ユーグ・カペーの即位 — 王領はパリ周辺だけ
政治カロリング家が絶え、諸侯の選挙でパリ伯ユーグが王に選ばれた。直轄地はパリとオルレアンの周辺のみで、ノルマンディ公もアキテーヌ公も王よりはるかに強い。生前に息子を共同の王として戴冠させ、選挙を形骸化させて王位を家に固定した。
カロリング家が絶え、諸侯の選挙でパリ伯ユーグが王に選ばれた。直轄地はパリとオルレアンの周辺のみで、ノルマンディ公もアキテーヌ公も王よりはるかに強い。生前に息子を共同の王として戴冠させ、選挙を形骸化させて王位を家に固定した。
王権が届かない南フランスで、司教たちが公会議を開き、非武装の者と教会財産への攻撃を破門で禁じた。のちには特定の曜日と季節の戦闘も禁じられる。国家が果たせない治安の役を、教会が組織した動きである。
皇帝はローマに宮廷を置き、古代帝国の再興を掲げた。家庭教師を教皇シルウェステル2世に据え、ポーランドとハンガリーに大司教座と王冠を認めて帝国の枠に迎える。二十一歳で急死し、構想は途絶えた。
デンマーク王家の王子がイングランドを征服し、のちデンマークとノルウェーも継いで北海を囲む版図を作った。既存の法と教会を尊重して統治する。その死後三年で帝国は分裂し、イングランドの王位はアングロサクソン系に戻った。
世俗の領主に従属しない修道院として建てられたクリュニーが、千を超える系列を持つまでに広がった。その改革の思想が教皇庁に入り、聖職売買と聖職者の妻帯の禁止、そして世俗による司教任命の否定へ進む。
巡礼と傭兵として南イタリアへ流れ込んだノルマン人が、ビザンツとランゴバルドの領地を切り取っていった。教皇は彼らを討つのをやめ、逆に封臣として認めて後ろ盾にする。皇帝に対抗する軍事力を教皇が手に入れた瞬間である。
ハロルドは北でノルウェー王の侵攻を破った直後、二百キロを南下してノルマン軍と戦った。丘の上の盾の壁が一日持ちこたえたが、退却を装う騎兵に崩されて王は戦死する。イングランドの支配層はこの一日で総入れ替えになった。
デーン人と結んだ北部の反乱に対し、王は農地・家畜・種籾まで焼き払わせた。数万が飢えて死んだと年代記は伝える。以後イングランドで王権に対する大規模な反乱は起きなくなった。
誰がどの土地を持ち、何頭の家畜がいて、どれだけの価値があるかを全国で調べさせた。一年足らずで集計された台帳は、中世ヨーロッパで比類のない行政記録である。課税と土地所有の根拠として、以後何百年も参照された。
三十年かけてノルマン人が島のイスラーム勢力を制圧した。しかし住民を追わず、アラブ人の官僚とギリシア人の書記をそのまま用いる。ラテン語・ギリシア語・アラビア語で文書を出す王国が地中海の中央にできた。
教皇ウルバヌス2世が東方への遠征を呼びかけた。神の平和で抑えようとしてきた騎士の暴力を、キリスト教世界の外へ向ける企てでもある。参加者には罪の赦しが約束され、数万が動いた。西ヨーロッパの内側の圧力が外へ噴き出した。
司教の任命権を争って破門された皇帝は、諸侯が離反する前に赦免を得るため、アルプスを越えて城の前に立った。教皇は三日後に破門を解く。屈服の場面として語られるが、皇帝にとっては諸侯の反乱を封じる有効な一手だった。
商工業で富を得た都市の住民が、領主から自治の特許を金で買い、あるいは実力で認めさせた。市壁の中では領主裁判が及ばず、一年と一日住めば自由身分になる。封建的な身分の外に、新しい人の集まりが生まれた。
皇帝軍がローマを占領し、教皇はノルマン人に救い出されたが、その略奪でローマ市民の支持も失った。サレルノで亡命のうちに没する。掲げた原則そのものは残り、次の世代で制度として実現した。
大陸の改革を受け、イングランドでも司教の任命と臣従の礼をめぐって王と教会が争った。アンセルムスは二度亡命し、1107年に妥協が成立する。ヴォルムス協約の十五年前に、同じ形の解決がイングランドで先に見つかった。
