テムジン、部族長に推戴される
政治・外交困窮の中から支持者を集めていたテムジンが、キヤト氏の族長として推戴された。まだモンゴル高原の一勢力に過ぎなかったが、以後十数年にわたる他部族との抗争を勝ち抜き、大統一への道を歩み始める出発点となった。
困窮の中から支持者を集めていたテムジンが、キヤト氏の族長として推戴された。まだモンゴル高原の一勢力に過ぎなかったが、以後十数年にわたる他部族との抗争を勝ち抜き、大統一への道を歩み始める出発点となった。
テムジンがモンゴル高原の諸部族を統一し、クリルタイ(部族長会議)で「チンギス・カン」の称号を受けて即位した。長年の部族抗争に終止符が打たれ、ユーラシア史上最大級の帝国へと発展する国家の礎が築かれた。
モンゴルによる対外遠征の最初の主要な標的として西夏(タングート族の王朝)への侵攻が始まった。西夏は服属を余儀なくされ、以後モンゴルの対金戦争に兵を供出させられることになる。
モンゴルが北中国を支配する女真族の金朝への大規模な侵攻を開始した。長城を突破して華北平原に進出し、以後20年以上に及ぶ金朝との攻防が始まった。
金朝の都・中都がモンゴル軍の攻撃により陥落した。金の皇帝は既に南京(開封)へ遷都しており致命傷とはならなかったが、華北の要衝を失った金の勢力は大きく後退した。
服属要請への従軍を拒んだ西夏への再征圧中、チンギス・カンが陣中で没した。死の直前に降伏していた西夏の皇帝李睍は、この死を秘匿したまま処刑され、190年余り続いた西夏は滅亡した。チンギス自身の死因は落馬による負傷、あるいは病とも伝えられるが確定していない。
チンギス・カンの遺志に基づき、クリルタイでオゴデイが第2代大ハーンに選出された。以後、金朝征服の完遂と帝国の統治機構整備を主導する。
征服した華北の農地を遊牧地に転換すべきだとする将軍たちの意見に対し、耶律楚材は農耕地からの徴税の方がはるかに大きな利益を国庫にもたらすと説き、オゴデイを説得した。この進言により中国式の税制・行政機構が採用され、モンゴルによる中国統治の基礎が築かれた。
モンゴルと南宋の挟撃を受け続けた金朝が、最後の拠点・蔡州の陥落とともに滅亡した。皇帝哀宗は皇位を譲った直後に自害した。約120年続いた女真族の王朝はここに終わりを迎え、モンゴルは華北全域を手中に収めた。
ジェベ率いる軍が、契丹の残党が中央アジアに築いた西遼(カラ・キタイ)を征服した。これによりモンゴルの領土は初めて中央アジアの大国ホラズム・シャー朝と国境を接することになった。
モンゴルが派遣した通商使節団・隊商が、ホラズム・シャー朝の国境都市オトラルの総督により間者の疑いをかけられ処刑・略奪された。チンギス・カンは謝罪と犯人の引き渡しを要求したが拒否され、大規模な報復遠征が決定づけられた。
オトラル事件への報復として、チンギス・カン自らが大軍を率いてホラズム・シャー朝への遠征を開始した。当時中央アジア最大の強国と見られていたホラズムは、この後わずか数年で徹底的に破壊されることになる。
中央アジアの学術・商業の中心都市ブハラとサマルカンドが相次いで陥落した。ムハンマド2世は各都市に守備隊を分散配置する戦略を取っていたため各個撃破され、ホラズムの防衛体制は急速に崩壊した。
都市を次々に失ったムハンマド2世は西方へ逃亡を続け、最終的にカスピ海の孤島に身を隠したが、失意のうちに病没した。広大な版図を誇ったホラズム・シャー朝は事実上崩壊し、抵抗は息子ジャラールッディーンに引き継がれた。
父の死後もホラズムの再興を目指すジャラールッディーンが各地でモンゴル軍を撃退し抵抗を続けたが、最終的にチンギス・カン自らが率いる追撃軍にインダス河畔で追い詰められた。ジャラールッディーンは河に馬もろとも飛び込み対岸へ泳ぎ渡って辛くも脱出した。
ホラズム追撃の帰路、ジェベとスブタイの偵察軍がカフカス山脈を越えてルーシ(ロシア)諸公とクマン人の連合軍と激突し、これを撃破した。ヨーロッパにモンゴルの脅威が初めて直接伝わった戦いであり、十数年後の本格的な西方遠征を予告するものとなった。
