金拍車の戦い — 市民の歩兵が騎士を倒す
戦いフランス王の支配に反発したフランドルの都市の民兵が、長槍と沼地を使って騎士軍を壊滅させた。戦場から集めた金の拍車が教会に掲げられる。訓練された歩兵が騎士に勝てると示した、十四世紀最初の例である。
フランス王の支配に反発したフランドルの都市の民兵が、長槍と沼地を使って騎士軍を壊滅させた。戦場から集めた金の拍車が教会に掲げられる。訓練された歩兵が騎士に勝てると示した、十四世紀最初の例である。
ジョットが、平面に並べるのではなく空間の中に人物を置き、感情を身振りで示す壁画を描いた。悲しむ天使や背を向けた人物が現れる。以後の絵画がここから始まったと、同時代のダンテもボッカッチョも書いている。
十月十三日の金曜日、王国中の団員が同じ日に逮捕された。拷問による自白をもとに異端の嫌疑がかけられ、七年後に教皇が団を解散させる。財産は接収され、王の巨額の借財も消えた。国家が金融組織を法の手続きで解体した事件である。
アナーニ事件のあと、ボルドー大司教から選ばれた教皇はローマへ入らず、ローヌ川のほとりに居を定めた。以後七十年、七代の教皇はすべてフランス人で、枢機卿もフランス人が多数を占める。教皇の権威は特定の王国のものと見られるようになった。
ロバート・ブルースの軍が、数で勝るイングランド軍を湿地に誘い込んで破った。スコットランドの独立は事実上確定し、以後フランスとの古い同盟がイングランドの北を常に脅かす。百年戦争の前提の一つがここで固まった。
三年続いた長雨で作物が実らず、北ヨーロッパで人口の一割前後が失われた。三百年の開墾で耕地は限界まで広がり、痩せた土地まで耕されていたことが被害を大きくする。黒死病の三十年前に、成長の時代はすでに終わっていた。
各地の修道院を回って古代ローマの写本を探していたペトラルカが、ヴェローナでキケロの書簡集を見つけた。古典を規範として自らの言葉を磨くという姿勢が、ここから広がる。自らの時代を古代と自分たちのあいだの暗い時代と呼んだ。
フィリップ4世の三人の息子が相次いで嗣子なく没した。母を通じて血が近いイングランド王エドワード3世に対し、フランスの諸侯は女系からは継げないという理屈で傍系のヴァロワ家を選ぶ。この継承が九年後の開戦の根拠になった。
エドワード3世がフランドルへの羊毛の輸出を止めると、毛織物で生きる町々の織工が失業した。伯はフランス王の側に立っていたが、都市はイングランドを支持して蜂起する。経済の結びつきが政治の同盟を決めた。
フィリップ6世が、臣下としての義務を果たさないとしてギュイエンヌの没収を宣告した。エドワード3世はこれに対しフランス王位を正式に主張し、紋章にフランスの百合を加える。封建的な主従の争いが、王位をめぐる戦争になった。
フランドル沖でフランス艦隊が壊滅し、イングランドは海峡を渡って軍を送れるようになった。以後、戦場はほぼ一貫してフランス側の土地になる。本土が荒らされるかどうかの差が、両国の負担を大きく分けた。
黒海のカッファからジェノヴァ船が運んだ疫病が、三年でヨーロッパ全域を覆った。人口の三分の一から半分が失われたと推定される。都市では埋葬が追いつかず、村がまるごと消えた地域もある。戦争は数年中断された。
疫病を神の罰と解し、自らを鞭打って町から町へ歩く群れが現れた。同時に、井戸に毒を入れたという噂でユダヤ人の共同体が各地で焼かれる。教皇が噂を否定する書簡を出したが止まらなかった。
働き手が激減して賃金が高騰したため、議会は疫病前の水準に固定する法を定めた。移動と職の選択も制限される。しかし人手を求める地主が高く払うので実効は乏しく、三十年後の農民反乱の直接の原因になった。