東方へ向かう前に、身近な非キリスト教徒を討つべきだという理屈で、ライン沿いの都市のユダヤ人共同体が襲われた。司教が保護を試みた町もあったが多くは守り切れない。西ヨーロッパの内側で起きた最初の大規模な迫害である。
五十年に及ぶ争いが妥協で終わった。司教の霊的な地位は教会が、その土地と世俗の権限は皇帝が授けるという二重の手続きに分けられる。教会は世俗の支配から一定の独立を得たが、皇帝もドイツでは影響力を残した。
ベルナールが仲間三十人と入会したのを機に、労働と簡素を掲げる修道会が急速に広がった。人里離れた荒地を選んで開墾し、水車と製鉄と牧羊を組織的に営む。二百年で数百の修道院が北ヨーロッパ中に建った。
アベラールは同じ問いについて教父たちの相反する言葉を並べ、答えを書かずに読者に判断させた。理性で信仰を検討するその作法が、のちのスコラ学の方法になる。ベルナールに異端として追及され、著作は断罪された。
引き裂かれた二人が、それぞれ修道院で暮らしながら交わした書簡が残った。エロイーズは古典と聖書を自在に引きながら、自らの感情と修道生活の矛盾を書く。中世の内面を伝える史料として例外的な位置を占める。
ルイ7世が第2回十字軍へ発つあいだ、サン・ドニの修道院長が王国の統治を預かった。徴税と裁判を整え、諸侯の動きを抑える。王権の実務を担う聖職者の官僚という形が、以後のフランスの統治の型になった。
矛盾する教会の規定を並べ、区別を立てて調停する方法で一つの体系にまとめた書が編まれた。同じ頃ローマ法の写本の研究も進み、ボローニャは法学の中心になる。訓練された法律家が王侯と教皇の双方に仕え始めた。
尖頭アーチ・交差リブ・飛梁を組み合わせ、壁を薄くして大きな窓を開けた内陣が完成した。院長シュジェールは光を神の顕現として説明している。以後百年でシャルトル、パリ、ランス、アミアンと大聖堂が建ち続けた。
教師と学生の組合が、都市や教会からの自治を特許によって認められた。ボローニャは法学、パリは神学を軸にする。教科書と講義と討論と学位という仕組みがここで整い、以後八百年の高等教育の型になった。
幻視を記録した神学書のほか、薬草と病についての書、七十を超える聖歌を残した。説教の旅に出て司教や皇帝にも意見を送る。教会の枠の中で、女性が到達しえた最も広い活動範囲を示している。
フリードリヒ1世はボローニャの法学者に古代ローマ法を調べさせ、皇帝が持つ権利を一覧にして北イタリアの都市へ突きつけた。復活した法学が統治の道具として使われた最初期の例である。都市はこれを拒んで同盟を組んだ。
アラビア語に訳されて保たれていたギリシアの哲学・医学・数学が、ラテン語へ訳し直された。アリストテレスの自然学と論理学、イブン・シーナーとイブン・ルシュドの注釈が西欧へ入る。大学の教材が一挙に厚くなった。
クレティアン・ド・トロワらが、アーサー王と円卓の騎士を主題にした韻文物語を書いた。勇気と忠誠に加えて、婦人への奉仕という規範が語られる。暴力を職業とする階層が、自らを律する物語を持ち始めた。
北イタリアの自治都市が同盟し、フリードリヒ1世(バルバロッサ)の軍を破った。六年後の講和で、皇帝は都市の自治を事実上認める。市民の歩兵が皇帝の騎士を退けたことは、以後のイタリアの都市国家の自信になった。
対立教皇が二十年続いた反省から、教皇の選出には枢機卿の三分の二の賛成を要すると定められた。同時に、各大聖堂に無償で教える教師を置くことも義務づけられる。学校の網が広がる制度上の後押しになった。
火災で焼けた大聖堂が、二十六年で建て直された。飛梁で壁を支え、床から天井まで色ガラスの窓を並べる。同じ時期にパリ、ランス、アミアンでも工事が進み、百年で北フランスに大聖堂が林立した。
