結果、臣下の離反を招いていたリュシマコスに対し、かつての盟友セレウコスが軍を進めた。決戦でリュシマコスは戦死し、その広大な領土(トラキア・小アジア北部)はセレウコスの手に落ちた。アレクサンドロスの遺した将軍たちのうち、これで存命なのはセレウコス一人のみとなり、彼はアレクサンドロス帝国全土の再統一に最も近づいた瞬間を迎えた。
コルペディオンでの勝利によりディアドコイ最後の生き残りとなり、故郷マケドニアへの帰還と統一の総仕上げを目前にしていたセレウコスであったが、亡命者として身を寄せていたプトレマイオス・ケラウノス(プトレマイオス1世の長男で王位継承から外れた人物)に、上陸直後に背後から刺殺された。統一の夢はここで潰え、以後のヘレニズム世界はプトレマイオス朝・セレウコス朝・マケドニアの三国鼎立という形で長期的に安定していくことになる。
南イタリアのギリシア人都市タラスの要請を受け、アレクサンドロス大王の縁戚にあたるエペイロス王ピュロスが軍を率いてイタリアへ渡った。ヘラクレアやアウスクルムでローマ軍を二度破ったものの、いずれも自軍にも壊滅的な損害を出す辛勝に終わった。「もう一度このような勝利を得れば、我々は破滅するだろう」という彼の嘆きから、「割に合わない犠牲の大きい勝利」を意味する「ピュロスの勝利(Pyrrhic victory)」という言葉が生まれた。
北方からバルカン半島に大挙して南下してきたケルト系のガリア人が、マケドニアを蹂躙した後、聖地デルポイのアポロン神殿にまで略奪の手を伸ばそうとした。ギリシア諸都市の連合軍と、伝承では嵐や地震といった「神の怒り」までもがこれを撃退したとされる。この侵入はマケドニア王家の権威を大きく揺るがし、王位を巡る新たな混乱を引き起こした。
ギリシア本土での侵攻に失敗したガリア人の一部は、ビテュニア王の招きで傭兵として小アジアに渡海し、やがて中央高原の一角に定住して「ガラティア(ガリア人の地)」と呼ばれる独自の勢力圏を築いた。以後彼らは周辺のヘレニズム諸国にとって恐れられる傭兵供給源であると同時に、たびたび討伐対象ともなる不安定な要素として、小アジアの勢力図に長く影響を及ぼし続けた。
アンティゴノス1世の孫にあたるアンティゴノス2世ゴナタスが、リュシマケイアの戦いで侵入してきたガリア人部隊を打ち破り、この軍事的成功を足がかりにマケドニア王位を確保した。彼の系統(アンティゴノス朝)はここから約130年にわたり安定してマケドニアを統治し続けることになり、プトレマイオス朝・セレウコス朝と並ぶヘレニズム世界三大王国の一角がここに定まった。
地中海と紅海を結ぶ交易路の要衝コイレ・シリア地方の領有権を巡り、プトレマイオス朝とセレウコス朝の間で第一次シリア戦争が勃発した。以後この地域は約1世紀にわたり両国の係争地であり続け、通算6次にも及ぶシリア戦争が断続的に繰り広げられることになる。この長期対立は両王国の国力を徐々に消耗させ、後のローマ介入の遠因ともなった。
政治家アラトスがシキュオンをマケドニアの支配から解放して加盟させたことをきっかけに、ペロポネソス半島の諸都市が連合する「アカイア同盟」が急速に勢力を拡大した。単一の覇権国家ではなく、加盟都市が代表者を送り合議で運営する連邦制的な仕組みは、古代ギリシアの伝統的なポリス自治とマケドニアの広域支配との間の新たな折衷案として機能した。
衰退著しかったスパルタで即位したクレオメネス3世は、リュクルゴス制の理想を掲げて土地の再分配や市民権拡大といった急進的な社会改革を断行し、軍事力を立て直してアカイア同盟に戦いを挑んだ(クレオメネス戦争)。一時は同盟軍を圧倒する快進撃を見せたが、窮地に陥ったアカイア同盟の指導者アラトスが宿敵マケドニアに援軍を要請するという禁じ手に踏み切り、戦況は一変することになる。
デメトリオスの包囲戦の戦利品から鋳造され、地中海貿易の守護神として港に立っていた太陽神ヘリオスの巨像「ロドスの巨像」が、大地震により膝の部分から折れて倒壊した。エジプトのプトレマイオス3世が再建費用を申し出たが、ロドス側は「神の意志に反する」という神託を理由に固辞し、巨像はその後も倒れたまま800年近く放置され続けた。
アカイア同盟の要請で介入したマケドニア王アンティゴノス3世が、スパルタ王クレオメネス3世の軍を完膚なきまでに打ち破った。敗れたクレオメネスはエジプトへ亡命し、スパルタは長い歴史上初めて外国軍に占領されるという屈辱を味わった。この敗北によりスパルタの急進改革は水泡に帰し、以後スパルタが独力でギリシアの覇権を左右する力を取り戻すことは二度となかった。
