鄭夢周の暗殺 — 高麗を守る最後の柱が倒れる
死没・処刑李成桂が落馬して床に就いた隙に、鄭夢周は一派を弾劾して政権から排除しようと動いた。これを察した李芳遠が刺客を放ち、帰路の橋の上で鄭夢周を撲殺させた。高麗の枠内で改革を進める道はここで完全に断たれ、王朝の交代を止める者はいなくなった。この暗殺から即位までは三か月しかない。
李成桂が落馬して床に就いた隙に、鄭夢周は一派を弾劾して政権から排除しようと動いた。これを察した李芳遠が刺客を放ち、帰路の橋の上で鄭夢周を撲殺させた。高麗の枠内で改革を進める道はここで完全に断たれ、王朝の交代を止める者はいなくなった。この暗殺から即位までは三か月しかない。
恭譲王を廃し、群臣に推戴される形で李成桂が王位に即いた。禅譲の体裁を取り、国号も官制もひとまず高麗のまま引き継いでいる。実質的な転換はその三年前に断行された科田法にあり、旧来の権門が握っていた土地の権利を国家が回収したうえでの即位だった。
新王朝は朝鮮と和寧の二案を明に送り、洪武帝が朝鮮を選んだ。古朝鮮の名を継ぐという含みがあり、同時に明の承認を得る手続きでもあった。国号を宗主国に選ばせるという形は屈従にも見えるが、冊封を得ることは周辺国に対して正統を主張する手段でもあった。
五百年にわたる高麗の都である開京には、旧勢力の人脈と利権が張り巡らされていた。李成桂はこれを断つため、漢江の水運と四方を囲む山という条件を備えた漢陽へ都を移した。翌年には景福宮と宗廟が完成し、都城の門と街路が儒教の理念に沿って配置される。
正宮の景福宮が完成し、鄭道伝が経書から選んだ名が殿舎と門に付けられた。東に宗廟、西に社稷壇を置く配置は中国の古典の規定に従っている。都の四方の門にも仁・義・礼・智にちなむ名が与えられ、都市そのものが儒教の統治理念の見取り図になった。
建国の功が最も大きい李芳遠を差し置いて、幼い異母弟が世子に立てられていた。鄭道伝が王子たちの私兵を解体しようとしたのを機に、李芳遠が兵を挙げて鄭道伝と世子兄弟を殺した。宰相が国政を運営するという建国の構想は、設計者の死とともに消える。
同母兄の李芳幹が先に兵を挙げ、市街での戦闘の末に敗れて流された。これで李芳遠に並ぶ者はいなくなり、兄の定宗から譲位されて第三代の王となる。二度の政変はいずれも王子が私兵を持っていたために起きており、即位後ただちに私兵の全廃に踏み切る理由になった。
王族と功臣が抱えていた私的な軍団をすべて解体し、兵は三軍府に統合された。高麗末から続いた武人の自立の余地はここで消え、以後の朝鮮では武力による政権奪取がほとんど起こらなくなる。自らが私兵で王位を得た人物が、その手段を真っ先に封じた形である。
銅の活字を鋳造する官庁を置き、数十万個の活字を作らせた。この年に作られた活字は癸未字と呼ばれる。高麗の時代に生まれていた金属活字の技術を、国家が常設の機関として引き受けた点が新しい。以後、王朝は歴代の王ごとに新しい活字を鋳造し続けた。
十六歳以上の男子全員に、姓名と身分と居住地を記した木札の携帯を義務づけた。同時に全国の行政区画を八道に整理している。人と土地を台帳に載せることで、徴税と徴兵の基礎が初めて数字として掌握された。八道の枠組みは以後五百年変わらない。
六つの行政部門が議政府を経ずに王へ直接上奏する仕組みに改めた。宰相が国政を統括する体制を骨抜きにして、意思決定を王一人に集める措置である。鄭道伝が描いた宰相中心の国家像は、その死から十六年で制度の上でも完全に裏返された。
長男を世子から外し、三男を後継に定めて位を譲った。ただし兵権だけは上王として四年間手放さず、その間に新王の外戚となる沈氏一族を粛清している。次の治世が安定して始められるよう、恨みを買う仕事を自分の代で終わらせるという計算だった。
倭寇の根を断つため、二百二十七隻と一万七千の兵で対馬に上陸した。家屋と船を焼いて島の勢力を圧迫したが、山地の戦闘で損害を出して二週間ほどで撤退している。軍事的な決着はつかなかったものの、以後の対馬は朝鮮との通交の規則を受け入れる道を選んだ。
若く優秀な文臣を集め、他の職務を免じて研究だけに専念させる機関を宮中に置いた。書庫を備え、給暇まで与えて読書させる制度も設けている。訓民正音・農事直説・医薬書・音律・歴史の編纂は、いずれもこの機関から出た。研究への投資が政策として行われた例である。
