明の建国 — 朱元璋、応天府で即位
政治・外交紅巾の一兵卒から身を起こした朱元璋が、長江流域の群雄を退けて応天府で皇帝に即位し、国号を大明、元号を洪武と定めた。托鉢僧から皇帝に至った例は中国史でこの人物だけである。
紅巾の一兵卒から身を起こした朱元璋が、長江流域の群雄を退けて応天府で皇帝に即位し、国号を大明、元号を洪武と定めた。托鉢僧から皇帝に至った例は中国史でこの人物だけである。
徐達の率いる北伐軍が大都に迫り、元の順帝は城を捨てて北へ去った。九十七年に及んだモンゴルの中国支配が終わる。ただし元の朝廷はモンゴル高原で存続し、北元として明と対峙し続けた。
元末の群雄が四川に建てた夏が、明の水陸両路の攻撃を受けて降伏した。長江上流を押さえたことで、明の統一は雲南と遼東を残すのみとなる。
民間の船が海に出ることを禁じ、対外交易を朝貢の枠内だけに限った。倭寇と海上勢力を断つための措置だったが、交易の需要そのものは消えない。禁じられた交易は密貿易となり、やがて十六世紀の倭寇の温床になる。
銅銭の不足を補うため紙幣を発行したが、兌換の裏付けを持たず、回収の仕組みも無かった。価値は急速に下がり、民間は銀での取引へ傾く。この銀への移行が、後の一条鞭法と世界的な銀の流入につながっていく。
丞相の胡惟庸が謀反を企てたとして処刑され、これを機に中書省と丞相の職そのものが廃された。皇帝が六部を直接統べる形になり、秦以来千五百年続いた宰相制度が終わる。獄は十年以上続き、連座した者は三万人に及んだ。
百十戸を一里として徴税と治安を担わせ、戸口と資産を記した賦役黄冊、土地を測って描いた魚鱗図冊を作らせた。国家が農村を戸単位で把握する仕組みであり、明の財政と統治の土台になる。
元の梁王が拠る雲南を明軍が平定し、沐英がそのまま鎮守として留まった。同じ年、皇帝直属の秘密警察である錦衣衛が置かれ、官僚の監視と逮捕・裁判を担う。外に向かっては統一、内に向かっては監視という二つの完成である。
遼東に残っていた元の勢力が降伏し、明の版図が満洲南部まで及んだ。北元は東方の支えを失う。翌年、藍玉がブイル湖で北元の主力を撃ち破り、モンゴルの脅威は大きく後退した。
高麗の武将李成桂が政権を握って新王朝を建て、明に冊封を求めた。国号は「朝鮮」と「和寧」の二案を明に諮り、翌年に洪武帝が朝鮮を選んだ。以後五百年続く両国の関係が、この選択から始まった。
北伐の名将藍玉が謀反の罪で処刑され、連座して一万五千人が死んだ。前年に皇太子が世を去り、幼い孫に位を継がせると決めた洪武帝にとって、歴戦の武将は脅威でしかなかった。建国の功臣はこれでほぼ絶える。
洪武帝が七十歳で世を去り、孫の建文帝が即位した。新帝は各地に封じられた叔父たちの兵権を削る削藩に着手し、次々と王を廃していく。矛先が北平の燕王に向かうのは時間の問題だった。
削藩に追い詰められた燕王朱棣が「君側の奸を除く」と称して挙兵した。皇帝の側近を討つという名目を掲げ、皇帝そのものには刃を向けない形を取る。三年に及ぶ内戦は、明が唯一経験した大規模な帝位争奪戦となった。
燕軍が南京に入城し、宮殿が炎上して建文帝の行方は分からなくなった。朱棣は即位して永楽帝となる。即位の詔を書くよう命じられた大儒方孝孺はこれを拒み、門人まで含む八百人余りとともに処刑された。
六十二隻の大船と二万七千人を擁する艦隊が南海へ出た。以後二十八年間で七度、東南アジアからインド、アラビア半島、アフリカ東岸にまで達する。目的は朝貢体制の拡大と威信の誇示であり、領土の獲得ではなかった。
二千人以上の学者を動員し、経史子集から医薬・技芸に至る書物を集めて二万二千九百三十七巻に編んだ。印刷はされず写本のまま伝えられ、戦火と略奪で大半が失われた。現存するのは全体の四パーセントに満たない。
内紛に介入する形で安南に出兵し、そのまま直轄の行政区として併合した。しかし現地の抵抗は止まず、二十年にわたる駐留は財政を圧迫し続ける。明が中国本土の外を直接統治しようとした、数少ない試みだった。