フランス王ルイ7世との婚姻が解消された二か月後、アリエノールはアンジュー伯アンリと結婚した。フランス南西部の広大な所領がイングランド王家の側へ移る。二年後にアンリがイングランド王になり、アンジュー帝国が成立した。
ヘンリ2世はイングランド・ノルマンディ・アンジュー・アキテーヌを一人で握った。フランス王より広い版図だが、それぞれ別の慣習法で結ばれた寄せ集めで、統一された国家ではない。相続のたびに割れる危うさを抱えていた。
王の裁判官が定期的に各地を回り、地元の十二人に事実を答えさせる仕組みが定められた。令状を買えば誰でも王の裁判所を使える。領主の裁判より速く公平だったため利用が集中し、全土に共通の判例法が育っていった。
聖職者の裁判権をめぐって王と争った大主教が、四人の騎士に大聖堂の中で斬られた。ヨーロッパ中が衝撃を受け、王は公然と苦行を受けて謝罪する。三年で聖人に列せられ、その墓は西欧有数の巡礼地になった。
十字軍へ発つにあたり、フィリップ2世は国庫と文書をパリに置き、城壁を築いてルーヴルの塔を建てた。四年後に輸送中の文書を戦場で失った経験も重なる。宮廷が動き回るのをやめ、統治の中心が一つの都市に固定された。
十字軍からの帰路に捕らえられたリチャードの解放に、莫大な身代金が課された。イングランドでは全財産の四分の一を出させる特別税が組まれる。徴税の仕組みが一段進み、王の不在が結果として行政の整備を促した。
フィリップ2世はジョン王を臣下として法廷に召喚し、応じないことを理由に大陸の所領の没収を宣告した。そのうえで軍を進め、難攻とされたシャトー・ガイヤールを落としてノルマンディを取る。王領は一挙に倍以上になった。
皇帝オットー4世・イングランド王・フランドル伯らの連合軍を、フランス王が正面から破った。奪回を狙ったジョン王の計画は潰え、フランス王の地位は諸侯より一段上に固まる。パリでは一週間祝いが続いた。
マグナ・カルタを教皇に無効とさせたジョン王に対し、諸侯はフランス王子ルイを招いてロンドンに迎えた。王の急死と、憲章を再発布した摂政の手当てで諸侯は引き戻され、王子は撤退する。イングランドが海の向こうの王を戴く寸前だった。
輸送費を払えない十字軍に、ヴェネツィアはまずキリスト教徒の都市を攻めさせ、次いでコンスタンティノープルへ導いた。教皇は破門で止めようとしたが従われない。呼びかけた側が動きを制御できないことが露わになった。
大主教の任命を拒んだジョン王に対し、教皇は王国全体の聖務を停止した。洗礼と埋葬を除くすべての儀式が止まり、王は破門される。五年後、王は王国を教皇の封土として差し出して和解した。
南フランスに広がったカタリ派を討つため、教皇が北の諸侯に十字軍を呼びかけた。ベジエでは住民が区別なく殺される。二十年の戦いで南部の独立した文化圏は破壊され、トゥールーズ伯領は最終的にフランス王領へ組み込まれた。
説教に動かされた若者や貧しい人々の群れが、指導者も装備もないまま地中海を目指した。多くは途中で散り、船に乗せられて売られた者もいたと年代記は伝える。呼びかけが生んだ熱が、統制の外で暴走した例である。
千二百人を超える聖職者が集まり、年一回の告解と聖体拝領を義務づけ、聖変化の教義を定めた。ユダヤ教徒とイスラーム教徒に識別できる服装を求める規定も含まれる。教皇が西方キリスト教世界の隅々まで規律を及ぼした頂点である。
南フランスで異端に説教しようとしたドミニコは、豪奢な行列では相手にされないと悟り、徒歩と托鉢の形を取った。説得には学問が要るとして会員を大学へ送る。パリとボローニャの教壇を担う学問の修道会になった。
水の乏しい平地に風車が現れ、三圃制と重量有輪犂、馬の首輪が広がった。同じ面積からより多く採れるようになり、人口は三百年で倍以上になる。都市と大聖堂と大学を支えたのは、この農業の改良である。
