源頼朝、死去
死没落馬が原因とされる急死により、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝がこの世を去った。53歳。カリスマ的指導者を失った幕府では、以後10年おきに有力御家人が次々と滅ぼされていく粛清の連鎖が始まる。
落馬が原因とされる急死により、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝がこの世を去った。53歳。カリスマ的指導者を失った幕府では、以後10年おきに有力御家人が次々と滅ぼされていく粛清の連鎖が始まる。
18歳の頼家が二代将軍として家督を継ぐが、若年での独断専行を危ぶんだ宿老13人による合議制が敷かれ、将軍の権限は大きく制限された。この体制は間もなく宿老同士の権力争いの舞台となっていく。
結城朝光が頼朝への追慕を語った発言を、梶原景時が将軍への謀反の兆しと讒言した。これに反発した朝光は他の御家人たちに働きかけ、和田義盛・三浦義村ら66人の連署による景時弾劾状を頼家に提出した。
御家人たちの糾弾を受けた景時は鎌倉を追放され、上洛を図って一族と共に西へ向かうが、駿河国清見関付近で在地武士団に発見され交戦の末に討たれた。頼朝以来の重臣の粛清は、この時代の陰謀劇の幕開けとなった。
頼家が突然の重病に倒れ危篤状態となり、後継をめぐる駆け引きが一気に表面化した。外戚として権勢を誇る比企能員と、時政ら北条氏との対立が決定的となる。
比企一族が頼家の弟・実朝の排除を画策しているとの情報を、実朝の乳母である阿波局が察知し姉の政子に密告したと伝わる。この密告が北条方の先制行動を促したとされる。
時政は仏事にかこつけて能員を自邸(名越邸)に誘い出し謀殺、その隙に比企一族の館を襲撃して滅ぼした。頼家の嫡子で能員の外孫にあたる一幡も殺害され、頼家の後継体制は根底から覆された。
外戚と嫡子を失った頼家は将軍職を廃され出家、伊豆の修禅寺へ幽閉された。鎌倉殿としての実権を完全に失った。
頼家に代わり弟の実朝が12歳で三代将軍に就任した。後見役の時政が政所別当となり、事実上の初代執権として幕政を主導する体制が成立した。
幽閉先の修禅寺で、頼家は入浴中を襲われ暗殺された。享年23。かつての鎌倉殿の非業の死は、後に子の公暁による復讐劇(実朝暗殺)を生む遠因となる。
稲毛重成の讒言を受けた時政は、忠勇で知られた畠山重忠に謀反の疑いをかけ、義時に追討を命じた。子の重保は由比ヶ浜で誘殺され、重忠自身もわずか134騎の手勢のまま武蔵二俣川で幕府の大軍に囲まれ討死した。無実を知りながら追討にあたった義時は、後にこの一件を深く悔いたと伝わる。
畠山討伐からわずか3か月後、時政と後妻・牧の方が実朝を廃し娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策していることが発覚した。政子・義時姉弟は迅速に実朝の身柄を確保して陰謀を阻止し、時政は出家して伊豆へ追放、義時が二代執権の座についた。
頼家の遺児を擁立しようとする泉親衡の謀反計画が発覚し、和田義盛の子や甥が連座した。義盛は赦免を義時に嘆願するが拒絶され、両者の対立は修復不能となった。
追い詰められた義盛は一族を挙げて挙兵し、鎌倉市中は激しい市街戦となった。同心を約していた三浦義村が直前に義時方へ寝返ったことで和田方は劣勢に陥り、義盛は一族もろとも討ち死にした。侍所別当の職は義時のもとに移り、政所と合わせて両別当を兼ねる体制が確立した。
和田合戦の勝利により、義時は行政を司る政所別当と軍事・警察を司る侍所別当を兼務する立場となった。これが以後代々受け継がれる「執権」の実質的な権力基盤となった。
武家の棟梁でありながら公家社会への接近を強めていた実朝は、異例の右大臣にまで昇進した。和歌にも深く傾倒し、藤原定家に師事して『金槐和歌集』を編んでいる。この昇進を祝う拝賀の式典が、彼の運命を決めることになる。
右大臣拝賀の式典を終え鶴岡八幡宮の石段を下りる実朝を、鶴岡八幡宮別当となっていた甥の公暁が「親の敵はかく討つぞ」と襲い討ち取った。享年28。頼朝直系の血筋はここに完全に絶えた。
