明徳の和約 — 南北朝の合一
政治・外交義満の仲介により、南朝の後亀山天皇が京へ戻って三種の神器を後小松天皇に渡した。以後は両統が交代で皇位に就くという条件だったが、この約束が守られることはなかった。五十七年続いた朝廷の分裂はここで終わり、義満は名実ともに唯一の武家の頂点となる。
義満の仲介により、南朝の後亀山天皇が京へ戻って三種の神器を後小松天皇に渡した。以後は両統が交代で皇位に就くという条件だったが、この約束が守られることはなかった。五十七年続いた朝廷の分裂はここで終わり、義満は名実ともに唯一の武家の頂点となる。
義満は9歳の義持に将軍職を譲り、自らは武家として初めて太政大臣に就いた。将軍の座を離れながら実権は手放さず、公家社会の頂点にも立つという形で、武家と公家の両方を一人で束ねる立場を作り上げた。
太政大臣を辞して出家し、道義と号した。官職を離れることで朝廷の序列の外に出ながら、有力守護や公家をその後も従わせ続けた。位に依らない権力という、義満独特の統治の形が完成する。
義満は西園寺家の山荘を譲り受け、北山第の造営を始めた。その中心に建てられた舎利殿が金閣である。一層を公家の寝殿造、二層を武家の書院風、三層を禅宗様の仏堂とし、三つの様式を積み上げた姿は、公家と武家と仏の頂点に立つ義満そのものだった。
六か国の守護を兼ね、朝鮮との交易で富を蓄えた大内義弘が、義満の圧迫に耐えかねて堺に挙兵した。幕府軍に包囲されて城は焼け、義弘は討死する。明徳の乱で山名氏を、この乱で大内氏を削いだことで、義満に正面から逆らえる守護はいなくなった。
父の観阿弥から受け継いだ教えを、世阿弥が書物にまとめ始めた。年齢に応じた稽古のあり方、観客の心をつかむ「花」とは何か、真似ることの意味を説く。将軍の庇護のもとで、河原の芸能だった猿楽が理論を持つ芸術へ変わっていく。
義満は僧の祖阿と博多商人の肥富を明へ派遣し、国交を求めた。倭寇の取り締まりを条件に、途絶えていた中国との公式な関係が開かれる。私貿易の利を幕府の管理下に取り込むという、財政上の狙いも大きかった。
明の建文帝から「日本国王源道義」に宛てた返書が届いた。中国の皇帝の臣下として国王に封じられる形であり、天皇を戴く国で武家が国王を名乗ったことになる。義満はこれを受け入れ、貿易の実利を選んだ。
明から与えられた勘合符を持つ船だけを正式な貿易船とする仕組みが始まった。倭寇と正規の船を区別するための割符である。銅銭・生糸・書画が輸入され、幕府は莫大な利益を得た。輸入された明銭は日本国内の貨幣経済そのものを支えることになる。
義満が51歳で急死した。朝廷は太上天皇の号を追贈しようとしたが、子の義持はこれを辞退する。父が築いた朝廷への深い食い込みを、義持は意識的に手放した。幕府の権力が頂点に達した瞬間から、下り坂が始まる。
義持は明の使者を追い返し、朝貢の形で行われる貿易を屈辱として国交を絶った。神国の主が異国の臣下となることを認めない、という理由が掲げられている。幕府は勘合貿易の利益を失い、代わりに西国の守護と商人が私貿易で富を蓄えていく。
鎌倉公方持氏と対立して関東管領を辞した上杉禅秀が挙兵し、一時は持氏を鎌倉から追った。幕府が持氏を支援したため翌年に敗れて自害する。公方を支えるはずの関東管領が公方と戦うという構図が、この後の関東の争乱の型になった。