それまで使われていた中国の農書は華北の気候を前提としており、朝鮮の風土には合わなかった。世宗は各道の老練な農民から聞き取りを行わせ、実際に行われている耕作法を集めて一冊にまとめさせた。種の選び方から田の作り方まで、現地の実践を根拠にした最初の農書である。
崔潤徳が一万五千の兵で鴨緑江を渡り、李満住の建州女真を討った。以後十年ほどのあいだに閭延・慈城・茂昌・虞芮の四郡が順に置かれ、西北の境が鴨緑江まで押し上げられる。ただしこの一帯は険しい山地で、維持の費用が重く、のちに放棄されて廃四郡と呼ばれた。
蒋英実らが、時刻になると人形が鐘と鼓を打つ水時計の自撃漏を完成させ、宮中の標準時とした。同じ年に、半球形の日時計である仰釜日晷が都の街路に据えられている。時刻を役人だけのものにせず、往来する人が読めるようにした点が、この二つの器械の意味である。
規格を統一した円筒形の器を全国の官庁に配り、降った雨の深さを測って報告させた。それまでは土に浸みた深さを掘って調べており、土質によって値が変わってしまっていた。同じ器具で測った数値を集めて中央で比較するという方法は、気象観測として世界最初期のものである。
世宗が二十八の文字を作り上げた。子音は発音するときの唇・舌・喉の形をかたどり、母音は天と地と人を表す三つの記号を組み合わせて作られている。漢字を学べない者が自分の意思を書き表せるようにするという目的が、序文にはっきり書かれている。
対馬の宗氏が朝鮮へ送れる貿易船を年五十隻に限り、渡航には宗氏の発行する証明書を必要とすると定めた。倭寇を武力で討つのではなく、通交の権益を宗氏に独占させることで自ら取り締まらせる方式である。以後、対馬は日朝関係の窓口として制度に組み込まれた。
収穫を役人が見て回って税を決める方式は、恣意と不正の温床になっていた。世宗は土地の肥沃さを六等級、その年の作柄を九等級に分けて税額を決める方式に改めた。施行までに十四年をかけ、途中で全国の官吏と民に賛否を問う調査を行い、十七万人余りの回答を集めている。
三年の検証を経て、文字の体系と作った原理を解説した書物とともに正式に公布された。文字がどういう考えで設計されたかを、作った本人たちが同時代に書き残した例は世界的にも稀である。国のことばが中国と異なるのに文字が通じない、という書き出しは今も暗誦される。
李成桂の祖先六代の事績を讃える長編の頌歌で、新しい文字で書かれた最初の本格的な書物である。王朝の正当性を語る内容と、その文字を使ってみせるという目的が一つになっている。海に流れる大河は日照りにも涸れないという一節は、今も広く知られる。
金宗瑞が十数年をかけて豆満江の南岸に六つの鎮を築き、南方から民を移して定住させた。四郡と合わせて、鴨緑江と豆満江という二本の川が朝鮮の北境として確定する。今日まで続く朝鮮半島の北の輪郭は、この時に決まった。
在位三十二年、糖尿と眼病に苦しみながら最後まで政務を執った。文字・暦・農書・医薬・音律・兵器・北方の境と、後の五百年が使い続けるものの多くがこの治世に作られている。後を継いだ文宗は病弱で二年で世を去り、幼い端宗が残された。
十三歳の端宗を後見していた金宗瑞と皇甫仁を、首陽大君が夜襲で殺した。討つべき者の名を記した名簿を用意し、宮門で一人ずつ呼び出して撲殺したと伝わる。王は生きたまま実権だけを失い、二年後に叔父へ位を譲ることになる。
実権を失っていた端宗が譲位し、首陽大君が第七代の王となった。形式は禅譲だが、朝廷はすでに靖難の功臣で固められていた。王権を強める諸改革はこの即位から始まるが、正統性の欠落は生涯この王を追い、仏事への傾倒もそこに関わるとされる。
明の使節を迎える宴の席で世祖を討ち、端宗を復位させる計画が立てられたが、直前に露見した。成三問ら六人は焼けた鉄で肉を焼かれる拷問を受けても志を曲げず、車裂きの刑に処された。連座した者を含めて七十人余りが死に、集賢殿は廃止された。
復位の企てを受けて魯山君に格下げされ、江原道の山中である寧越へ流された。その年のうちに叔父の一人がさらに復位を図って発覚すると、十七歳の前王も死を賜った。遺体は川に捨てられ、地元の役人が密かに拾って葬ったと伝わる。