松花江と黒竜江の流域に都司を置き、女真の諸部を明の官職体系に組み込んだ。直接統治ではなく現地の首長を通じた緩やかな支配であり、二百年後にこの地からヌルハチが立ち上がることになる。
皇帝自ら五十万と称する軍を率いて長城を越え、北元の残存勢力を破った。以後も四度にわたり親征を繰り返す。決定的な打撃は与えられなかったが、モンゴルが統一した力を持つことを長く妨げた。
土砂で詰まっていた山東の会通河を掘り直し、江南から北京まで船で穀物を運べるようにした。北京に都を置ける前提はこの水路である。以後、江南の富が運河を通って北へ流れ続ける構造ができあがった。
十四年をかけて宮城を築き、都を南京から北京へ移した。北の脅威に皇帝自らが正面から向き合う配置であり、後に「天子、国門を守る」と評される。同時に、江南の物資を運河で運び続けなければ都が保たない構造も生んだ。
五度目の親征からの帰途、陣中で没した。外へ向かって開き続けた二十二年が終わる。遷都・遠征・大典・運河と事業を重ねた反動で財政は疲弊しており、後継者たちはまず引き締めから始めることになる。
黎利の抵抗を抑えきれず、明は二十年の駐留を諦めて撤退した。安南は独立を回復し、朝貢国として明と向き合う関係に戻る。膨張の限界がはっきり示された出来事だった。
七度目の航海に出た艦隊は、鄭和自身を帰途に失って戻った。以後、明が国家として大艦隊を出すことは二度と無い。維持費に見合う利益が無いという官僚の判断であり、航海の記録さえ後に廃棄されたと伝わる。
9歳の皇帝が立ち、養育係の宦官王振が政務を握った。宣徳帝が宦官に読み書きを教える内書堂を設けたことが、皇帝の文書決裁を宦官が代行する仕組みを生んでいた。明の宦官政治はここから始まる。
交易の要求をこじらせたエセンが侵攻し、王振に促された正統帝が二十万の軍を率いて出た。補給も指揮も乱れたまま土木堡で包囲され、明軍は壊滅、皇帝自身が捕虜となる。中国史上、遠征中の皇帝が敵に捕らわれた稀な例である。
皇帝を失った朝廷では南遷を説く声が上がったが、于謙はこれを退けて弟を新帝に立て、各地の兵と糧を集めて北京を守った。捕虜の皇帝を掲げて和議を迫るエセンに対し、「社稷を重しとし君を軽しとす」と応じている。城は守り抜かれた。
人質としての価値を失った正統帝は無条件で送り返され、上皇として南宮に移されたが、実態は幽閉だった。二人の皇帝が同時に存在する状態が七年続き、宮廷は後継を巡って割れ続ける。
景泰帝の病に乗じた一派が南宮の門を破って正統帝を担ぎ出し、復位させた。北京を守り抜いた于謙は謀反の罪を着せられて処刑される。家を没収しても財産は無かったと伝わり、都の人々は涙したという。
余子俊が延綏鎮に長大な辺墻を築き、以後の明は長城線に沿って守りを固める方針に転じた。今日われわれが目にする煉瓦積みの万里の長城は、この時代以降に築かれたものである。攻めるより守るほうが安いという計算がその背景にあった。
宦官を退けて官僚の議論を尊重し、税を軽くして司法を正した。明の中期で最も評判の良い十八年である。ただし北の防衛費と皇族への支出は膨らみ続けており、構造的な問題は手つかずのまま次代に渡された。
遊興を好む若い皇帝に代わって、宦官劉瑾が政務を握った。逆らう官僚は廷杖で打たれ流された。四年後に劉瑾は謀反を告発されて凌遅刑に処されるが、宦官が政務を代行する構造そのものは変わらなかった。
劉瑾に逆らって辺境の駅丞に落とされた王守仁は、その地で「聖人の道は吾が性に自ら足る」と悟った。理は外の事物ではなく心にあるとするこの立場から陽明学が生まれる。朱子学の権威を内側から揺るがす思想だった。
ポルトガルの船隊が広州に現れ、通商を求めた。交渉は不調に終わり武力衝突も起きたが、以後ヨーロッパ船は南の海に居続ける。1553年にはマカオへの居住が黙認され、日本銀と中国生糸を結ぶ中継地になっていく。
傍系から迎えられた新帝が、実父を皇帝として祀ろうとしたことから官僚と激しく対立した。三年に及ぶ論争の末に皇帝が押し切り、抗議した百人以上が廷杖を受け十数人が死んだ。皇帝と官僚の信頼はここで大きく損なわれる。
