メディア王国の勃興・キュアクサレスによる強国化
政変イラン系遊牧民を統合したメディア王国は、キュアクサレスの代に軍制改革を進めて地域の大国へと成長した。この国力が、まもなくアッシリア打倒の原動力となる。
イラン系遊牧民を統合したメディア王国は、キュアクサレスの代に軍制改革を進めて地域の大国へと成長した。この国力が、まもなくアッシリア打倒の原動力となる。
キュアクサレスは新バビロニアのナボポラッサルと同盟し、両軍でアッシリアの都ニネヴェを陥落させた。長年オリエントを恐怖支配した新アッシリア帝国は、これによって事実上滅亡した。
長年続いたメディアとリディアの国境紛争は、戦闘の最中に起きた日食(ミレトスのタレスが予言したと伝えられる)を不吉な兆しと恐れた両軍が矛を収めたことで終結した。ハリュス川が両国の国境と定められた。
イラン南西部の小国アンシャンで、キュロス2世が王位を継承した。当初はメディアに服属する地方王に過ぎなかったが、まもなく宗主国そのものに反旗を翻すことになる。
キュロス2世は祖父にあたるメディア王アステュアゲスに反乱を起こし、これを破って王位を奪った。宗主国メディアを併合したことで、アケメネス朝ペルシアは一躍地域の大国へと躍り出た。
小アジアの富国リディアの王クロイソスは、台頭するペルシアを先制すべく開戦したが敗れ、都サルディスを包囲され陥落した。この勝利によりペルシアは小アジアのギリシア人植民市(イオニア)をも版図に組み込んだ。
アケメネス朝ペルシアのキュロス2世が迫ると、バビロンはほとんど抵抗することなく門を開いた。この征服により、3000年続いたメソポタミアの独立の歴史は幕を閉じた。
キュロス2世は被征服民の信仰・慣習を尊重する統治方針を宣言し、新バビロニアによってバビロンへ連行されていたユダヤ人にエルサレムへの帰還と神殿の再建を許可した。この方針を記した粘土製の円筒印章(キュロス・シリンダー)は、後世「最古の人権宣言」とも評される。
史上最大級の帝国を一代で築いたキュロス2世は、中央アジアの遊牧民マッサゲタイとの戦いの中で没した。伝承によれば女王トミュリスに敗れ、その首を血で満たした皮袋に沈められたと伝えられる。
キュロス2世の跡を継いだカンビュセス2世は、父の遺業であったエジプト征服の準備を進めた。
カンビュセス2世はプサムテク3世率いるエジプト軍をペルシウムで破り、都メンフィスを占領した。エジプトはペルシアの一属州(第27王朝)に組み込まれた。
捕虜となっていたプサムテク3世は、反乱を企てたとしてカンビュセス2世の命により処刑された。これにより在地エジプト王朝の血統は一時途絶えた。
カンビュセス2世のエジプト遠征中、弟バルディヤが何者かに密かに殺害された。この死は当時秘匿されており、後にこの空白を突いて彼を騙る人物が現れることになる。
バルディヤを騙る者が反乱を起こしたとの報を受け、カンビュセス2世は急ぎ帰国の途についたが、その途上で事故により負傷し、まもなく没した。空位となった王座を巡り、帝国は大きな混乱に陥る。
祭司ガウマータは既に死去していた王子バルディヤになりすまし、カンビュセス2世不在の混乱に乗じて王位を簒奪した。多くの州がこれを正統な王として受け入れたと伝えられる。
ダレイオスは他の6人の貴族と共謀してガウマータを急襲し討ち果たした。その後、七人衆による合議(「ペルシアの立憲論争」)を経てダレイオス自身が王位に就いた。
ヘロドトスが伝える逸話によれば、ガウマータ討伐後の七人衆は今後の統治体制を巡って議論を交わした。オタネスは民主制を、メガビュゾスは寡頭制を、ダレイオスは君主制を主張し、最終的にダレイオスの案が採用された。歴史的事実性には議論があるが、ギリシア人が異国の政治体制を鏡として自国の民主政を考えるための思考実験であったとも解釈される。
ダレイオス1世は即位の正統性と相次ぐ反乱の鎮圧を、断崖の岩壁に古代ペルシア語・エラム語・アッカド語の三言語で刻ませた。19世紀にこの碑文が解読されたことで、楔形文字全体の解読が大きく進展した、古代オリエント研究上最も重要な史料の一つである。
ダレイオス1世は広大な帝国を約20の州(サトラピー)に再編し、各州にサトラップ(総督)を置いて統治させた。中央からは「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官が巡回し、総督の専横を牽制する仕組みも整えられた。