クリルタイの決定に基づき、バトゥを総大将、スブタイを実質的な作戦指揮官とする大規模な西方遠征軍が編成され、ヴォルガ・ブルガールへの侵攻を皮切りに遠征が始まった。
ルーシ最有力のウラジーミル大公国が、大公ユーリー2世自らの出陣にもかかわらずモンゴル軍に壊滅させられた。ユーリー2世も戦死し、ルーシ北東部の組織的抵抗はここに事実上崩壊した。
ルーシ諸公国の中心都市キエフが陥落し徹底的に破壊された。モンゴル軍はさらに西のポーランド・ハンガリー方面へと進撃していく。
シロンスク公ヘンリク2世率いるポーランド・ドイツ騎士団の連合軍が、モンゴル別働隊に大敗した。ヘンリク2世自身も戦死し、ポーランド方面からの組織的抵抗はここに崩壊した。
レグニツァの戦いとほぼ同時期、バトゥ・スブタイ率いる本隊がハンガリー国王ベーラ4世の軍を壊滅させた。ベーラ4世は辛くも逃亡したが、ハンガリー全土がモンゴルの脅威にさらされることになった。
遠征軍がハンガリーを席巻していた最中、大ハーン・オゴデイの急死の報が届いた。後継者選出のクリルタイに出席するため、バトゥは全軍を率いてヨーロッパから撤退した。この偶然が西ヨーロッパ本土への侵攻を回避させたとする見方は根強い。バトゥはその後この地には戻らず、獲得した領域を基盤にジョチ・ウルスを確立する道を選んだ。
モンケの命により、弟フレグが西アジア方面への大規模な遠征に出発した。イスマーイール派(暗殺教団)やアッバース朝カリフ国の制圧が目標に据えられ、以後のイルハン国建国につながる遠征となる。
暗殺教団として恐れられたニザール派イスマーイール派の難攻不落の本拠地アラムート城が陥落した。150年以上にわたり中東各地の要人暗殺で影響力を誇ったこの教団は、この敗北により事実上壊滅した。
フレグ率いる軍がイスラム世界の中心都市バグダードを攻略し、500年余り続いたアッバース朝を滅ぼした。都市は徹底的に破壊・略奪され、カリフ、アル=ムスタアスィムも処刑された。この陥落はイスラム世界に計り知れない衝撃を与えた。
フレグの庇護のもと、学者ナスィールッディーン・トゥースィーがマラーゲに大規模な天文台を建設した。イスラム世界各地から学者が集められ、精密な天体観測と理論研究が行われた。この施設の観測データと天文学理論は、東西の学術交流を通じて後の元朝の暦法研究にも影響を及ぼしたとされる。
モンケの死を受けフレグが主力を東方へ引き上げた後、シリアに残されたキト・ブカ率いる小規模な守備隊が、バイバルス率いるマムルーク朝軍と激突し敗死した。モンゴル軍が野戦で決定的な敗北を喫した稀な事例であり、モンゴルの西方拡大が事実上ここで止まる転換点となった。
モンゴルが朝鮮半島の高麗への侵攻を開始した。高麗の武人政権は都を江華島に移して長期抵抗を選択し、以後30年近くにわたり断続的な侵攻と抵抗が繰り返されることになる。
オゴデイの死から5年近い空位期間(母后トレゲネの摂政)を経て、グユクが第3代大ハーンに即位した。この即位式にはローマ教皇の使節プラノ・カルピニも立ち会い、モンゴル宮廷の様子を詳細にヨーロッパへ報告した。
従弟バトゥとの不和が深まる中、グユクは討伐のためとも療養のためとも伝えられる西方への移動中に急死した。在位はわずか2年で、後継者選定はふたたび混乱に陥った。
母ソルガクタニ・ベキの周到な根回しと有力者バトゥの支持を得て、トルイ家のモンケが第4代大ハーンに即位した。これによりオゴデイ家から大ハーン位がトルイ家へ移り、以後の反対派粛清を経て中央集権が強化された。この体制のもと、弟フレグの西アジア遠征と弟クビライの南宋方面遠征が同時に始動する。
息子モンケの大ハーン即位を見届けたのち、ソルガクタニ・ベキが死去した。生前から諸宗教への寛容と卓越した政治手腕で高く評価されており、4人の息子がそれぞれ大ハーンやハン国の始祖となったことで、以後のモンゴル帝国の枠組みを決定づけた人物として記憶されている。