倭寇の根拠地を絶つため、朝鮮が二百隻を超える船団で対馬を襲った。島主の宗貞盛は上陸した軍を退け、双方が兵を引く。日本側では蒙古の再来と受け取られ、九州に緊張が走った。事件の後、宗氏は朝鮮と通交の取り決めを結び、貿易の窓口としての地位を固めていく。
夜の湖上でカラスの声を聞いて悟りを得た一休に、師の華叟は悟りの証明である印可状を与えようとした。一休はこれを受け取らなかった。紙切れで悟りを保証する制度そのものへの拒絶であり、以後の生涯を通じて形骸化した禅を撃ち続ける姿勢がここに現れている。
義持が二年前に将軍職を譲った子の義量が、19歳で世を去った。義持は新たな将軍を立てずに自ら政務を続ける。将軍の座が空いたまま数年が過ぎ、後継を誰にするかという問いが先送りされた。
義持は死の床でも後継を指名せず、決定は石清水八幡宮のくじに委ねられた。引き当てられたのは、天台座主となっていた弟の義円——還俗して義教となる。神意に頼らなければ将軍を決められないところまで、幕府の合議は行き詰まっていた。
近江坂本の馬借の蜂起を機に、畿内一円の農民が徳政(借金の帳消し)を求めて立ち上がった。土倉や酒屋を襲って借用証文を焼き捨て、実力で貸借関係を消し去る。幕府は徳政令を出さなかったが、各地で私徳政が成立した。
称光天皇が世継ぎを残さずに没し、皇統は伏見宮家から迎えられた後花園天皇へ移った。後小松上皇の猶子とする形が取られ、幕府の意向が皇位継承を左右する構図がはっきりする。この血統が現在の皇室まで続いている。
正長の一揆に続いて播磨の農民が蜂起し、国から武士を追い出すことを掲げた。守護赤松満祐が兵を出して鎮圧する。徳政という経済的要求を超えて、支配そのものを拒む主張が現れた点で、後の国一揆につながる出来事だった。
沖縄島に並び立っていた北山・中山・南山を尚巴志が併せ、琉球王国が成立した。首里を都とし、明への朝貢と東南アジア・日本・朝鮮を結ぶ中継貿易で栄える。日本本土が内乱へ傾いていく同じ時期に、南の海では新しい交易国家が立ち上がっていた。
義教は兄が断った明との国交を回復し、勘合貿易を再開した。幕府の財政を立て直す狙いであり、以後の貿易は幕府だけでなく大内氏・細川氏や大寺社が船を出す形で続く。やがて貿易の主導権は幕府の手を離れ、大内氏へ移っていく。
将軍職への野心を隠さない持氏に対し、義教は追討軍を送った。諫め続けた関東管領上杉憲実も幕府側に立ち、持氏は翌年に鎌倉で自害する。関東を治めるための鎌倉府はここで滅び、代わりに上杉氏と旧鎌倉府勢力が争う長い戦乱が始まった。
持氏の遺児を擁して結城氏朝が挙兵し、幕府軍に一年近く抗した。翌年に城は落ち、捕らえられた遺児のうち二人は護送の途中で殺された。関東の武士たちが幕府ではなく鎌倉府の血統に従っていることが、はっきり示された戦いだった。
所領を削られることを恐れた赤松満祐が、結城合戦の祝勝を口実に義教を自邸へ招き、その場で討ち取った。満祐は播磨へ引き上げ、幕府軍の追討を受けて自害する。将軍が家臣に殺されて誰も即座に動けなかったこと自体が、幕府の力の限界を露わにした。
将軍暗殺による動揺のさなか、数万の土一揆が京都を包囲し、代替わりの徳政を要求した。幕府はついに徳政令を発布する。以後、幕府は徳政を求める一揆と、手数料(分一銭)を取って徳政を認めるという駆け引きを繰り返すようになった。
父の死を受けて9歳で将軍となった義勝が、在職八か月で急死した。将軍が幼いあいだ政務は管領と側近が担い、有力守護の家督争いに幕府が引きずり込まれる余地が広がっていく。