第四次シリア戦争において、アンティオコス3世率いるセレウコス朝軍とプトレマイオス朝軍がコイレ・シリアを巡って激突した。プトレマイオス朝は劣勢を挽回するため史上初めて大規模にエジプト人native部隊を正規軍として編成・投入し、この戦いに勝利した。しかし武器と訓練を得たエジプト人民衆の間に自信と政治的自覚が芽生える結果を招き、以後プトレマイオス朝内で頻発する民衆反乱の遠因になったとされる。
第二次ポエニ戦争でローマを追い詰めていたカルタゴの将軍ハンニバルに対し、マケドニア王フィリッポス5世が同盟を結んだ。この同盟は軍事的には限定的な効果しか生まなかったものの、ローマにとってはギリシア方面に新たな敵対勢力を作り出す結果となり、以後半世紀続くローマとマケドニアの断続的な抗争「マケドニア戦争」の発端となった。
第二次マケドニア戦争の決戦。伝統的なマケドニア方陣は正面からの防御力は絶大だったが、起伏の激しい丘陵地形で隊列が乱れたところをローマ軍団の機動的な中隊戦術(マニプルス)に側面と背後を突かれ、壊滅的な敗北を喫した。この一戦は、アレクサンドロス以来百五十年間無敵を誇ったマケドニア式戦術がローマ式軍団戦術に劣ることを白日の下に晒す、軍事史上の転換点となった。
キュノスケファライの勝者フラミニヌスは、汎ギリシア的祭典イストミア大祭の場で「ローマ元老院と自分は、全てのギリシア人都市に自由・自治・免税を認める」と宣言した。この劇的な演出は集まった群衆から熱狂的な歓呼で迎えられたが、実際にはギリシアの政治的独立が形式上のものに留まり、以後ローマの意向を無視できない事実上の保護国化が進んでいく出発点でもあった。
アイトリア同盟の要請を受けギリシアへ進出したアンティオコス3世であったが、かつてレオニダスが玉砕した古戦場テルモピュライで、ローマ軍に側面の山道を突かれる同様の展開で大敗を喫した。ペルシア戦争時とは逆の立場でこの地に敗れたセレウコス朝軍はギリシアから撤退を余儀なくされ、戦いの舞台は小アジア本土へと移っていく。
小アジアに追われたアンティオコス3世は、鎌付き戦車や重装騎兵まで動員した大軍でローマ・ペルガモン連合軍を迎え撃ったが、機動力と規律に勝るローマ軍団の前に壊滅的敗北を喫した。「大王」の称号にふさわしい東方最大の帝国を築いていたセレウコス朝は、この一戦を境に軍事的優位を完全に喪失し、以後は守勢に転じることになる。
マグネシア敗戦後、アンティオコス3世はローマとの間に屈辱的な講和条約を結んだ。タウロス山脈以西の小アジア領土の全面放棄、戦象・艦隊の大幅削減、莫大な賠償金の支払いが課され、割譲された領土の多くはローマの同盟国ペルガモンとロドスに分配された。この和約によりセレウコス朝は東方の大国としての地位を大きく後退させ、以後衰退の一途をたどることになる。
父フィリッポス5世の雪辱を期したペルセウスであったが、第三次マケドニア戦争の決戦でアエミリウス・パウルス率いるローマ軍団と激突した。開戦当初は密集したマケドニア方陣が優勢に見えたが、丘陵地の起伏で隊列に生じた間隙をローマ軍団が的確に突き、わずか1時間ほどで戦いは決着したと伝えられる圧倒的敗北を喫した。この敗戦によりアンティゴノス朝マケドニア王国は滅亡し、4つの傀儡共和国に分割された。
第六次シリア戦争でエジプトをほぼ制圧していたアンティオコス4世のもとに、ローマの使者ポピリウス・ラエナスがただ一人で訪れた。ラエナスは杖でアンティオコスの周囲の地面に円を描き、「その円から一歩でも出る前に、ローマ元老院への返答を聞かせよ」と迫った。単独のローマ帝国全体の権威を背負ったこの一喝に、大王を名乗るアンティオコスも屈し、獲得した領土を全て放棄してエジプトから即時撤退した。
エジプト遠征失敗の鬱憤からか、アンティオコス4世はエルサレム神殿を略奪し、ユダヤ教の祭儀を禁じてゼウス崇拝を強制する徹底的なヘレニズム化政策を断行した。これに対し祭司マタティアスとその子ユダ・マカバイオスが蜂起し、ゲリラ戦でセレウコス朝の討伐軍を次々と撃破した。BC164年にはエルサレム神殿を奪還して清めの儀式を行い、この故事は現在も祭り「ハヌカ」として記念されている。
ローマの内政干渉に反発したアカイア同盟が挙兵した「アカイア戦争」は、ローマ軍の圧倒的な力の前に短期間で鎮圧された。見せしめとしてギリシア随一の商業都市コリントスは徹底的に破壊され、住民は奴隷とされた。同じ年、地中海の反対側ではカルタゴもまた滅ぼされており(第三次ポエニ戦争)、この年をもってギリシア本土は正式にローマの属州(アカエア属州)に組み込まれ、独立したポリス世界の歴史に幕が下ろされた。