端宗の廃位を知って書物を焼き僧形となった金時習が、慶州の金鰲山に籠って書いた漢文の短編集である。死者との恋、竜宮への旅、地獄での問答といった怪異の枠を借りながら、現実の秩序から外れた者の目で世界を描いている。朝鮮で最初の小説とされる。
咸鏡道の在地勢力である李施愛が、中央から派遣される守令への不満を背景に挙兵した。北辺は世宗の代に開かれたばかりで、在地の有力者が実質的に治めていた土地である。乱の鎮圧後、朝廷は北辺の統制を強め、そのついでに建州女真の李満住も明と挟撃して討った。
成宗は、功臣たちが世襲的に占める朝廷を牽制するため、嶺南で学統を受け継ぐ金宗直とその門人を弘文館や司憲府へ登用した。言論を担う官職に道徳を掲げる集団を置いたことで、勲旧派の不正を弾劾する声が制度の内側から上がるようになる。
世祖の代に始まった法典の編纂が完成し、施行された。官制・戸籍・税・科挙・刑罰・儀礼の六つの分野に分けて、国家の運営を条文として固定している。以後四百年、朝鮮の統治はこの法典とその補訂を土台に行われた。王が代わっても制度は動かないという仕組みが、ここで成立する。
実録の編纂資料に、金宗直が書いた弔義帝文が採録されていた。項羽に殺された義帝を弔う体裁のこの文が、端宗の廃位を非難したものだと告発され、士林が大量に処刑・流刑となった。金宗直は死後六年を経て墓を暴かれ、遺骸を斬られている。
燕山君は、生母が父の成宗から死を賜っていた経緯を知り、当時これに関わった者を根こそぎ処罰した。すでに死んでいる韓明澮らの墓を暴いて遺骸を斬り、生存者は身分を問わず処刑した。士林も勲旧も区別なく倒れ、諫言する官庁そのものが機能を止めた。
臣下たちが挙兵して燕山君を廃し、異母弟を王に立てた。朝鮮で臣下が王を廃立した最初の例である。廃された王は君に格下げされて江華島へ流され、二か月後に死んだ。新しい王は自らの意思で即位したわけではなく、擁立した功臣に頭が上がらなかった。
南部の三つの開港場には日本人の居留地が置かれ、貿易のための滞在者が定住して数千人に膨れ上がっていた。統制の強化に反発した居留民が対馬の援軍を得て蜂起し、鎮圧された。以後、通交の枠は大きく縮小され、日朝の交易は細っていく。
趙光祖は学問と徳行で人材を選ぶ賢良科を設け、郷約を全国に広め、反正の功臣の四分の三から資格を取り消した。ここで功臣たちの反撃を受け、王も急進的な改革を恐れて手を引く。趙光祖は流刑先で賜死し、四年で進んだ改革はほぼすべて撤回された。
郡守の周世鵬が、高麗に性理学を伝えた安珦を祀る祠と講堂を建てた。朝鮮最初の書院である。七年後、李滉の働きかけで王から額と書籍と土地が下賜され、賜額書院という制度が生まれた。以後、書院は地方の士族が学び集う場として全国に広がっていく。
中宗の死後、先妃の一族と継妃の一族が王位をめぐって争い、幼い明宗の即位とともに文定王后の一族が勝った。敗れた側とこれに連なる士林が処刑・流刑となる。四度の士禍のうち、これだけは道徳の争いですらなく、外戚の権力闘争がそのまま粛清になった。
申師任堂が草と虫を描いた小品が、同時代の文人のあいだで高く評価された。女性が名を残すことがほとんど許されない社会で、作品そのものによって評価が定着した数少ない例である。子の李珥が朝鮮性理学の巨頭となったため、後世には母としての側面が強調された。
七十隻余りの倭寇が全羅道の沿岸に押し寄せ、いくつもの城を落とした。三浦の乱以来細っていた交易への不満が背景にあるとされる。朝鮮はこれを機に、それまで臨時だった軍事の合議機関である備辺司を常設化した。以後この機関が国政の最高意思決定の場になっていく。
人の道徳的な感情と一般的な感情が、理と気のどちらから発するのかをめぐって、李滉と奇大升が八年にわたり手紙で議論した。中国の朱子学が扱いきれていなかった問題に正面から取り組んだもので、朝鮮性理学が独自の展開を見せた出発点とされる。
黄海道を中心に三年にわたり官軍を翻弄した林巨正の一党が、ようやく討たれた。朝廷は道の長官を何度も入れ替え、専任の討捕使まで置いている。実録がひとりの盗賊にこれほど紙幅を割いた例は他になく、飢饉と収奪で社会がどこまで壊れていたかを示している。