ダレイオス1世は新たな儀礼上の都としてペルセポリスの建設を命じた。帝国各地から集められた職人と資材によって築かれたこの都は、諸民族が貢物を捧げる浮彫で飾られ、多民族帝国の威容を象徴する建造物となった。
ダレイオス1世は東方インダス川流域へも遠征し、この地を帝国最東端の属州とした。帝国はエーゲ海からインダスまでを版図に収める、当時の世界史上最大の領域国家となった。
スーサからサルディスまで約2700キロを結ぶ「王の道」が整備され、一定間隔で宿駅を置く駅伝制により、早馬を乗り継げば数日で情報を伝達できるようになった。この交通・通信網が広大な帝国の一体的な統治を支えた。
ダレイオス1世の名にちなむ純度の高い金貨「ダリク」が鋳造され、帝国の統一通貨として広く流通した。弓を引く王の姿を刻んだこの金貨は、地中海世界からインドに至る交易圏で信頼される基軸通貨となった。
ベヒストゥン碑文をはじめとするダレイオス1世以降の王碑文には、最高神アフラ・マズダーへの帰依が繰り返し記されている。ザラスシュトラの説いた善悪二元論の教えがいつどのように王権と結びついたかは議論が続くが、アケメネス朝の王権思想の宗教的な裏付けとして深く浸透していた。
ダレイオス1世は黒海北岸の遊牧民スキタイを討つべく大軍を率いて遠征したが、広大な草原で決戦を避け続けるスキタイの遊撃戦術に翻弄され、めぼしい戦果を挙げられぬまま撤退した。帝国の武威にも限界があることを示した数少ない失敗例である。
キュロス2世の娘であるアトッサは、ダレイオス1世の王妃として宮廷内で並外れた発言力を持った。ヘロドトスは彼女がギリシア遠征を強く後押ししたと伝えており、その真偽はともかく、当時の宮廷における王妃の政治的重みをうかがわせる逸話である。
帝国の統治機構を築き上げたダレイオス1世が没した。マラトンでの敗北の雪辱を果たせぬまま、再遠征の準備の途上での死であった。その遺志は子のクセルクセス1世に引き継がれる。
小アジアのギリシア人植民市イオニアの諸都市が、ペルシアの支配に対して反乱を起こした。アテナイが支援の艦船を送ったことが、後のダレイオス1世によるギリシア懲罰遠征の直接の口実となる。
ペルシア艦隊はイオニア連合艦隊をラデ島沖で破り、反乱の中心地ミレトスを陥落させた。6年におよんだイオニアの反乱はここに鎮圧されたが、アテナイへの報復の意志はダレイオスの中に強く残った。
ダティスとアルタフェルネスの率いる懲罰遠征軍は、エレトリアを攻略した後マラトンに上陸したが、アテナイ・プラタイア連合軍に敗れた。帝国全体から見れば西の辺境での局地的な後退に過ぎなかったが、ギリシア側では「祖国防衛の奇跡」として長く語り継がれることになる。
ダレイオス1世の跡を継いだクセルクセス1世は、即位直後にエジプトとバビロンで起きた反乱を鎮圧し、その後父の宿願であったギリシア再遠征の準備に着手した。
クセルクセス1世率いる大軍は、レオニダス率いるスパルタ軍らが守るテルモピュライの隘路を、内通者の情報を得て側面から突破した。ギリシア中央部への道が開かれた。
住民の避難したアテナイに無血入城したペルシア軍は、都市を占領しアクロポリスの神殿群を焼き払った。クセルクセスにとって、これは父の代からの宿願であった懲罰の達成を意味した。
狭いサラミス海峡に誘い込まれたペルシア艦隊は、テミストクレス率いるギリシア連合艦隊に大敗した。ペルシア側の記録は乏しいが、この敗北は帝国にとって「西方遠征の中断」を意味する痛手であり、クセルクセスは主力を率いて帰国した。
王の帰国後もギリシアに残って指揮を執っていたマルドニオスが、プラタイアの戦いで討死し、ペルシア陸軍は壊滅した。この敗戦をもって、ダレイオス1世以来続いたギリシア遠征は完全に失敗に終わった。
ギリシア遠征失敗後のクセルクセス1世は対外遠征から手を引き、父の始めたペルセポリスの造営事業に力を注いだ。諸民族の使節が貢物を捧げる行列を刻んだ壮麗な謁見殿(アパダナ)の浮彫は、帝国の多民族性と王への服属を視覚的に表現している。
晩年のクセルクセス1世は、側近の陰謀により寝室で暗殺された。この宮廷内クーデターは、以後アケメネス朝で幾度も繰り返される権力闘争の先例となった。
父クセルクセス1世の暗殺後の混乱を収め、アルタクセルクセス1世が即位した。以後40年近い治世の中で、帝国は対外拡大よりも内政の安定を重視する方向へと向かう。