クビライ率いる軍が、南宋を南西から包囲する戦略の一環として雲南の大理国を征服した。降伏した大理王家は滅ぼされず、地方統治者として再任用され、以後モンゴルは雲南を南宋・大越(ベトナム)方面への足がかりとして活用することになる。
モンケが自ら主力を率いて四川方面から、弟クビライが別働隊を率いて南宋への大規模な攻略戦を開始した。中国全土の統一を目指すこの遠征は、しかし翌年のモンケの急死により一時中断を余儀なくされる。
雲南方面のモンゴル軍が南宋包囲の一環として大越(陳朝)へ侵攻し、都タンロン(現ハノイ)を一時占領した。しかし気候・疫病に苦しみ長期占領を維持できず撤退し、陳朝は服属を条件に和睦した。
南宋の要害・釣魚城を包囲していた陣中で、大ハーン・モンケが赤痢とも流れ矢とも伝えられる原因で死去した。この急死により南宋遠征は中断され、フレグも西アジアでの作戦継続を断念して主力を東へ返すなど、帝国全体に波及する後継者争いが始まった。
30年近い抵抗の末、高麗は太子(後の元宗)をモンゴルに派遣し服属を申し出た。以後、高麗は元の駙馬国(王族が元の皇女を妃に迎える特別な同盟国)という地位に置かれ、艦船・兵員の提供という形で日本遠征(元寇)にも動員されることになる。
クビライが中国古典『易経』にちなみ国号を「大元」と定め、遊牧国家から中国王朝としての体裁を整えた統治体制へと大きく舵を切った。首都も大都(現北京)に移され、中国全土の統一支配を見据えた体制づくりが本格化した。
ヴェネツィア商人の子マルコ・ポーロが、父・叔父とともに陸路の大旅行の末にクビライの夏の宮廷・上都に到着した。クビライに気に入られたマルコはその後、元朝の官吏として各地を巡る任務を与えられ、17年にわたり中国に滞在することになる。
元軍が南宋の都・臨安に迫る中、摂政の謝太后がこれ以上の抗戦は無益と判断し降伏を決断した。バヤン率いる元軍により臨安は無血開城され、都市の破壊は免れた。南宋の抵抗は南方へ落ち延びた皇族と忠臣によってなお3年続くことになる。
私財を投じて義勇軍を率い抗戦を続けていた文天祥が、元軍に捕らえられた。以後、大都に送られ数年にわたり幽閉されるが、クビライ自らの説得にも一切応じず、元への出仕を最後まで拒み続けた。
南方へ落ち延びた南宋の残存勢力が崖山沖で元の水軍と最後の決戦に及び大敗した。宰相陸秀夫が幼帝を背負って入水自殺し、提督張世傑も脱出の途上で暴風雨に遭い落命した。これにより南宋は完全に滅亡し、クビライは中国全土を統一した最初の異民族王朝の皇帝となった。
モンケの死を受け、南宋遠征中だったクビライが独自にクリルタイを開いて大ハーンへの即位を宣言した。しかしこれは伝統的な本拠地カラコルムでの正式な手続きを経ないものであり、末弟アリク・ブケとの間で正統性をめぐる内乱の火種となった。
モンゴル高原の伝統的な本拠地カラコルムを押さえるアリク・ブケも、保守派諸侯の支持を受けて大ハーンを称した。二人の大ハーンが並び立つ異常事態となり、モンゴル帝国史上初めて大ハーン位そのものをめぐる本格的な内戦(トルイ家内の兄弟戦争)が始まった。
補給線を断たれ支持基盤を失ったアリク・ブケがクビライに降伏し、内乱は終結した。しかしこの内乱を機に、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)、チャガタイ・ハン国、イルハン国は大ハーンの権威からほぼ独立した存在となり、モンゴル帝国は事実上四つのハン国に分裂した状態が固定化した。以後、四ハン国は互いに戦火を交えることも珍しくなくなる。
オゴデイの孫カイドゥが、大ハーン位がトルイ家に移ったことへの不満から、チャガタイ・ハン国と結んで中央アジアで自立し、クビライの元朝への反乱を開始した。この反乱は以後30年以上にわたり断続的に続き、クビライはついにカイドゥを完全に制圧できなかった。