四度の士禍を経て、ついに士林が朝廷を占めた。李滉が聖学十図を、李珥が東湖問答を献じ、学問に基づく統治が現実の政策として語られるようになる。ところが敵であった勲旧派が消えた途端、士林は自らの内部で分裂を始めた。
官吏の人事を実質的に握る吏曹銓郎の後任をめぐって士林が二つに割れた。一方の住まいが都の東にあり他方が西にあったことから東人・西人と呼ばれる。人事の一ポストから始まった対立は学統と地域の違いと結びつき、以後三百年の党争へ発展していく。
対馬の宗氏に促されて日本へ送った使節は、帰国して正反対の報告をした。西人の正使は必ず攻めてくると述べ、東人の副使は攻めてこないと述べた。朝廷は後者を採り、進めていた城の修築まで中止させた。判断の根拠が事実ではなく党派だったことが、二年後に露わになる。
小西行長の第一番隊が釜山に上陸し、釜山鎮と東莱城を一日ずつで落とした。以後、十五万余の日本軍が三つの道に分かれて北上する。二百年近く大きな戦争を経験していなかった朝鮮の軍制は動員に手間取り、鉄砲を主兵器とする軍への備えもまったく無かった。
北辺で女真を破った申砬が、朝廷の集めた最後の主力を率いて南下した。鳥嶺の険を守るべきだという進言を退け、騎兵を活かせる忠州の平地で背水の陣を敷く。しかし鉄砲の斉射の前に騎兵突撃は通じず、軍は全滅した。この敗報が漢城の放棄を決めさせる。
王は都を捨てて平壌へ、さらに鴨緑江のほとりの義州まで逃れ、明への亡命まで口にした。都では民衆が宮殿と奴婢の台帳を焼いている。柳成龍らが明へ援軍を求め、明は自国の防衛線を朝鮮で引くという判断からこれに応じた。戦争は三国が関わるものに変わる。
全羅左水使の李舜臣が艦隊を率いて東へ進み、玉浦に停泊していた日本の船団を襲って二十六隻を焼いた。陸で連敗が続くなかで届いた最初の勝報である。以後、朝鮮水軍は南海の制海権を握り、日本軍の海上補給を断ち続けた。
狭い水道に停泊していた日本水軍を広い海へ誘い出し、鶴が翼を広げるように包囲する陣形で迎え撃った。七十隻余りのうち五十九隻を撃沈または鹵獲している。この敗北で日本軍は黄海を回る補給路を断念し、平壌より北への進撃を諦めることになった。
官軍が壊滅した各地で、在地の士族が私財を投じて義兵を組織した。慶尚道の郭再祐は開戦の十日後に挙兵し、洛東江の水路を断って補給を妨げた。七十三歳の休静は僧に決起を呼びかけ、五千の僧兵が集まった。占領地の後方が安定しなかったことが戦局を左右する。
全羅道の穀倉地帯へ入る要衝の晋州城を、金時敏が三千八百で守った。二万の日本軍が六日間攻め続けたが落ちず、撤退した。朝鮮側が城郭戦で勝った最初の例である。この防衛によって全羅道は戦火を免れ、水軍と義兵の兵站を支え続けることができた。
李如松の率いる明軍四万余が朝鮮軍と僧兵を加えて平壌を包囲し、大砲を集中運用して一日で城を落とした。小西行長の軍は漢城まで退く。開戦以来一方的だった戦局がここで反転し、以後は日本軍が南部に築いた城に籠る持久戦へ移っていく。
平壌の勝利に乗って南下した李如松は、漢城の北で日本軍の伏撃を受けて敗れた。狭い谷での戦闘で騎兵が活かせず、自身も危うく討たれかけている。以後、明軍は積極的な攻勢を避け、戦争は四年に及ぶ講和交渉の時期へ入った。
権慄が一万足らずで漢江北岸の山城に籠り、三万の日本軍による九回の攻撃を一日で退けた。城内では女たちも前掛けに石を運んで守兵に渡したと伝わる。この敗北が日本軍の漢城放棄を決定づけ、朝鮮側が陸戦で正面から勝った数少ない例となった。
前年に落とせなかった晋州城を、秀吉は名指しで攻略するよう命じた。九万余の日本軍が九日間攻め続け、城は陥落する。守兵と城内の住民あわせて六万が死んだとされ、この戦争でもっとも犠牲の多い一戦になった。戦略的な意味より報復の色が濃い攻撃だった。
農民を交代で徴発する在来の軍制では戦えないことが明らかになり、給料を支給する常備の部隊が新設された。明軍の兵法にならって鉄砲・弓・槍の三つの兵種を組み合わせ、身分の低い者も採用している。戦争が朝鮮の軍制を根本から作り替えた。
講和交渉が決裂し、日本軍が再び渡海した。同じ頃、朝鮮では日本側の偽情報と朝廷内の対立から李舜臣が命令違反を問われて投獄され、拷問を受けて一兵卒に落とされる。後任には元均が就いた。開戦の直前に最良の指揮官を失うという事態が起きた。