実朝を討った公暁は、後ろ盾を期待して三浦義村のもとへ使者を送るが、義村はこれを義時に通報した。公暁は義村邸へ向かう途中で討手に襲われ討たれた。
源氏の血筋が絶えたため、幕府は京の摂関家から2歳の頼経を新たな将軍候補として迎えた。実権は依然として北条氏にあり、政子が「尼将軍」として後見する体制が確立した。
朝廷の権威回復を志す後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣を諸国に発して兵を挙げた。西面の武士を率いる藤原秀康や、幕府方から離れた三浦胤義らが上皇方についた。
院宣を受け動揺する御家人たちを前に、政子は頼朝以来の恩顧を説く名演説を行った。「故右大将軍(頼朝)の恩は山よりも高く海よりも深い」と訴えたその言葉に、御家人たちは結束を固め、幕府軍は一丸となって京へ向かうことになる。
箱根での迎撃を主張する声が上がる中、大江広元・三善康信ら宿老は「一日も早く大軍で京へ攻め上るべき」と即時進撃を進言した。この決断により幕府軍は動揺が広がる前に東海道・東山道・北陸道の三方から京を目指すことになった。
総勢19万ともいわれる幕府軍は各地で朝廷方を撃破し、宇治川の戦いで最後の防衛線を突破して京へなだれ込んだ。挙兵からわずか1か月で乱は幕府側の圧勝に終わり、藤原秀康・三浦胤義ら朝廷方の指揮官は討死または自害した。
後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、それぞれ配流された。京には新たに六波羅探題が設置され、泰時・時房が初代として朝廷の監視と西国の統治にあたることとなった。武家政権が朝廷に対して優位に立つ画期となった。
承久の乱を勝利に導き執権政治の礎を築いた義時が、突然の病により急死した。62歳。後妻・伊賀の方による毒殺説も伝わるが定かではない。
義時の急死後、後妻の伊賀の方が実子・政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようとしているとの噂が広がった。政子は自ら御家人たちを説いて回り、京から急ぎ戻った泰時を三代執権に据えて事態を収拾。伊賀の方は伊豆へ、兄の光宗は信濃へ配流された。
頼朝の挙兵から半世紀近くにわたり幕府を支え続けた政子が69歳で没した。「尼将軍」として幕府最大の危機(承久の乱)を乗り越えさせた生涯であった。
政子・広元という創業以来の重鎮を相次いで失った泰時は、執権の独断ではなく有力御家人による合議制の政治機構「評定衆」を新設した。個人の専断ではなく制度による統治への転換を図った。
鎌倉に迎えられて7年、頼経は正式に征夷大将軍の宣下を受けた。父・九条道家は朝廷と幕府をつなぐ窓口として、以後も影響力を保ち続けた。
泰時は頼朝以来の先例と武家社会の「道理」に基づき、51か条からなる武家独自の成文法「御成敗式目」を制定した。公家の律令とは別の、武士の慣習に根ざした法として、後世の武家法の基本となった。
評定衆の設置・御成敗式目の制定など、執権政治を安定した統治機構へと発展させた泰時が60歳で没した。孫の経時が四代執権を継いだ。
前将軍・頼経を担いで北条氏の専権に対抗しようとする勢力の陰謀が発覚した。経時・時頼兄弟はこれを鎮圧し、頼経を将軍職からも鎌倉からも追放して京へ送還した。三浦氏との対立が決定的となる契機となった。
病の重い経時は弟の時頼に執権職を譲り、まもなく23歳で没した。若くして執権となった時頼は、宮騒動の余波が残る中で三浦氏との対決に向き合うことになる。
宮騒動で頼経方に近い立場を取った三浦泰村と北条氏との緊張が高まった。北条氏の有力な同盟者である安達景盛は出家の身ながら一族を鼓舞し、三浦氏打倒への挙兵を強く促した。
安達景盛の軍勢が三浦邸を急襲したことで合戦の火蓋が切られた。三浦泰村ら一族は頼朝の法華堂に立てこもるが、時頼の大軍に包囲され、頼朝の墓前で一族郎党500余名と共に自害した。幕府最大の御家人勢力・三浦氏はここに滅亡した。
梶原・比企・畠山・和田・三浦と、頼朝以来の有力御家人が次々と滅ぼされ、もはや北条氏に対抗しうる勢力は幕府内に存在しなくなった。頼朝の死からおよそ半世紀、北条得宗家による独裁的な政治体制がここに確立した。