フビライの国書、日本に到来
政変元の皇帝フビライが日本に服属を求める国書を送りつけてきた。「兵を用いるに至るは、それ孰か好む所ぞ」という穏やかな文言の裏に軍事的圧力をにじませていたが、時宗を中心とする幕府はこれを黙殺・拒絶した。
元の皇帝フビライが日本に服属を求める国書を送りつけてきた。「兵を用いるに至るは、それ孰か好む所ぞ」という穏やかな文言の裏に軍事的圧力をにじませていたが、時宗を中心とする幕府はこれを黙殺・拒絶した。
国書到来と同じ年、18歳の時宗が八代執権に就任した。対外的な国難が迫る中、若き指導者として舵取りを担うことになる。
時宗は異母兄で六波羅探題南方を務めていた時輔に謀反の疑いをかけ、京の六波羅邸を襲撃させて誅殺した。同時に鎌倉でも名越氏など反対派が粛清され、来るべき国難を前に得宗への権力集中が一気に進んだ。
元・高麗の連合軍約3万が対馬・壱岐に上陸し、抵抗する島の武士や住民を殺戮した。この報は瞬く間に九州本土へ伝わり、緊張が一気に高まった。
元軍は博多湾に上陸し、集団戦法と炸裂する火薬兵器「てつはう」を用いて一騎討ちに慣れた日本の武士団を苦しめた。しかし元軍も損害を重ねて撤退を決め、その夜を襲った暴風雨により多くの船が失われた。
再侵攻を確信した幕府は、九州の御家人に沿岸警備を恒常的に課す「異国警固番役」を新設した。西国支配における幕府の権限が大きく強化される契機ともなった。
なおも服属を求めるフビライの使節・杜世忠一行が鎌倉に到着するが、時宗は交渉に応じず一行を斬首に処した。徹底抗戦の意志を内外に示す決断であった。
再侵攻に備え、幕府は九州の御家人を動員して博多湾岸およそ20キロにわたる石造りの防塁を築かせた。この防塁が後の弘安の役で元軍の上陸を大きく阻むことになる。
旧南宋の水軍も動員した総勢14万ともいわれる過去最大規模の遠征軍が再来襲した。博多湾岸の防塁に阻まれ上陸できず、長期のにらみ合いの末、暴風雨が艦隊を襲い甚大な被害を与えた。范文虎ら指揮官はいち早く撤退し、取り残された将兵の多くが討たれるか捕虜となった。
元寇は防衛戦であったため新たな領地を得られず、多大な犠牲を払った肥後の御家人・竹崎季長は恩賞に窮した。季長は自ら鎌倉へ赴き恩賞奉行・安達泰盛に直訴、これを認めさせた顛末を絵巻物『蒙古襲来絵詞』に描き残した。
防衛戦で新たな領地が得られなかったため、多大な犠牲を払った御家人たちへの恩賞は乏しいものにとどまった。これは幕府と御家人の信頼関係に修復困難な亀裂を生み、後の御家人窮乏化の遠因となった。
二度の国難を退けた時宗が34歳の若さで没した。過度の激務と緊張が寿命を縮めたとされる。強力な指導者を失った幕府は、以後内部対立の時代に入っていく。
時宗の子・貞時がわずか14歳で執権となった。若年の貞時のもとで、外戚の安達泰盛と内管領・平頼綱という二大実力者の対立が急速に先鋭化していく。
泰盛は困窮する御家人の救済と幕政改革を目指す「弘安徳政」を推し進めた。しかしこれは既得権を脅かされる御内人層の強い反発を招き、両者の対立は抜き差しならないものとなっていく。
頼綱は泰盛が謀反を企てていると貞時に讒言し、鎌倉中で泰盛一族と同心する御家人数百名を急襲・殺害した。有力御家人層に壊滅的な打撃を与えたこの事件により、以後の幕政は内管領・平頼綱が主導することとなった。
霜月騒動の余波は九州にも及んだ。元寇防衛の英雄であった少弐景資は泰盛派と見なされ、兄・少弐経資に攻められて岩門で討死した。
泰盛派を一掃した頼綱は内管領として幕政を壟断し、得宗すら及ばぬほどの専横を極めた。実子を将軍の側近に据えるなど、御内人による権力の私物化が頂点に達した。
頼綱の専横に危機感を強めた貞時は、自ら軍勢を率いて頼綱の邸を急襲し、頼綱とその子を誅殺した。粛清した者が今度は粛清される、この時代の陰謀劇の連鎖を象徴する事件となった。