朝廷の督促で出撃した元均の艦隊は、夜襲を受けて壊滅した。百六十隻余りを失い、元均も戦死する。五年にわたって制海権を守り続けた朝鮮水軍は、一夜で消えた。朝廷は水軍の廃止まで検討したが、復職した李舜臣がこれを押しとどめる。
復職した李舜臣は、潮の流れが激しく反転する狭い海峡に日本水軍を誘い込んだ。狭さのために大軍が同時に戦えず、潮が変わると隊列が崩れる。十三隻で百三十隻余りを相手に戦い、日本側の指揮官を討ち取って撤退させた。西海岸への北上はここで止まった。
秀吉の死により日本軍は撤退を始めた。李舜臣は明の水軍とともに退路を塞ぎ、露梁の海峡で最後の海戦を戦う。二百隻余りを撃破したが、追撃の最中に銃弾を受けて戦死した。戦いが終わったことを兵に知らせるなという言葉を残したと伝わる。
徳川政権の求めに応じ、朝鮮は回答兼刷還使を送った。国交回復への回答と、連れ去られた人々を連れ帰るという二つの目的を名に持つ使節である。以後二百年にわたり十二回の通信使が往来し、東アジアで唯一の対等な国家間の使節交換が続いた。
地方の特産物を現物で納めさせる貢納は、代納する業者が何倍もの値を取る防納という不正の温床になっていた。これを土地の広さに応じた米の納入に一本化する制度が、まず京畿道で始められた。負担が人から土地へ移ったため、大地主となっていた両班は強く抵抗した。
戦後の日朝の通交の条件が、対馬の宗氏との間で改めて定められた。貿易船は年二十隻に限られ、日本人が滞在できる場所は釜山の倭館だけに絞られる。国交は通信使、貿易は倭館という二本立ての枠組みが、以後二百六十年にわたって維持された。
許浚が十六年をかけて編んだ二十五巻の医書が完成した。中国の膨大な医学文献を病ごとに再編成したうえで、朝鮮で入手できる薬材を郷薬名で併記している。戦乱で疲弊し薬の手に入りにくい社会で、手近な材料で治療できるようにするという目的が貫かれている。
明の要請で一万三千を送ったが、明軍は後金に大敗した。姜弘立は形勢を見て降伏し、朝鮮に明を助ける意思はないと伝えたとされる。光海君が密命を与えていたという説が有力である。この現実主義が、明への義理を絶対とする士大夫から反逆と受け取られた。
西人が兵を挙げて宮中に入り、光海君を廃して綾陽君を王に立てた。掲げられた理由は、兄弟を殺し母后を幽閉した不倫と、明への義理を捨てた背信である。以後の外交は明一辺倒に戻り、後金との断交へ進む。臣下が王を替えた二度目の例だった。
クーデタの主力でありながら論功で二等に置かれた李适が、北辺の任地で挙兵した。一万余で南下して漢城を占領し、王は公州まで逃れる。反乱軍が都を落とした唯一の例である。二十日ほどで鎮圧されたが、北辺の精鋭が失われ、防備に大きな穴が開いた。
明との断交と、明の残存勢力を朝鮮が匿っていることを理由に、後金軍三万余が鴨緑江を越えた。王は江華島へ逃れ、兄弟の国という盟約を結んで撤退させた。属国とまではされなかったが、明との関係を続けるかどうかという問いが以後の朝廷を割り続ける。
国号を清と改めて皇帝を称したホンタイジは、朝鮮に君臣の礼を求めた。朝廷はこれを拒み、清軍十万余が侵攻する。騎兵が城を無視して直進したため、王は江華島へ渡れず南漢山城に籠った。四十七日の籠城のあいだ、城内では降伏か抗戦かの論争が続いた。
食糧が尽き、江華島の陥落も伝わって、仁祖は城を出た。漢江のほとりの三田渡に築かれた壇の下で、清の皇帝に三度跪き九度頭を地につける礼をとった。明の年号を捨てて清に服属し、二人の王子を人質に出す。朝鮮の外交はここで根本から向きを変えた。
降伏の証として、二人の王子が瀋陽へ送られた。昭顕世子は八年をそこで過ごし、清の官人と交わり、入関後の北京ではイエズス会士のアダム・シャールから天文書と地球儀と西洋の暦法を受け取っている。屈辱の人質生活が、意図せず外の世界への窓になった。
八年の抑留を終えて帰国した昭顕世子は、二か月後に急死した。遺体が黒く変じていたという記録から毒殺説が絶えない。直後に妃は賜死、幼い三人の子は済州へ流されて二人が死んだ。弟が世子となり、清への復讐を掲げる北伐が国是になっていく。
清への服属後も明との連携を捨てなかった林慶業は、明へ亡命して抗清の軍に加わった。捕らえられて清から朝鮮へ送還され、取り調べの最中に杖のもとで死んだ。国家が清の属国であることを選んだ以上、抗い続ける将は国家にとっても処理すべき対象だった。