ユダ・マカバイオスの戦死後もその兄弟たちが抵抗を継続し、末弟シモンの代についに弱体化したセレウコス朝から貢納免除と完全な自治権を勝ち取った。マカバイ家(ハスモン家)はユダヤの大祭司位と統治権を世襲する新たな王朝を開き、ここに約400年ぶりとなるユダヤ人国家の独立が回復された。この独立は、内紛にあえぐセレウコス朝の統制力低下を象徴する出来事でもあった。
東方から勢力を拡大していたイラン系遊牧国家パルティア(アルサケス朝)の王ミトリダテス1世が、内紛で東方防衛が手薄になっていたセレウコス朝からメソポタミア・バビロニアを奪取した。かつてセレウコス1世が帝国の中心地としていたこの豊かな穀倉地帯の喪失により、セレウコス朝の実効支配領域はシリア周辺にまで大きく縮小し、もはや「大王国」とは言い難い地方勢力へと転落した。
王位継承を巡る内紛で疲弊しきっていたセレウコス朝に対し、アルメニア王ティグラネス2世(大王)が介入してシリアを征服し、事実上セレウコス朝を服属国に近い状態に追い込んだ。かつて「大王」を名乗ったアンティオコス3世の末裔たちの王国は、もはや周辺国の草刈り場と化しており、その滅亡はもはや時間の問題となっていた。
対ミトリダテス戦争の総仕上げとして東方を再編していたローマの将軍ポンペイウスは、内紛で有名無実化していたセレウコス朝の王位を正式に廃止し、シリアをローマの属州とした。アレクサンドロスの後継者セレウコス1世が開いて以来約270年続いた王朝はここに完全に消滅した。同年ポンペイウスはエルサレムにも進駐してユダヤの内紛を裁定し、ハスモン朝もローマの影響下に組み込まれた。
莫大な借金と賄賂でローマの歓心を買い続けていたプトレマイオス12世であったが、その財政負担に耐えかねた民衆の蜂起で一時王座を追われた。ローマの将軍ガビニウスの軍事介入によって王位に復帰したが、この一件でプトレマイオス朝の存続が完全にローマの意向次第であることが誰の目にも明らかとなった。この構図は、間もなく王位を継ぐ娘クレオパトラ7世の外交戦略を根底から規定することになる。
弟プトレマイオス13世との共同統治から追われていたクレオパトラは、内戦でエジプトに至ったカエサルに単身接近し、その支持を取り付けて王座を奪還した(アレクサンドリア戦争)。伝承では、敵の目を欺くため絨毯(または寝具袋)に包まれて運び込まれカエサルの前に姿を現したとされる。この同盟はクレオパトラに一子カエサリオンをもたらし、プトレマイオス朝の命脈をひとまず繋ぐことになった。
カエサル暗殺後の内戦を経て東方の統治を担うことになったアントニウスに、クレオパトラは黄金の船で着飾って謁見に赴き、絶大な印象を与えたと伝えられる。両者は政治的同盟と個人的な愛情を重ね合わせ、以後10年近くにわたり運命を共にすることになる。この同盟はエジプトの独立維持とアントニウスの東方経営の両方にとって死活的に重要な関係となった。
アントニウスは盛大な式典を開き、クレオパトラを「諸王の女王」、彼女とカエサルの子カエサリオンを「諸王の王」と称するとともに、東方の広大な領土をクレオパトラとの子供たちに分配すると宣言した。この措置はエジプトとの結びつきを一層強化する狙いがあったが、ローマ本国では「アントニウスがローマの国益を犠牲にして東方の女王に国土を差し出した」との激しい非難を呼び、オクタウィアヌスによる政治的攻撃の格好の材料とされた。
ローマの覇権を賭けた内戦の最終決戦。オクタウィアヌスの将軍アグリッパが率いる艦隊が、アントニウス・クレオパトラ連合艦隊を海上封鎖と機動戦で追い詰めた。戦況が不利と見たクレオパトラが自らの艦隊を率いて戦線離脱すると、それを追ってアントニウスも戦場を放棄したため、残された連合軍は壊滅した。この敗北により、プトレマイオス朝がエジプトの独立を保つ最後の望みは事実上絶たれた。
アクティウムの敗北後、アレクサンドリアまで追い詰められたアントニウスは、クレオパトラが自害したとの誤報を受けて自ら剣に伏した。クレオパトラもまたオクタウィアヌスとの交渉に望みがないと悟ると、伝承では毒蛇(コブラ)に自らの腕を噛ませて命を絶ったとされる。エジプトはローマの属州となり、アレクサンドロス大王の東征に始まりプトレマイオス朝の滅亡で幕を閉じる約300年間の「ヘレニズム時代」は、ここに終焉を迎えた。