十三年後に疫病が戻り、以後十数年おきに繰り返された。二度目以降は子どもの死者が多く、人口の回復を長く妨げる。ヨーロッパの人口が黒死病以前の水準に戻るのは、十六世紀に入ってからである。
丘に陣取ったイングランド軍に対し、フランス騎士が繰り返し突撃して崩れた。長弓兵の斉射と杭を並べた陣が、重装騎兵の突撃を止める。数で劣る側が勝ったことで、騎士が戦場の主役である時代の終わりが見え始めた。
十一か月の包囲のすえ市が降伏した。住民は追われ、イングランドからの入植者が入る。以後1558年まで英領として残り、大陸への上陸口と羊毛の集散地になった。百年戦争が終わったあとも、ここだけは百年以上英領だった。
黒太子の襲撃部隊が退路を断たれ、数倍のフランス軍と戦うことになった。地形と長弓を使った守りで勝ち、フランス王ジャン2世を捕虜にする。王が敵国に囚われたことで、フランスの統治は数年にわたり空白になった。
エドワード3世はフランス王位の主張を取り下げる代わりに、西南フランスの広い領域を主権つきで得た。臣下としてではなく独立の君主として持つことになる。イングランドの版図はこの時が最大で、以後縮んでいった。
フランスと結んだスコットランド王が、イングランド王の不在を突いて南下した。ダラム近郊で敗れて捕らえられ、十一年抑留される。イングランドが常に北を気にせねばならない構図は、戦争を通じて続いた。
王が捕らわれ身代金が必要になった隙に、三部会が課税の承認と引き換えに官僚の監督と定期的な開催を認めさせた。パリ商人頭マルセルが主導する。しかし翌年、彼が王太子の側近を目前で殺したことで支持を失い、大勅令は空文になった。
王が捕らわれ、傭兵団が村を荒らし、身代金のための課税が重なった。パリ北方の農民が領主の館を襲い、数週間で鎮圧される。守るという約束を果たさない領主に、なぜ税を払うのかという問いがここで表面化した。
法廷での弁論を英語で行うと定める法が制定され、同じ年に議会も英語で開会された。ノルマン征服から三百年、支配層の言葉はフランス語だった。フランスとの長い戦争が、自らを英語の側の人間と認めさせている。
講和で職を失った傭兵団が、そのまま村々を襲って身代金を取る集団になった。国家が抑えられず、教皇のいるアヴィニョンまで脅かされる。デュ・ゲクランはこれを束ねてカスティーリャの内戦へ送り出し、問題を国外へ移した。
カスティーリャの王位争いに、イングランドはペドロを、フランスはエンリケを支えて介入した。黒太子はナヘラで勝ったが病を得て退き、最終的にエンリケが勝つ。カスティーリャの艦隊がフランス側についた。
王は正面からの会戦を避け、城と町を一つずつ包囲して取り戻す方針を採った。デュ・ゲクランが待ち伏せと夜襲で削り、十年でイングランド領は沿岸の数か所まで縮む。恒久的な税と常備の海軍もこの時期に整えられた。
シャルル5世が弟をフランドル伯の相続人と結婚させ、イングランドとの縁組を阻んだ。しかしこの縁組でブルゴーニュ公が両方を握り、五十年後にフランス王家に最も危険な第三の勢力になる。
シャルル5世はルーヴルの塔に千冊近い写本を集め、アリストテレスや聖アウグスティヌスをフランス語に訳させた。ラテン語を読めない官僚や貴族が政治の書を読めるようになる。学問を統治の道具として国語で整えた試みである。
三度目の人頭税に反発した農民が数万でロンドンに入り、塔を占拠して大主教を殺した。十四歳のリチャード2世との会見の場でタイラーが斬られ、反乱は崩れる。約束された農奴制の廃止は撤回されたが、賦役はその後実質的に消えた。
ローマへ戻った教皇の死後、選出をめぐって枢機卿が割れ、ローマとアヴィニョンに教皇が並び立った。各国はどちらを認めるかで分かれ、フランスとその同盟国はアヴィニョン、イングランドと帝国はローマを支持する。のちに三人になった。