ギリシアの著述家ヘロドトスが、ペルシア戦争の経緯を中心に東西世界の歴史を記した『歴史』を著した。現存するペルシア関連の物語的な記述の多くはこの書に依っており、以後2000年以上にわたるヨーロッパ側からのペルシア観の原型となった。
半世紀近く続いたペルシアとギリシア諸ポリスの断続的な抗争は、アテナイとの間で結ばれたとされる和約により事実上終結した。この和約の実在性には史料上の議論もあるが、以後ペルシアと西方ギリシア世界との大規模な軍事衝突はしばらく途絶える。
アルタクセルクセス1世の死後、複数の王子の間で短期間に激しい後継争いが起き、最終的にダレイオス2世が王位を掌握した。この混乱は、以後の帝国で王位継承がしばしば血で血を洗う争いになる先例となった。
ダレイオス2世の死を受け、アルタクセルクセス2世が即位した。しかし弟の小キュロスは即位に不満を抱き、まもなく反乱の準備を進めることになる。
小アジア総督の小キュロスは、ギリシア人傭兵約1万を含む大軍を率いて兄アルタクセルクセス2世に反旗を翻した。両軍はクナクサで激突し、緒戦で優勢だった小キュロス軍だったが、キュロス自身が乱戦の中で討死し、反乱は瓦解した。
兄への突撃を敢行した小キュロスは、乱戦の中で討たれた。彼を担いでいた反乱軍は総崩れとなり、王位簒奪の企ては潰えた。
主君キュロスを失い帝国領内に取り残されたギリシア人傭兵約1万人は、ティッサフェルネスらの追撃を受けながらも、指揮官の一人クセノフォンに導かれて敵中を踏破し黒海沿岸へと帰還を果たした。この撤退行はクセノフォンの手記『アナバシス』に描かれ、後にアレクサンドロスの東征を後押しする「ペルシアは見た目ほど強大ではない」という認識をギリシア世界に広めることになった。
中央の統制が緩む中、小アジア・シリア方面の複数のサトラップが結束して中央政府に反旗を翻した。カリアのマウソロスら有力サトラップも関与し、帝国の統治機構が抱える構造的な脆さを露呈させた。
40年を超える治世の中で相次ぐサトラップの反乱に悩まされ続けたアルタクセルクセス2世が没した。跡を継いだアルタクセルクセス3世は、動揺した帝国の再統一に着手する。
即位したアルタクセルクセス3世は、王位を脅かしかねない兄弟姉妹ら有力王族を徹底的に粛清し、強引な手法で権力基盤を固めた。この冷徹さで、動揺していた帝国の統制を急速に取り戻していく。
事実上の独立君主として振る舞ったカリア総督マウソロスが没した。妻でもあった妹アルテミシアが完成させた壮麗な霊廟は「マウソレウム」と呼ばれ、古代世界の七不思議の一つに数えられている。
半世紀以上前に独立を回復していたエジプトへアルタクセルクセス3世自ら遠征し、最後の在地ファラオ・ネクタネボ2世を破った。エジプトは再びペルシアの属州に組み込まれ、古代エジプト最後の独立王朝はここに終焉を迎えた。
帝国の再統一を成し遂げたアルタクセルクセス3世は、側近の宦官バゴアスにより毒殺されたと伝えられる。バゴアスはその後も傀儡の王を次々と擁立し、宮廷内で影の実力者として権勢を振るった。
宦官バゴアスに擁立される形でダレイオス3世が即位した。まもなくマケドニアで新たに王位に就いたアレクサンドロスが、父フィリッポス2世の遺志を継いでペルシア遠征を開始する。
小アジアに上陸したアレクサンドロス軍を迎え撃った地方サトラップ連合軍は、グラニコス川の戦いで敗れた。ダレイオス3世は緒戦を現地の総督任せにしていたが、以後は自ら親征することになる。
自ら親征したダレイオス3世は、イッソスの戦いでアレクサンドロス軍に敗れ、母・妃・子女を含む王族を戦場に残したまま逃走した。この逃走は帝国の威信に大きな打撃を与えた。
帝国各地から集めた大軍を率いて雪辱を期したダレイオス3世だったが、ガウガメラの戦いで再びアレクサンドロスに敗れた。この敗戦により帝国中枢のメソポタミア・バビロンが陥落し、アケメネス朝の命運は事実上尽きた。
アレクサンドロス軍はダレイオス1世以来築かれてきた儀礼上の都ペルセポリスを占領し、王宮を焼き払った。マラトン・サラミス以来のギリシアへの遠征に対する報復とも、酒宴の勢いによる偶発的な行為とも伝えられ、真相は定かでない。
東方への逃亡を続けるダレイオス3世を、バクトリア総督ベッソスが幽閉した末に殺害し、自ら「アルタクセルクセス5世」を称した。しかしベッソスもまもなくアレクサンドロスに捕らえられ処刑された。二百年以上続いたアケメネス朝ペルシアは、この死をもって事実上滅亡した。