困窮する御家人の救済を目的に、御家人が売却・質入れした土地を無償で取り戻せる徳政令を発布した。しかし土地取引そのものが混乱し、かえって御家人への金融が滞るなど、意図とは逆の結果を招いた。
荘園制の枠外で武力・経済力を蓄える新興武士団「悪党」が畿内周辺で跋扈し始めた。既存の御家人体制では対応しきれないこの新たな勢力が、後に鎌倉幕府打倒の重要な戦力となっていく。
若年の高時が執権となったが、政務の実権は内管領・長崎氏がほぼ完全に掌握する「御内人専制」がさらに深化した。
高時は政務を顧みず田楽や闘犬に興じたと『太平記』は伝える。史実性には議論があるものの、得宗権威の形骸化を象徴する逸話として広く語られてきた。
後醍醐天皇による討幕計画が事前に発覚した。首謀者とされた日野資朝は佐渡へ配流されたが、天皇自身の関与は不問に付され、後醍醐は倒幕の意志を捨てなかった。
後醍醐天皇による二度目の討幕計画が発覚した。天皇は三種の神器を持って京を脱出し笠置山に立てこもり、諸国の武士に挙兵を呼びかけた。
後醍醐の皇子・護良親王が諸国の武士に討幕の令旨を発し、反幕府勢力の結集を促した。この呼びかけが楠木正成をはじめとする各地の武士の挙兵につながっていく。
後醍醐の呼びかけに応じ、河内の悪党・楠木正成が赤坂城で挙兵した。寡兵ながら、油を注いだ大木や熱湯を落とすなどの奇策を駆使して幕府の大軍を翻弄し、後に落城するもののその名を一躍高めた。
幕府の大軍に攻められ笠置山は陥落し、後醍醐天皇は捕らえられた。側近の日野俊基は鎌倉へ送られて処刑された。
捕らえられた後醍醐天皇は隠岐へ配流された。しかし天皇不在の中でも諸国の反幕府勢力の挙兵は収まらず、事態はむしろ拡大していく。
正成は険阻な山城・千早城に籠城し、わずかな兵力で幕府の大軍を数ヶ月にわたり翻弄し続けた。攻めあぐねる幕府軍の様子は諸国に伝わり、各地の反幕府勢力を大いに勢いづかせる契機となった。
後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆の豪族・名和長年に迎えられて船上山で挙兵した。天皇自らの再起は、倒幕運動に決定的な求心力を与えた。
幕府軍として上洛していた足利高氏が、篠村八幡宮で突如反旗を翻し討幕の兵を挙げた。源氏の名門である足利氏の離反は、幕府方に大きな衝撃を与えた。
播磨の悪党・赤松則村も護良親王の令旨に応じて挙兵し、京都への進撃路を確保して六波羅探題攻略を側面から支えた。
足利高氏の攻撃を受け六波羅探題は陥落した。北方探題・仲時と南方探題・時益は光厳天皇らを奉じて東国への脱出を図るが、時益は道中で討たれ、仲時も近江で行く手を阻まれ一族郎党430余名と共に自刃した。
上野の御家人・新田義貞が生品明神で挙兵し、鎌倉を目指して南下を開始した。足利と並ぶ源氏の名門である新田氏の決起は、幕府方の御家人にも大きな動揺を与えた。
鎌倉の切通しは天然の要害で攻めあぐねた義貞は、稲村ヶ崎の海岸からの突破を図った。義貞が黄金の太刀を海に投じて龍神に祈ると潮が引き、浜辺が広がって騎馬での突入を許したという伝説が『太平記』に描かれている。
鎌倉市中になだれ込んだ新田軍を前に、最後の執権・守時は防戦の末に討死した。高時ら北条一門と長崎氏ら御内人は菩提寺の東勝寺に立てこもり、870余名と共に自害した。頼朝以来150年近く続いた鎌倉幕府はここに滅亡した。
幕府滅亡の報を受け、少弐貞経ら九州の反北条勢力が九州における幕府の拠点・鎮西探題を攻めた。探題・北条英時は自刃し、全国に散らばっていた幕府の出先機関が相次いで崩壊していった。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は京へ戻り、武家政権を否定して天皇親政による新たな政治「建武の新政」を開始した。しかし倒幕に功のあった武士たちへの恩賞をめぐる不満はすぐに表面化し、新たな争乱の火種が生まれていくことになる。