伯が安全と公正な裁きを保証したことで、フランドルの毛織物とイタリアの香辛料が交換される定期市が年六回開かれた。為替手形と信用取引の作法がここで整えられる。商業が復活した十二〜十三世紀を象徴する場である。
巡礼者の金を預かって現地で払い戻す仕組みから、騎士団は各地に拠点を持つ金融機関になった。フランスとイングランドの王の国庫を預かるまでになる。その富が、百年後にフィリップ4世が団を解散させる動機になった。
第4回十字軍を輸送したヴェネツィアはコンスタンティノープルの略奪で東地中海の拠点を得た。ジェノヴァは黒海と西地中海で対抗する。両市は複式簿記・海上保険・株式に近い出資の形を整え、以後二百年争い続けた。
大陸の所領を失い、その奪回のための重い課税に諸侯が反発した。突きつけられた文書は、同輩の合法的な裁判によらずに自由人を捕らえないこと、一般評議会の同意なしに課税しないことを定める。当座は数か月で反故になった。
ジョン王の死後、諸侯の一部が招いたフランス王子がロンドンを押さえていた。七十歳の老騎士が摂政となってリンカンで勝ち、マグナ・カルタを王の名で再発布して諸侯を引き戻す。憲章が一度きりの文書でなくなった。
ポーランドの公に招かれた騎士団が、バルト海沿岸の異教徒の土地を征服して自らの領国を作った。都市を建て、ドイツからの入植者を入れる。この領国が三百年後にプロイセン公国となり、さらに王国になった。
ルイ8世の急死で十二歳の子が即位し、母が摂政となった。外国生まれの女性が国を預かることへの反発は強かったが、諸侯を個別に切り崩して反乱を抑える。アルビジョア戦争を終わらせ、南フランスを王領に組み込んだ。
バルト海と北海を結ぶ交易路を守るため、二つの都市が同盟を結んだ。やがて二百近い都市が加わり、穀物・木材・毛皮・魚・塩を運ぶ網ができる。国家ではない都市の連合が、北ヨーロッパの経済を握った。
ポーランドとハンガリーでヨーロッパの騎士軍が相次いで壊滅した。ウィーンまで数日という位置で、大ハーンの死により軍は東へ引き返す。何が起きたのか西欧はほとんど理解できず、使節を送って探ることになった。
三百年続いた人口の増加が頭打ちになった。森は伐られ、湿地は干され、痩せた土地まで耕されている。一区画あたりの取り分は減り、飢饉が起きやすい状態が積み上がっていく。次の世紀の破局の下地がこの時期に作られた。
外国出身の側近の重用と失敗続きの外交に諸侯が反発し、王に統治を十五人の会議へ委ねさせた。年三回の議会の開催も定められる。王が拒否して内乱になり、モンフォールの議会へつながった。
王を捕らえて実権を握った反乱側が、各州から騎士二名、各都市から市民二名を招く議会を開いた。貴族と高位聖職者だけでない集まりは前例がない。モンフォールは翌年敗死したが、この形は残った。
最後の独立した君主ルウェリンが討たれ、ウェールズはイングランドの支配下に入った。エドワード1世は海に面した要衝に巨大な城を連ねて築き、補給を船で受けられるようにする。カーナーヴォンやコンウィがその代表である。
戦費を必要としたエドワード1世が、ユダヤ人をイングランドから追放してその債権を接収した。十字軍以来の迫害が各地で強まっており、フランスも十六年後に同じことを行う。金融を担わせて追放するという構図が繰り返された。
ウェールズ・スコットランド・フランスとの戦費を得るため、エドワード1世は貴族・聖職者・州の騎士・都市の市民をすべて呼んだ。すべての者に関わることはすべての者に承認されるべし、という書き出しが招集状に置かれる。
王位継承への介入から始まったイングランドの支配に対し、ウィリアム・ウォレスが蜂起して橋の上で軍を破った。翌年フォルカークで敗れて処刑されるが、抵抗は続き、1314年のバノックバーンで独立が事実上確定する。