交易の再開を拒まれ続けたアルタン・ハンが長城を越え、北京の城下まで迫って周辺を略奪した。明は城門を閉ざして耐えるほかなかった。武力では追い払えず、交易も認めないという行き詰まりが、二十年後の和議まで続く。
海禁のもとで密貿易に走った勢力が武装して沿海を荒らし、被害は江南の内陸にまで及んだ。戚継光は義烏の農民や鉱夫を集めて鍛え、鴛鴦陣という小隊戦術で各地に勝った。北のモンゴルと南の倭寇、いわゆる北虜南倭が同時に明を締めつけた時期である。
道教の不老長生に耽り朝議に出ない嘉靖帝に対し、海瑞は「天下の人が陛下を正しくないとみなして久しい」と正面から書いた上疏を奉った。処刑を覚悟して先に棺を買っていたという。投獄されたが、翌々年の皇帝の死で救われた。
福建の月港に限って民間の海外交易が許され、二百年近く続いた海禁が実質的に緩んだ。倭寇はこれを境に急速に沈静化する。同時にスペインがマニラ経由で運ぶアメリカ大陸の銀が大量に流入し、中国の経済は銀を基準に回り始めた。
明がついに折れ、アルタン・ハンを順義王に封じて国境に馬市を開いた。二百年続いた北の侵攻はこれでほぼ止む。武力で解けなかった問題が交易で解けたという事実は、海禁の緩和と並んで明後期の転換点である。
10歳の皇帝が立ち、内閣首輔の張居正が後見として国政を握った。官僚の実績を数値で査定する考成法を敷き、滞っていた税を取り立て、全国の土地を測り直す。傾きかけた財政はわずか数年で立て直された。
複雑に分かれていた税と徭役を土地に一本化し、銀で納めさせる制度を全国に及ぼした。現物と労役から貨幣へという転換であり、海外から流入する銀がこれを支えた。国庫には十年分の蓄えが積まれたと伝わる。
張居正が没すると、抑えつけられていた官僚の反発が噴き出し、翌年には官爵を剥奪され家財を没収された。長年後見に従わされた万暦帝自身がこれを主導している。改革の多くも巻き戻され、以後の財政は再び傾いていく。
イエズス会の宣教師マテオ・リッチが中国に入った。僧衣を捨てて士大夫の装いをまとい、中国語と儒学を修めて知識人と交わる方針を取る。布教のために科学を携えるという形が、後の中国とヨーロッパの知の接点になった。
明の征服を掲げた豊臣秀吉が十五万余の軍を朝鮮へ送り、漢城・平壌が相次いで落ちた。宗主国として明は大軍を派遣する。海では李舜臣が日本の輸送路を断ち続け、陸の日本軍は補給に苦しんだ。
玄奘の取経の旅を、孫悟空を主役に据えた長編として仕立てた物語が世徳堂から刊行された。明代には『三国志演義』『水滸伝』『金瓶梅』も広まり、士大夫の詩文とは別に、話し言葉で書かれた読み物が印刷を通じて庶民にまで届くようになる。
李如松が率いる明軍が大砲を集中させて平壌を攻め落とした。日本軍は南へ後退する。しかし直後の碧蹄館で明軍は反撃を受けて痛手を負い、戦線は膠着して長い講和交渉に入った。
李時珍が二十七年をかけて編んだ薬物の百科が、その死の三年後に世に出た。千九百種近い薬物を鉱物・植物・動物へ体系的に分類し、従来の本草書の誤りを実地の観察で正している。後に日本にもたらされ、江戸の本草学の土台になった。
秀吉の死により撤退に移った日本軍を、朝鮮と明の連合水軍が露梁の海峡で迎え撃った。激戦のなかで李舜臣は流れ弾に当たり、自らの死を伏せさせて指揮を続けさせたと伝わる。七年に及んだ戦役はここで終わった。
寧夏の反乱、朝鮮での日本との戦い、播州の土司の乱という三つの大戦役が十年足らずのうちに重なった。いずれも勝ったが、張居正が積み上げた蓄えは使い果たされる。以後の明は、戦費を賄うための増税が民の反乱を招くという悪循環に入った。
自鳴鐘とクラヴィコードを献じて宮廷への出入りを許され、リッチは北京に居を定めた。世界地図『坤輿万国全図』は中国を中央に置いて描かれ、中国が世界の一部であることを図として突きつけた最初の書物になった。
孔子の判断を絶対視せず、人が利を求めることを偽らずに認めよと説いた李贄が、風俗を乱すとして投獄され、獄中で自ら首を切った。著作は繰り返し禁書とされながら読み継がれる。思想の統制が強まっていく時代の象徴的な事件である。