義勝の弟が14歳で将軍宣下を受けた。養育にあたった政所執事の伊勢貞親ら側近が政務に深く関わり、管領や有力守護との間で主導権を巡る綱引きが続く。この二重構造が、家督争いに幕府が介入するたびに火種を大きくした。
鎌倉公方に返り咲いた足利成氏が、父を追い詰めた上杉氏を憎み、関東管領上杉憲忠を御所に招いて謀殺した。関東は成氏方と上杉方に割れ、利根川を挟んで二十八年戦い続ける。応仁の乱より十三年早く、関東は戦国に入っていた。
扇谷上杉家の家宰太田道灌が、享徳の乱を戦うために江戸・河越・岩付に城を築いた。江戸城は入江に臨む水運の要地に置かれ、関東の戦局を支える拠点となる。百五十年後、この地に徳川の幕府が開かれることになる。
和人の鍛冶がアイヌの少年を殺した事件をきっかけに、首長コシャマインがアイヌを率いて蜂起し、道南の館十二のうち十を落とした。武田信広に討たれて鎮まるが、和人の進出とアイヌの抵抗という対立の構図はここから四百年続く。
長雨と旱魃、疫病が重なり、諸国から飢えた人々が京へ流れ込んだ。記録には二か月で八万を超える死者が数えられている。義政は救済より邸宅の造営と宴を続け、後花園天皇が漢詩を送って諫めたと伝わる。願阿弥という僧が六角堂に小屋を建て、粥を配って人々を救った。
子が生まれない義政は、僧になっていた弟を還俗させて後継とした。義視は「もし男子が生まれても出家させる」という約束を取り付けたうえで承知したという。細川勝元がその後見に立ち、幕府の中枢に将軍後継という新しい火種が置かれた。
義視を後継に立てた翌年、富子が男子を産んだ。約束どおりなら出家させるはずの子である。富子は我が子を将軍にするため山名宗全を頼ったと伝えられ、義視の後見である細川勝元との対立に、将軍家の家督争いが重なった。
伊勢貞親らが義視に謀反の疑いをかけて排除しようとしたが、細川勝元と山名宗全が揃って反発し、貞親は京から逃げ出した。将軍の側近が守護大名の合意なしには何も決められないことが露わになる。抑えの利かなくなった諸勢力は、翌年ついに武力で決着をつけにいった。
畠山家の家督を争う政長と義就が、上御霊の森で兵を交えた。義政は他の大名の加勢を禁じたが、山名宗全は義就を助け、細川勝元は動かずに政長を見殺しにする。私闘として始まったこの戦いに諸国の守護が次々と加わり、十一年の大乱が始まった。
細川勝元の東軍十六万、山名宗全の西軍十一万と伝わる大軍が、京の市街そのものを戦場にした。相国寺をはじめ社寺と邸宅が焼け、上京は焦土になる。将軍義政は御所にとどまり、どちらにも決着をつけさせなかった。
劣勢だった西軍のもとへ、大内政弘が二万余の軍と水軍を率いて周防から上洛した。兵力が均衡し、戦線は膠着する。以後、両軍は堀と櫓を築いて京に居座り、戦いは決着ではなく消耗の様相に変わった。
京の無頼を集めた足軽が両軍に雇われ、放火と略奪で敵の補給を断った。東軍に属した骨皮道賢は稲荷山に砦を構えたが、西軍の大軍に攻められて討たれる。身分に依らず腕一つで戦場に立つ集団の登場は、以後の合戦の形を変えていく。
比叡山に本願寺を破却された蓮如は、越前吉崎に道場を構えた。仮名書きの手紙(御文)で教えを説き、講を通じて門徒を組織すると、北陸の信徒は爆発的に増える。この結びつきがやがて、守護を倒すほどの力に育っていく。
西軍の主力として戦っていた朝倉孝景が、越前守護職を条件に東軍へ寝返った。主家である斯波氏を国から排除し、そのまま越前一国を握る。守護代が守護を追い落として国主になるという、下剋上のはっきりした先例がここに生まれた。