クビライに登用されたアフマド・ファナーカティーが、塩の専売や商業税、オルトク商人を活用した国家貿易など、元朝の財政政策を一手に担うようになった。ユーラシア規模の交易網と国家財政を結びつけるこの体制は、元朝の経済力を大きく支える一方、強引な徴税は漢人官僚層の強い反発も招いた。
クビライが日本に服属を求める使者を繰り返し送るも執権・北条時宗はこれを拒絶したため、高麗の軍勢も動員した遠征軍を派遣して九州北部に上陸させた。日本の武士団は苦戦したが、暴風雨(後に「神風」と呼ばれる)により元軍の艦船が大きな被害を受け撤退した。
クビライに登用された天文学者・郭守敬が、精密な天体観測に基づく暦法「授時暦」を完成させた。イスラム天文学の知見も取り入れたその精度は当時世界最高水準にあり、東西の学術交流が結実した成果の一つとして知られる。
南宋征服後、クビライは旧南宋の水軍も動員した過去最大規模の遠征軍を再び日本へ派遣した。日本側は博多湾岸に石造りの防塁を築いて上陸を阻んでおり、長期のにらみ合いの末に再び暴風雨が艦隊を襲い壊滅的な被害を受けて撤退した。
強引な財政政策で漢人官僚層の激しい反感を買っていたアフマドが、反対派によって暗殺された。死後に不正蓄財の実態が明らかになりクビライを激怒させたと伝えられ、辣腕の財政官僚としての実績と個人としての清廉さが必ずしも一致しなかったことを示す事件となった。
数年におよぶ幽閉の末、文天祥はついに処刑された。獄中で著した詩「正気の歌」は、主君への忠節を貫き通す生き方の象徴として後世の中国・東アジアで長く読み継がれ、彼自身も儒教的忠義の模範として顕彰されることになる。
クビライが南宋征服後の余勢を駆って大越(陳朝)へ再び大軍を送り込んだ。陳興道率いる陳朝軍はゲリラ戦と焦土戦術で応戦し、都タンロンを一時放棄しながらも元軍を消耗させ、最終的に撃退することに成功した。
チンギス・カンの弟の血を引く東方三王家の一人ナヤンが、クビライの中央集権化政策に反発して満洲で反乱を起こした。高齢のクビライは自ら軍を率いて出陣しこれを鎮圧したが、モンゴル王族内部の遠心力が依然として強く残っていることを示す事件となった。
大都近郊出身のネストリウス派修道士ラッバン・バール・サウマが、イルハン国の外交使節としてヨーロッパへ派遣された。ローマ教皇やフランス・イングランド国王と謁見し、対イスラム同盟を模索した。マルコ・ポーロとは正反対の方向に旅した「逆マルコ・ポーロ」として、東西交流史上まれに見る記録を残した。
三度目の侵攻を試みた元の水軍を、陳興道は川底に杭を打ち込み満潮時に誘い込んで座礁させる戦術で壊滅させた。この決定的勝利により元は大越への恒久占領を完全に断念し、モンゴルが陸海双方で明確な敗北を喫した数少ない事例となった。
元朝を築き、モンゴル帝国と中国王朝の両方の頂点に立ったクビライが79歳で没した。晩年は日本・ベトナムへの遠征失敗や財政悪化に悩まされたが、彼の築いた東西交流の枠組みは、マルコ・ポーロやラッバン・バール・サウマの記録などを通じて後世に大きな影響を残した。
クビライの死後、元朝では短期在位の皇帝が相次ぎ、わずか数十年で9人もの皇帝が交代する深刻な政情不安に陥った。中央政界の混乱は地方統治の弛緩を招き、財政悪化・自然災害と相まって、やがて各地の反乱を誘発する土壌を作ることになる。
重税と天災に苦しむ農民・白蓮教徒を中心とする大規模な反乱「紅巾の乱」が各地で勃発した。元朝の統治機構は急速に弛緩し、群雄割拠の様相を呈する中から、後に明を建国する朱元璋(洪武帝)が頭角を現していく。
紅巾の乱から台頭した朱元璋が南京で明を建国し、その軍が大都に迫ると、元の宮廷は北方の草原地帯へ撤退した(北元)。162年前にチンギス・カンの統一から始まった大帝国は、中国支配という点ではここに幕を閉じた。一方、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)はこの後もルーシを支配し続け、その歴史は独立した物語として別に語られることになる。