スターリング橋で勝ったのち敗れて逃れていたウィリアム・ウォレスが捕らえられ、反逆者としてロンドンで処刑された。しかし翌年ロバート・ブルースが王位に就いて抵抗を継ぎ、1314年のバノックバーンで独立が事実上確定する。
コルドバの法官イブン・ルシュドがアリストテレスの全著作に注釈を書き、同じ都市の出のマイモニデスがユダヤ法と哲学の関係を論じた。両者はラテン語に訳され、パリとオクスフォードで読まれる。イベリアが知識の通り道になった。
財産を持たず托鉢で暮らし、都市に住んで街頭で説教する集団が教皇に認可された。人里離れた修道院とはまったく違う形である。数十年でフランシスコ会とドミニコ会は数千人に広がり、大学の教壇も担うようになった。
四百年ぶりに西ヨーロッパで金貨が鋳造された。品位が安定していたため国際取引の基準になり、各地で真似される。銀行業と複式簿記、為替手形も同じ都市で整えられ、商業の仕組みが一段進んだ。
十字軍から帰った王は、王国内の役人の不正を調査させ、上訴を受ける仕組みを整え、貨幣を統一した。自ら訴えを聞いたという逸話が広まり、フランス王が西ヨーロッパの調停者と見なされるようになる。
王の礼拝堂付き司祭ロベール・ド・ソルボンが、神学を学ぶ貧しい学生のために寄宿舎を建てた。学生が集まって住み、討論する場が制度になる。同じ形の学寮がオクスフォードとケンブリッジでも作られていった。
トマス・アクィナスは、翻訳で入ってきたアリストテレスの哲学をキリスト教神学と組み合わせて体系化した。理性で到達できる領域と啓示による領域を区別し、両者は衝突しないと論じる。未完のまま没した。
教皇に宛てて学問の改革案が書かれた。権威ある文書に頼らず、観察と実験で確かめるべきだと説き、光学・暦の誤差・火薬について論じる。ユリウス暦のずれを指摘して改暦を提案したが、実現は三百年後になった。
パリ大学で教えられていたアリストテレス由来の命題が、二百十九まとめて禁じられた。世界は永遠であるといった主張が信仰と衝突したためである。トマスの学説の一部も含まれ、のちに撤回された。
ヴェネツィアの商人マルコ・ポーロが、ジェノヴァとの戦いで捕らえられた牢で同房の作家に旅の話を語り、それが書き留められた。モンゴル支配下の中国の富と規模が伝えられる。誇張として笑われながら、広く読まれた。
教皇派の内部の争いに敗れ、政務職にあった詩人が財産を没収されて追放された。二度と故郷へ戻らず、亡命先で『神曲』を土地の言葉で書く。地獄と煉獄と天国に同時代の人々を配置し、教皇も皇帝も裁いた。
シチリアで育ち数か国語を操る皇帝が戴冠した。シチリアでは官僚と法典による集権的な統治を敷き、大学を作り、税関を整える。しかしドイツでは諸侯に特権を与えて自立を許し、帝国の中央集権は永久に遠のいた。
出発を遅らせて破門された皇帝は、そのまま東方へ渡り、エジプトのスルタンとの交渉だけでエルサレムを回復した。戦わずに得たことは双方の強硬派から非難される。十年で市は再び失われた。
北イタリアの自治都市が同盟して皇帝の支配を拒んだ。皇帝はコルテヌオーヴァで勝ったが屈服させられず、教皇が都市の側に立ったことで戦いは長期化する。皇帝派と教皇派の対立が、都市の内部の党派にまで及んだ。
教皇インノケンティウス4世はフランスへ逃れ、公会議を開いてフリードリヒ2世の廃位を宣言した。ドイツでは対立王が立てられ、皇帝は最期まで各地の反乱に追われる。教皇が皇帝を裁くという主張が、実際に行使された。
皇帝の死後、シュタウフェン家は教皇と諸侯に追い詰められて絶えた。帝位は二十年以上実質的に空位となり、ドイツでは諸侯の自立が決定的になる。イタリアでの皇帝の支配も終わった。