官を退いた顧憲成らが郷里の書院を再興し、学問の講義とともに政治を論じた。集まった士大夫は東林党と呼ばれ、宦官と結ぶ勢力との激しい対立に入る。何が正しいかの議論が人事の争いに化し、政務そのものが止まっていった。
徐光啓とリッチがユークリッド『原論』の前半六巻を漢訳した。「幾何」「点」「線」「直角」「平行線」といった訳語はここで作られ、今も日本と中国で使われている。証明を積み上げるという方法そのものが、初めて漢語で示された。
明の遼東で交易に従いながら女真の諸部を束ねたヌルハチが、金の後継を称して国を建てた。八旗という軍事と行政を兼ねる組織を作り上げ、二年後には明への「七大恨」を掲げて挙兵する。明を滅ぼす力がここで形になった。
明は朝鮮の兵も加えた十万余を四路に分けて後金を討とうとしたが、ヌルハチは「爾ら幾路より来たるとも、我はただ一路を以て往く」と兵を集中させ、各個に撃破した。明は遼東の主力を失い、以後は守勢一方となる。
後金が遼東の二大拠点を落とし、明は遼河以東を失った。多くの漢人が後金の支配下に入り、その官僚や技術者が後金の国家づくりを助けることになる。戦線は山海関の手前まで後退した。
天啓帝の乳母と結んだ宦官魏忠賢が実権を握り、東林党の官僚を次々に投獄して拷問で殺した。各地には彼を祀る生祠が建てられ「九千歳」と称される。外は後金に押され、内は党争で人材を失うという最悪の重なりだった。
袁崇煥は寧遠城に籠もり、ポルトガル伝来の紅夷砲を据えて後金軍を撃退した。明が後金に対して得た初めての勝利である。ヌルハチはこの戦いの後に体調を崩し、数か月後に世を去った。
即位した崇禎帝はただちに魏忠賢を退け、流刑の途中で自死に追い込んだ。宦官の専横は終わったが、失われた官僚は戻らず、党争は形を変えて続く。皇帝は自ら政務に励んだものの、疑い深さから将帥を次々に処断していった。
打ち続く旱魃に増税が重なり、陝西で飢えた農民が蜂起した。財政難から駅站が廃止され職を失った駅卒の李自成も、この流れに加わる。以後十六年、流賊と呼ばれた集団は中国の内陸を転戦しながら膨れ上がっていった。
ホンタイジは山海関を避けてモンゴルを迂回し、長城を越えて北京の城下に現れた。援軍に駆けつけた袁崇煥は、後金の流した離間の言と朝廷の疑心により内通を疑われる。翌年、凌遅刑に処された。
後金を唯一押し返せた将が、疑いだけを理由に極刑に処された。都の人々は裏切り者と信じてその肉を争って買ったと伝わる。以後、遼東の防衛線を立て直せる人物は現れず、明は北と内側の両方に同時に対処できなくなった。
後金は国号を大清と改め、ホンタイジが皇帝を称した。モンゴル諸部を服属させ、翌年には朝鮮を降して明との関係を断たせる。女真の一部族から、明に代わりうる帝国へと形を変えた瞬間である。
宋応星が農業と手工業の技術を図入りでまとめた。製糖・製紙・造船・冶金・火薬まで、実際の作業を観察して記した百科である。中国では長く忘れられていたが、江戸期の日本で広く読まれ、後に逆輸入された。
李自成が洛陽を陥とし、莫大な財を蓄えながら飢民を救わなかった福王を処刑した。奪った蔵を開いて糧を配ったことで、流賊は各地の飢えた人々に迎えられる集団に変わる。「田を均しくし糧を免ず」の掲げ方が力を持ち始めた。
長い包囲の末に黄河の堤が切られ、開封は水没した。城内の数十万が死んだと伝わる。堤を切ったのが官軍か李自成の側かは今も定まっていない。中原の要衝が失われ、明の内陸の防衛線は崩れた。
西安で順を建てた李自成の軍が北京に迫り、城門は内から開かれた。崇禎帝は皇后と娘に自害を命じた後、景山の樹で自ら首を吊った。二百七十六年続いた明はここで滅びる。
明最後の精鋭を率いて山海関を守っていた呉三桂が、李自成に降るか清に就くかを迫られた末、清に降って関門を開いた。ドルゴンの軍は李自成を破って北京に入り、そのまま都と定める。明清交替はこの一日で決した。
北京が落ちた後、江南では福王が南京で即位して南明が立ち、四川では張献忠が大西を建てた。中国は清・順・大西・南明に割れる。南明は内紛を繰り返しながら、雲南で最後の皇帝が捕らえられる1662年まで抵抗を続けた。