瀋陽で八年を過ごした鳳林大君が即位し、清を討つ北伐を国是に掲げた。禁軍を増やし、火器を整え、宋時烈ら西人が思想の面からこれを支える。しかし清の国力は年ごとに増し、出兵の機会は訪れなかった。準備のための増税だけが民の負担として残る。
清の求めに応じて、鉄砲隊百余人を含む部隊が松花江へ派遣され、アムール川流域に進出していたロシアのコサックと戦った。四年後にも再び出兵している。清を討つと唱えていた王が清の軍に加わって欧州の勢力と交戦するという、皮肉な形の対外戦だった。
孝宗が死んだとき、継母である大王大妃が喪服を何年着るかが争われた。宋時烈ら西人は一年、許穆ら南人は三年を主張する。次男である孝宗を王として長男並みに扱うかどうかという問いであり、王家の礼が士大夫の礼と同じかという原理の対立だった。
官に就かず扶安に隠れた柳馨遠が、二十年をかけて書いた改革案である。土地は国家が所有して耕す者に分け与えるべきだという公田制を説き、身分ではなく能力で官を選ぶ制度を構想した。理気を論じる性理学ではなく、田制と税制と兵制を数字で論じる学問がここから始まる。
何度も試みては挫折してきた銅銭の流通が、この年の鋳造からようやく定着した。大同法によって米が税として大量に動くようになり、それを扱う商人と運送業者が育っていたことが背景にある。以後二百年、この銭が朝鮮の基本通貨であり続けた。
粛宗は南人政権を一夜で退け、西人を全面的に登用した。換局と呼ばれるこの手法は、党派どうしを争わせて王が上に立つためのものである。以後、政権交代のたびに前政権の中心人物が処刑されるようになり、党争は共存の余地を失って報復の連鎖へ変わった。
張禧嬪の産んだ子を世子に立てることに反対した宋時烈が流され、南人が政権に復帰した。八十三歳の宋時烈は流刑地から召還される途上で賜薬を受けて死ぬ。後宮の人事が政権交代の手続きになっており、朝廷の争いが宮中の争いと完全に一体化していた。
宮女から王妃にまで上り、政権交代とともに降ろされた張禧嬪が、先の王妃を呪詛した罪を問われて死を賜った。生んだ子はのちの景宗である。王の生母が賜死を命じられた例は他になく、その処置が正しかったかどうかは老論と少論の対立点として残り続けた。
清の使節と朝鮮の官吏が白頭山に登り、西は鴨緑江、東は土門江を境とすると刻んだ碑を建てた。清が満洲を発祥の地として封禁していた時期の取り決めである。この土門江が豆満江を指すのかどうかが、後に間島の帰属をめぐる争いの火種になった。
徳川吉宗の襲職を祝う通信使に、文章の担当として申維翰が随行した。街道・都市・貨幣・出版・風俗を細かく観察した海游録には、相手を見下す視線と、実物の豊かさへの驚きが同居している。対馬の雨森芳洲との論争と親交が、この記録の白眉である。
即位した英祖は、老論と少論の双方から均等に人を用いる方針を打ち出した。自らが少論の疑いを受けて即位した経緯があり、報復の連鎖を止めなければ王権そのものが保たないという判断だった。成均館の前に蕩平碑を建て、偏らないことを国の方針として掲げている。
兵役の代わりに納める布を年二匹から一匹に減らした。不足する分は漁業・塩・船に課す税と、両班の一部にも及ぶ結作という土地税で補っている。両班は兵役の負担を免れており、その特権に部分的にでも手をつけた点でこの改革の意味は大きい。
英祖は世子を廃し、米を貯える大きな櫃に閉じ込めて、八日後に死なせた。世子を罪人として処刑すればその子にまで累が及ぶため、公式の刑を避けたのだとされる。父が子を殺したこの事件は、以後の党争において最大の争点となり、正祖の治世を規定した。
即位した正祖は、王室図書館である奎章閣を設けて政策研究の中枢に育てた。庶子の学者を検書官に登用して身分の壁に穴を開け、若い官僚を再教育する制度も置いている。世宗の集賢殿以来、学問が国家の事業として組織された二度目の時期である。
清の乾隆帝の誕生を祝う使節に随行した朴趾源が、道中の見聞を記した。煉瓦の積み方、車輪の規格、糞尿の運搬に至るまで具体的に書き、夷狄と見下してきた清の技術と制度を学ぶべきだと説いている。清を認めることが屈辱とされた社会での、実物に基づく反論だった。