教会の財産と教皇の権威を否定し、聖書だけを信仰の基準とすべきだと説いた。弟子たちが聖書を英語へ訳す。死後に異端と宣告され遺骨は焼かれたが、その主張はボヘミアへ渡ってフスに受け継がれた。
カスティーリャの王位継承の主張に対し、アヴィス騎士団長ジョアンがイングランドの長弓兵を借りて勝った。翌年イングランドと永久同盟を結び、その王女を妃に迎える。ポルトガルの独立はここで決定的になった。
オスマンのバルカン進出に対し、ハンガリー王ジギスムントの呼びかけでフランスとブルゴーニュの騎士が加わった十字軍が編成された。功名を求めた突撃で陣形が崩れ、壊滅する。西欧が東方へ大軍を送った最後の例になった。
デンマーク・ノルウェー・スウェーデンが、マルグレーテ1世のもとで同君連合を結んだ。ハンザ同盟の力に対抗する狙いがある。連合は百二十年余り続いたが、スウェーデンの離反で解体した。
ポーランドとリトアニアの連合軍が、バルト海沿岸を支配してきたドイツ騎士団の軍を壊滅させた。騎士団の拡大はここで止まり、領国は縮んでいく。ポーランド・リトアニア連合は東欧の大国になった。
皇帝ジギスムントが招集した会議が、三人の教皇をすべて退けて新しい一人を選び、四十年の分裂を終わらせた。同時に、安全通行証を得て出席したフスを異端として火刑にする。会議が教皇より上位に立つという主張も打ち出された。
皇帝の安全通行証を信じて会議へ赴いたフスが、捕らえられて火刑に処された。ボヘミアでは貴族と民衆が激しく反発し、十五年に及ぶフス戦争になる。皇帝の言葉が守られなかったことが、以後の交渉を難しくした。
農民と職人を主体とするフス派の軍が、五度の十字軍を退けた。荷車を環状に並べて銃と砲を据える戦車陣が、騎士の突撃を無力化する。片目を失ったジシュカは全盲になってからも指揮を執った。
遠征の途上、森の中で王が突然錯乱して従者を斬った。以後三十年、正気と発作を繰り返す。叔父たちと弟のオルレアン公が摂政の座を争い、国は二つの党派に割れた。君主個人の病が国家の分裂に直結した。
側近政治と恣意的な財産没収に貴族が反発し、追放されていた従弟ヘンリが帰国して王を捕らえた。議会で退位が読み上げられ、ヘンリ4世が即位する。王が議会の手続きで降ろされた最初の例になった。
土地争いから始まった蜂起が、ウェールズ全土の反乱に広がった。自らの議会を開き、フランスと同盟して独自の教会と大学を構想する。十年で鎮圧され、以後ウェールズで大規模な反乱は起きなかった。
蜂起を全土に広げたグリンドゥールが大公を名乗り、各地から代表を集める議会を開いた。フランスと同盟を結び、独自の教会と二つの大学を作る構想も示される。六年後に鎮圧され、構想は実現しなかった。
王の弟オルレアン公が、パリの路上でブルゴーニュ公の刺客に殺された。ブルゴーニュ公は暴君殺害として正当だと神学者に弁明させ、罪を問われない。ブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦が始まり、十数年続いた。
ブルゴーニュ派に担がれた食肉業組合を中心とする民衆が蜂起し、王宮に押し入って改革の勅令を認めさせた。数か月で反動が起き、勅令は撤回される。内戦がパリの街頭の暴力まで巻き込んだ時期である。
上陸後の包囲で消耗したイングランド軍が、数倍のフランス軍と狭い耕地で対峙した。雨でぬかるんだ地面と森に挟まれた地形で、重装の騎士は身動きが取れずに崩れる。フランスの貴族層が一日で大量に失われた。
ヘンリ5世は襲撃ではなく、城を一つずつ落として行政を置くやり方でノルマンディを征服した。ルーアンの半年の包囲では飢えた住民が城壁の外へ追い出され、双方に見捨てられて死ぬ。三十一年に及ぶ占領が始まった。