三月に山名宗全が、五月に細川勝元が世を去った。乱を始めた二人が揃って舞台から消えても、戦いは終わらなかった。もはや誰かの意思ではなく、京に居座った軍勢と各国で進む家督争いが、戦を自走させていた。
義政が将軍職を子の義尚に譲った。将軍後継の争いという乱の名目は消えたが、戦は続く。実権は依然として義政と富子が握り、幕府の中枢に二重三重の権力が並び立つ状態が固定した。
幕府から周防・長門などの守護職を安堵された大内政弘が軍を退き、西軍は解体した。畠山義就は河内へ下ってなお戦い続ける。勝者も敗者もないまま京の戦闘だけが止み、荒れ果てた都と、幕府の命令が届かない諸国が残された。
政務を義尚に譲った義政が、東山に山荘の造営を始めた。焼けた京の復興より自らの隠居所を優先したことは当時から批判されたが、ここで完成した書院造・枯山水・水墨画・立花・喫茶の様式は、後の日本の住まいと美意識の原型になる。
北陸から畿内へ戻った蓮如が、山科に本願寺を再建した。堀と土塁で囲まれた広大な寺内町であり、寺であると同時に城であり町でもある。門徒の経済力と組織が、戦国の一大勢力としての本願寺を形づくっていく。
応仁の乱の後も山城で戦い続ける畠山両軍に対し、国人と農民が集会を開いて両軍の国外退去を要求し、実際に退かせた。以後八年、国人たちは掟を定めて自ら国を運営する。武士でも幕府でもない者が国を治めた稀な例である。
明に渡って画法を学んだ雪舟が、大内氏の庇護のもと十六メートルに及ぶ長巻を描いた。四季の移ろいを一続きの風景として展開する構成で、中国の様式を踏まえながらそれに従わない筆致に至っている。京が焼けるあいだ、絵画の頂点は西国にあった。
宗祇と弟子の肖柏・宗長が、後鳥羽院を祀る水無瀬宮に百韻の連歌を奉納した。連歌の到達点とされる作である。宗祇は戦乱の京を離れて諸国の大名や国人を訪ね歩き、都の文化を地方へ運ぶ役割を果たした。
唐物の名品を並べて競う会所の茶に対し、村田珠光は狭い四畳半の座敷と和物の道具に美を見出した。一休のもとで学んだ禅の心を茶に結びつけたと伝わる。この考え方が武野紹鴎を経て千利休に受け継がれ、侘び茶になる。
力を増した一向宗門徒を抑えにかかった守護富樫政親が、逆に二十万と伝わる門徒に高尾城を囲まれて自害した。以後およそ百年、加賀は本願寺の門徒によって治められる。守護大名が民衆の宗教組織に滅ぼされたのは、この時代でもこれが唯一である。
幕府の権威を取り戻そうと、義尚は寺社領を横領する近江の六角高頼を自ら攻めた。二年近く陣を敷いたまま六角を捕らえられず、25歳で陣中に没する。将軍が自ら軍を率いた最後の例であり、その失敗が幕府の限界を示した。
銀閣の完成を見ないまま義政が世を去った。跡を継いだのは、かつて争った義視の子の義材である。政治の失敗と文化の達成が同じ一人の人物に重なっているという評価は、この時から現在まで変わっていない。
将軍義材が畠山政長とともに河内へ出陣した隙に、細川政元が京で義澄を新将軍に立てた。政長は自害し、義材は捕らえられた後に逃れて諸国を流浪する。家臣が将軍を選び直せることが示され、幕府の権威は名目だけのものになった。
駿河の今川家に身を寄せていた伊勢宗瑞(北条早雲)が、堀越公方家の内紛に乗じて伊豆へ討ち入り、足利茶々丸を追った。四公六民の軽い年貢を掲げて民心をつかみ、そのまま伊豆一国を領有する。幕府が任じた公方に代わって、実力で国を取る者が関東に現れた。