図画署の画員である金弘道と申潤福が、相撲・書堂・鍛冶場・農作業、あるいは都市の男女と妓房を主題にした絵を描いた。それまで絵の主題は山水と花鳥と肖像に限られており、名も無い人々の日常が正面から描かれること自体が新しかった。
北京で洗礼を受けた李承薫が帰国し、持ち帰った書物をもとに信徒の共同体が組織された。宣教師の渡来より先に、書物を読んだ人々が自発的に教会を作った例は世界的にも他にない。西学として学問の対象だったものが、信仰として社会に入り込んだ瞬間である。
都の御用商人が持っていた、無許可の商人を取り締まる禁乱廛権を、六種の品目を除いて廃止した。誰でも商いができるようになり、都の市場は大きく広がる。土地に縛られない層が都市に集まり始めており、商業の自由化はその現実を追認する措置でもあった。
正祖は父の墓を水原へ移し、そのそばに新しい城郭都市を築いた。丁若鏞が滑車を組んだ挙重機を設計し、工期は当初の見込みの十年から二年十か月に縮まった。労働者に賃金を支払う形で行われた点でも、それまでの動員による工事とは異なっている。
四十八歳で急死した。奎章閣に集められた人材は散り、親衛軍は解体され、十一歳の純祖の背後で外戚が実権を握る。以後六十年の勢道政治が始まった。改革が制度としてではなく国王個人の力量に依存していたことが、この一つの死で明らかになる。
正祖の死の翌年、天主教徒への全国的な弾圧が行われ、三百人余りが処刑された。祖先の祭祀を拒むことが人倫を否定する行為と見なされたためである。信徒の多くが南人系だったため、政権を握った勢力が政敵を除く手段としても使われた。丁若鏞はこれに連座して十八年流される。
科挙に合格しながら平安道の出身という理由で官途を閉ざされた洪景来が、商人・鉱山労働者・農民を集めて挙兵した。清川江以北をほぼ制圧したが、定州城に籠って四か月の攻囲に耐えたのち、城壁を爆破されて落城した。地域差別への異議申し立てとして始まった蜂起である。
十二回目の通信使は、江戸まで行かず対馬で儀礼を行う易地聘礼として実施された。幕府の財政難と朝鮮側の負担が理由である。二百年続いた対等な国家間の使節交換はこれが最後となり、以後六十年余り、両国のあいだに正式な往来は無くなった。
潜入していたフランス人宣教師三人を含む百人余りが処刑された。この時期、五家を一組として互いに監視させる五家作統の仕組みが信徒の摘発に転用されている。弾圧が繰り返されるほど信徒は地下へ潜り、外部との連絡を求めるようになった。
マカオで神学を学び、朝鮮人として最初の司祭に叙階された金大建が、宣教師を迎える海路を開こうとして捕らえられ、二十五歳で処刑された。獄中で朝鮮の地理と海路について記した文書も残している。禁教下で外の世界と繋がることは、それ自体が国事犯だった。
没落した両班の庶子である崔済愚が東学を唱えた。西学すなわち天主教に対抗する東の学という意味で、人の内に天が宿るという人乃天の思想を核に、身分と男女の別を否定した。教えを漢文ではなくハングルの歌の形で広めたため、読み書きのできない農民にも届いた。
金正浩が朝鮮全土を二十二の帖に分けて描いた地図を、木版に彫って刊行した。道路には十里ごとに点を打って距離が読め、山脈と水系は連続する線として表現されている。折り畳んで携行でき、同じ精度の複製が多数流通した点で、それまでの官撰の地図と性格が違う。
晋州で始まった農民の蜂起が、南部三道の七十余か所へ広がった。田税・軍布・還穀という三つの徴収の乱れが原因である。とりわけ還穀は、春に貸した穀物を秋に利息付きで取り立てる救済制度が、実際には強制的な高利貸しに変質していた。
哲宗が嗣子なく死に、王族の傍系から十二歳の少年が迎えられた。その父である興宣大院君が摂政として国政を握る。六十年続いた安東金氏の勢道政治は終わり、王権の回復を掲げた強力な改革が始まった。同時に、外に対して国を閉じる方針も徹底されていく。
壬辰倭乱で焼けてから二百七十年余り放置されていた正宮の再建が始まった。王権の回復を目に見える形で示す事業である。財源として通常の百倍の額面を持つ当百銭を鋳造し、寄付を強制したため、物価が急騰して経済は大きく混乱した。