和解のための会見の場で、ブルゴーニュ公が王太子の側近に斬られた。跡を継いだ善良公はイングランドと同盟し、フランスの三分の一が敵に回る。この一件が戦争の帰趨を十六年決めた。
錯乱した王に代わり王妃とブルゴーニュ公が主導し、ヘンリ5世をフランス王位の継承者と認めた。王太子シャルルは廃嫡される。しかしヘンリ5世は義父より二か月早く没し、生後九か月の子が両国の王とされた。
ブルゴーニュ派と同盟したイングランド軍がパリへ入った。以後十六年、ベッドフォード公が摂政として占領下の行政と裁判を運営する。大学も高等法院もその体制のもとで機能し続けた。
ロワールを渡る要衝が半年包囲され、落ちれば南も失われる状況だった。声を聞いたと訴える十七歳の農村の娘が王太子に会い、軍とともに派遣される。到着から九日で包囲は解かれた。
敵地を三百キロ突っ切ってランスへ入り、歴代の王と同じ聖油で戴冠した。トロワ条約で失われた正統性がこれで回復する。廃嫡された王太子ではなく、戴冠したフランス王として扱われるようになった。
コンピエーニュでブルゴーニュ派に捕らえられ、イングランドへ売られた。ルーアンの宗教裁判で異端とされ、十九歳で火刑に処される。裁判の記録は詳細に残り、無学な少女が神学者の問いを何度もかわしている。
ジャンヌ・ダルクの処刑から半年後、十歳のヘンリ6世がパリでフランス王として戴冠した。しかしランスでも聖油でもないことは誰の目にも明らかで、効果は乏しい。祝宴の食事が粗末だったと市民の日記は書いている。
ブルゴーニュ公が父の暗殺への謝罪と広い譲歩を受け取り、イングランドとの同盟を破棄した。フランスの三分の一が敵から味方に戻る。翌年パリが回復され、戦争の帰趨はここで決した。
教会大分裂で権威を落とした教皇に対し、フランス王は司教の選出を国内で行い、教皇庁への上納を制限した。ガリカニスムと呼ばれるこの立場は、以後三百年フランス王権の柱の一つになる。
オルレアンでジャンヌと共に戦った元帥が、多数の子どもの殺害を告発されて処刑された。裁判の記録は残るが、土地を狙った告発だったという説も根強い。青ひげの伝説の元になったとされる。
王が常備軍を作り、私兵を持つことを制限しようとしたのに対し、大貴族が王太子を担いで反乱した。数か月で鎮圧される。王が自前の軍と税を持つことへの、封建的な側からの最後の抵抗だった。
相続と購入と征服で、ブルゴーニュ公は低地諸邦のほとんどを集めた。フランス王の臣下という建前のまま、王国並みの財政と軍と宮廷を持つ。ヨーロッパで最も豊かな領国が、王号を持たずに存在した。
傭兵団の略奪を止めるため、王に直属する常備の騎兵中隊が置かれた。財源はタイユと呼ばれる恒久的な直接税で、三部会の同意を毎回取らずに徴収される。国王が自前の軍と税を持つ体制が、ここで形になった。
野戦砲で長弓兵の陣を横から崩し、イングランド軍を破った。同じ年のうちにノルマンディ全域が回復される。長弓が主役だった百年が、砲によって終わった戦いとされる。
地中海交易で財を築き、ノルマンディ奪回の軍資金を王に貸した商人が、王妃の毒殺を疑われて逮捕された。財産は没収され、借財も消える。王が商人から借りて戦争をし、返さずに済ませた例である。
ボルドー奪回に向かった老将タルボットが、三百門の砲を据えた陣に突入して戦死した。ギュイエンヌは三百年ぶりにフランスへ戻り、大陸に残る英領はカレーだけになる。講和条約は結ばれないまま、戦争は事実上終わった。
フランスでの敗北と王の病弱をきっかけに、ランカスター家とヨーク家の争いが武力衝突になった。三十年続く内乱で貴族層が消耗し、その果てにテューダー朝が生まれる。海外の戦争を失った勢力が、内側へ向かった。