二十年以上実質的な皇帝がいない状態が続いたのち、選帝侯はあえて弱小のスイス方面の伯ルドルフ・フォン・ハプスブルクを選んだ。彼はオーストリアを手に入れ、その一族が六百年ヨーロッパの中心に居続けることになる。
教皇に招かれてシチリアを取ったアンジュー家の統治に対し、復活祭の夕べに島中で蜂起が起きた。島はアラゴン王を迎え、以後シチリアとナポリは別々の王家のものになる。地中海でアラゴンが台頭する起点である。
タイファ諸国から貢納を取り立てていたアルフォンソ6世が、ついにトレドを手に入れた。象徴的な意味が大きく、危機感を抱いたタイファ諸国は北アフリカのムラービト朝を招く。翌年カスティーリャは大敗し、南進はいったん止まった。
トレド陥落に危機感を抱いたタイファ諸国が北アフリカのムラービト朝を招き、その軍がカスティーリャを破った。しかしユースフはそのままタイファ諸国も併合し、アンダルスを直接支配する。招いた側が呑み込まれた。
カスティーリャ王に追放された騎士が、イスラーム側のサラゴサに仕えたのち、自らバレンシアを取って統治した。キリスト教とイスラームの双方に仕えた経歴は国境地帯では珍しくない。死後、詩によって国民的な英雄になる。
使徒の墓とされる地への巡礼が、ヨーロッパ中から人を集めた。道沿いに宿と橋と教会が建ち、フランスからの入植者が町を作る。人と物と様式が半島の北を東西に流れ、レコンキスタの後方を支えた。
レオン王国の伯領だったポルトゥカーレが、事実上の独立を認められた。四年前にリスボンへ向かう遠征で勝ち、以後独自に南へ進む。1249年にアルガルヴェを取って、イベリアで最も早く国境の形が定まった王国になった。
第2回十字軍へ向かう北欧とイングランドの艦隊が、途中のポルトガルで王に説得され、リスボン攻略に加わった。四か月の包囲で市は落ち、ポルトガルの南進が大きく進む。東方へ行くはずの遠征が別の戦争に使われた。
教皇の呼びかけでカスティーリャ・アラゴン・ナバラが連合し、ムワッヒド朝の軍を破った。以後イスラーム勢力は急速に後退し、半世紀でグラナダを残すだけになる。イベリアの諸王国が初めて共同で戦った日である。
アラゴン王がマヨルカに続いてバレンシアを取り、地中海へ出る足場を得た。カスティーリャとは条約で南進の分担線を定め、互いの争いを避けている。以後アラゴンは海へ、カスティーリャは南の陸へ向かった。
フェルナンド3世がカスティーリャとレオンを一つにまとめ、後ウマイヤ朝の旧都コルドバとグアダルキビール川の要衝セビリアを取った。イベリアのイスラーム勢力はグラナダを残すのみとなり、以後二百五十年その形が続く。
大空位時代のドイツで、カスティーリャ王が皇帝候補の一人に推された。二十年にわたり金を注ぎ込んだが戴冠は果たせず、財政は傾き、貨幣の価値を下げたことで反発を招く。晩年は息子に背かれ、廃位されかけた。
征服地に残ったイスラーム教徒が各地で蜂起し、鎮圧されると多くが北アフリカへ去った。空いた土地には北からの入植者と騎士修道会が入る。大土地所有が広がり、南部の社会構造がここで固まった。
王はトレドに学者を集め、アラビア語とヘブライ語の文献をラテン語ではなくカスティーリャ語へ訳させた。天文表・法典・歴史書・聖歌集が編まれる。学問の言葉が土地の言葉になり、カスティーリャ語が書き言葉として整えられた。
教皇との争いにあたり、フィリップ4世は聖職者・貴族・都市の代表をノートルダムに集めて支持を取り付けた。国内の同意を背に教皇へ対抗するという形である。フランスで身分の代表が国政の場に呼ばれた最初になった。
聖職者への課税をめぐる争いの果てに、フランス王の側近が兵を率いて教皇を捕らえた。数日で解放されたが、教皇はまもなく没する。百年前に王たちを破門で屈服させた権威が、もう通じなくなっていた。