大院君はフランス人宣教師九人と信徒数千人を処刑した。生き延びた宣教師の報告を受け、フランスの艦隊が江華島を占領する。朝鮮側は文殊山城と鼎足山城で反撃し、フランス軍は一か月ほどで撤退した。この撃退が、鎖国を続けられるという確信を強めることになる。
五年前に大同江で焼かれた商船の件と通商の要求を掲げて、アメリカの艦隊が江華島に来た。広城堡で激しい戦闘となり、守備兵は全滅したが、艦隊は交渉に至らず引き揚げる。大院君は全国に斥和碑を建て、和を主張する者は国を売る者だと刻ませた。
崔益鉉が大院君の失政を弾劾する上疏を出したのを機に、高宗が親政を宣言した。実際に主導したのは妃の閔氏で、以後は閔氏一族が要職を占める。書院の復活を求める儒学者と、開国を求める勢力という相反する圧力が、同じ一つの政変を後押しした。
日本の軍艦が測量を名目に江華島の沿岸へ侵入し、砲撃を受けたことを口実に永宗島を占領した。二十年前に自国が受けた砲艦外交を、そのまま隣国に対して行ったものである。この事件を交渉の材料として、翌年の条約締結へ持ち込んだ。
朝鮮が結んだ最初の近代的な条約である。第一条で朝鮮を自主の国と定め、清の宗主権を否定した。一方で日本の領事裁判権を認め、関税を定めず、沿岸の測量を許すという不平等な内容だった。釜山・元山・仁川が順に開かれ、鎖国は終わる。
十三か月も給料が滞り、ようやく渡された米に砂が混ざっていたことから旧式の軍隊が蜂起した。日本人教官を殺し公使館を焼き、宮中に乱入する。大院君が一時政権に復帰したが、清が三千の兵を送って鎮圧し、大院君を天津へ連行した。清軍はそのまま駐留を続ける。
清の李鴻章の斡旋でアメリカとの条約が結ばれた。日本とロシアを牽制するために欧米を引き入れるという清の均衡策である。以後、イギリス・ドイツ・ロシア・フランスとも同様の条約が結ばれ、朝鮮は列強の利害が交錯する場になっていく。
郵便局の開業を祝う宴に乗じて、金玉均ら急進開化派が閔氏の要人を殺し、政権を握った。身分制の廃止と清からの独立を掲げる政綱を発表したが、日本公使館の兵力は少なく、袁世凱の率いる清軍の介入で三日で崩れた。首謀者は日本へ亡命する。
甲申政変の事後処理として、日清両国が朝鮮から撤兵し、今後出兵する際は互いに事前通告するという取り決めが結ばれた。当面の衝突は避けられたが、出兵の手続きを定めたこの条項が、十年後に両軍の同時出兵を正当化する根拠となる。
全羅道古阜の郡守による水税の収奪に抗議して全琫準が蜂起し、東学の組織を通じて数万の農民が集まった。黄土峴で官軍を破って全州を占領する。政府と和約を結び、各地に執綱所を置いて農民が地方行政に関与した。ところが政府が呼んだ清軍と、それに応じた日本軍が上陸する。
日本軍が宮中を占拠したうえで進められた改革である。身分制と奴婢制を廃止し、科挙を廃して新しい官吏登用の方式を定め、度量衡を統一し、寡婦の再婚を認めた。五百年続いた社会の枠組みが数か月で法の上から消えたが、外国の軍の下で行われたという事実が影を落とす。
東学農民戦争を口実に清と日本が同時に出兵し、豊島沖の海戦から戦争が始まった。成歓と平壌で清軍が敗れ、戦場は満洲へ移る。二百五十年余り続いた清の宗主権はこの戦争で失われた。朝鮮の意思とは関わりなく、その土地で他国どうしが戦った。
三国干渉で日本が後退すると、閔妃はロシアに接近して日本の影響力を排そうとした。駐朝鮮公使の三浦梧楼は、守備隊と壮士と訓練隊を動かして景福宮に侵入させ、王妃を殺害して遺体を焼いた。外交官が駐在国の王妃殺害を主導した例は他にない。
断髪令への反発で各地に義兵が起こるなか、高宗は身の危険を避けて宮殿を出てロシア公使館へ移り、そこから一年間政務を執った。日本の影響力は後退したが、代わりにロシアをはじめ各国が鉱山・森林・鉄道の利権を次々に得ていく。
甲申政変で亡命しアメリカから帰国した徐載弼が、ハングルだけで書かれた独立新聞を創刊した。討論を通じて世論を作る独立協会を組織し、清の使節を迎えていた迎恩門の跡に独立門を建てる。身分に関わりなく人が集まって議論する場が、初めて公然と現れた。
ロシア公使館から還宮した高宗は、圜丘壇で天を祭り、国号を大韓、年号を光武と定めて皇帝の位に即いた。清の冊封から離れ、日本とも対等の帝国であることを形式の上で示す宣言である。五百年続いた王朝は、名を改めることで最後の姿勢を示した。