シャルル7世の求めで再審が開かれ、百人以上の証言を集めて元の判決が破棄された。戦友のデュノワや故郷の村人が語った記録が残る。魔女に助けられて即位したという非難を消すという、王の側の必要もあった。
黒死病を逃れて郊外に籠もった十人が語り合うという枠で、百の物語が集められた。聖職者も商人も農民も等しく笑いの対象になる。序文のフィレンツェの疫病の描写は、同時代の証言としても読まれる。
ハンザ同盟がデンマーク王を戦争で破り、バルト海の交易の特権と、デンマーク王の選出への関与まで認めさせた。領土を持たない都市の連合が、王国を屈服させた例である。同盟の力はこの時が頂点だった。
巡礼の道中で騎士・粉屋・修道女・免罪符売りらが物語を語るという形で、当時の社会が写された。ラテン語でもフランス語でもなく英語で書かれている。征服から三百年、支配層の言葉はフランス語だった。
夫を失ったクリスティーヌが、写本の注文を受けて家族を養った。女性を貶める当時の文学に反論し、歴史上の女性たちの功績を集めた書を著す。最初期の職業作家であり、女性の立場から論争に加わった稀な例である。
ポルトガルがジブラルタル海峡の対岸の要港を攻め取った。金と奴隷の隊商路の終点を押さえる狙いだったが、隊商は経路を変えて衰える。以後、王子エンリケはアフリカ西岸へ船を送り続けることになった。
ブルネレスキが洗礼堂を描いた板に穴を開け、鏡に映して実景と見比べる実験を行った。一点に収束する規則が示され、絵画が幾何学で組み立てられるようになる。十年後にアルベルティがこれを書物にまとめた。
ブルゴーニュ公の宮廷画家が、油彩を薄く重ねる技法で鏡や織物や毛皮の質感まで描き分けた。イタリアの遠近法とは別の道から、写実が一つの頂点に達する。戦争の帰趨を決めた領国の富が、そのまま技術に注がれた。
教皇庁の資金を扱って財を築いたメディチ家が、公職に就かないまま市の実権を握った。支店網と為替で利子の禁令を回避する仕組みを整える。その富が、次の世紀のルネサンスの後援に注がれた。
そこから先は戻れないと信じられていた岬を、エンリケの送った船がついに越えた。沖へ大きく出て風を捉えれば帰れると分かり、以後の南下が可能になる。カラベル船と天測航法の改良が積み重ねられていった。
百四十年前から穴が開いたままだった大聖堂の交差部に、直径四十三メートルの円蓋が架けられた。内外二重の殻と魚の骨のような煉瓦の組み方で、支保工なしに積み上げる。古代ローマの遺構を実測して得た構造の知識が土台になった。
東西教会の合同を協議する会議が、コジモの資金でフィレンツェへ招かれた。ビザンツから来た学者がプラトンの著作を紹介し、その写本と知識が留まる。合同そのものは十四年後の陥落で無に帰した。
オランダの船がバルト海の穀物交易に本格的に入り、ハンザ同盟と戦って和約を結んだ。船の造りと運賃で優位に立ち、以後一世紀かけて交易の中心はアムステルダムへ移っていく。都市同盟の時代が終わり始めた。
オスマン帝国の巨砲が城壁を破り、千百年続いた東ローマ帝国が滅んだ。学者が写本を携えてイタリアへ逃れ、ギリシア語の古典の研究が進む。東方交易路が押さえられたことは、大西洋へ出る動機の一つになった。
ミラノ・ヴェネツィア・フィレンツェ・教皇領・ナポリが互いの境界を認め、四十年続く均衡が成立した。傭兵隊長に戦わせる形が定着し、常駐の大使を置く外交も始まる。近代の勢力均衡と外交の原型がここにある。
金属の活字と油性インクと圧搾機を組み合わせた印刷術が実用化された。写字生が一年かける本が数週間で百部作れる。技術は数十年でヨーロッパ中に広がり、五十年後には二千万冊が刷られたと推定される。
殺人と窃盗で追われた学生詩人が、絞首刑を待つ身から詩を書いた。宮廷の作法とも騎士道とも無縁の、貧困と老いと死が主題になる。去年の雪はいまいずこ、という一行が中世末の空気を伝える。