ヌルハチ、後金を建てる
政治・外交女真の諸部をほぼ統一したヌルハチが、興京で汗の位に即き、国号を金と定めた。かつて華北を支配した女真族の金にちなむ名で、のちに後金と呼ばれる。すでに前年までに兵と民を同じ単位で束ねる八旗の制が整えられており、狩猟の共同体をそのまま軍団に転用したこの仕組みが、以後三百年の王朝の背骨となる。
女真の諸部をほぼ統一したヌルハチが、興京で汗の位に即き、国号を金と定めた。かつて華北を支配した女真族の金にちなむ名で、のちに後金と呼ばれる。すでに前年までに兵と民を同じ単位で束ねる八旗の制が整えられており、狩猟の共同体をそのまま軍団に転用したこの仕組みが、以後三百年の王朝の背骨となる。
ヌルハチが天に告げる形で明への七つの恨みを読み上げ、公然と兵を挙げた。第一に挙げられたのは、父と祖父が明軍によって理由なく殺されたことである。撫順を落として交易路を押さえ、以後の戦いは女真の内輪の統一戦争から、明という帝国への挑戦に変わった。
明は十万を号する軍を四つの道に分け、後金の本拠を包囲しようとした。ヌルハチは、汝が幾路より来るとも我はただ一路を行く、として全兵力を一つに束ね、各方面軍を順に叩いた。五日で明軍は壊滅し、遼東における攻守は完全に入れ替わる。以後、明は守る側に回り続けた。
後金軍が遼東の中心である瀋陽と遼陽を相次いで陥とし、遼河以東を版図に収めた。ヌルハチは都を興京から遼陽へ、のちに瀋陽へ移す。農耕地帯と漢人の人口を初めて大量に抱え込んだことで、後金は狩猟と略奪の集団から、税を取り官を置く国家へ移行を迫られた。
山海関の手前、寧遠城に籠もった袁崇煥が、ポルトガル経由で入手した西洋式の大砲でヌルハチの軍を退けた。四十四年の戦歴でほぼ唯一の明白な敗北であり、ヌルハチはこの戦いで受けた傷がもとで数か月後に没したとも伝えられる。城壁と火砲の組み合わせが騎兵を止めうることが証明された一戦である。
ヌルハチが没し、八旗の旗主たちの推戴によって八男のホンタイジが後を継いだ。当初は四人の大貝勒が並んで南面する共同統治の形だったが、ホンタイジは十年をかけて他の三人を退け、皇帝一人が南面する体制へ組み替えていく。清が部族連合から王朝へ変わる作業は、この継承から始まった。
ホンタイジが、以後は女真ではなく満洲と称せよと布告した。金に滅ぼされた宋の記憶と結びつく女真の名を捨て、新しい共同体としての名を与える措置である。同じ年にチャハル部を降して元の伝国の玉璽を得ており、女真の汗ではなくモンゴルと漢人をも含む帝国の主となる準備が整った。
ホンタイジが満洲・モンゴル・漢の三者から推戴を受ける形式で皇帝に即位し、国号を金から清と改めた。明の火徳に水徳をもって克つという説明が伝わる。同時に六部を置き、科挙を行い、明の官制をほぼそのまま導入した。まだ長城の外にいながら、中国王朝としての体裁がここで整えられた。
明への義を守って清の帝号を認めなかった朝鮮に、ホンタイジ自ら十万余を率いて侵攻した。仁祖は南漢山城に籠もったが四十五日で食糧が尽き、漢江のほとりの三田渡で三跪九叩頭の礼をとって降伏する。朝鮮は明との関係を断ち、王子を人質として送り、清の暦を用いる属国となった。
ホンタイジが後継を定めぬまま急死し、長男とドルゴンのあいだで帝位を争う局面になった。八旗が二つに割れて内戦になる寸前、ドルゴンは自ら退いてホンタイジの六歳の子を立て、自身は摂政となる案を出して合意を得た。この妥協がなければ、翌年の入関は起こりえなかった。
李自成に北京を奪われた明の総兵・呉三桂が、清に降って山海関の門を開いた。関の外で待っていたドルゴンの八旗が李自成軍を破り、そのまま北京へ入る。清は崇禎帝のために喪を発し、流賊を討ち明の仇に報いるために来たという名分を掲げた。二百年以上越えられなかった長城の東端は、戦わずに開いた。
清は都を瀋陽から北京へ移し、明の紫禁城をほぼそのまま用いた。中央官制は明のものを踏襲し、六部の長官を満洲人と漢人で一つずつ置く満漢併用の形をとる。征服王朝でありながら、既存の官僚機構を壊さずに乗り換えたことが、支配の定着を早めた。
清は漢人の男子すべてに満洲式の辮髪を強制した。頭を留めたい者は髪を留めるな、髪を留めたい者は頭を留めるなという布告が伝わる。身体に印を刻む形の服属要求は、税や官制の変更よりもはるかに激しい反発を生み、いったん収まりかけていた江南各地で抵抗が燃え上がった。
南京の南明政権を支えていた史可法が、揚州に籠もって清軍の南下を防ごうとしたが、十日と持たずに城は落ちた。降伏を勧める書状を退けて城と運命を共にし、遺体は見つからなかった。城が落ちたのち市中で長く続いた掠奪は、江南の記憶に深く刻まれる。南京はほどなく戦わずに開城した。
摂政王ドルゴンが狩りの途上で急死し、十三歳の順治帝が親政を始めた。翌年、順治帝はドルゴンの称号をすべて剥奪し、墓を暴かせている。同時に、摂政期に権力が集中していた諸王の力を削ぎ、皇帝直属の内閣と六部を通じて政務を運ぶ形を進めた。
南京攻めに失敗した鄭成功が海を渡り、オランダ東インド会社の拠点ゼーランディア城を九か月にわたって包囲し、開城させた。オランダの三十八年に及ぶ台湾支配は終わり、島は初めて中国系の政権に統治される。清に降らない明の遺臣たちの最後の拠点が、大陸の外にできた。
順治帝が天然痘で没し、まだ天然痘にかかっていなかった八歳の三男が立てられた。皇族ではなく四人の重臣が輔政にあたる形が採られ、その中で鰲拝が急速に台頭する。皇族の摂政が権力を握った前代の反省から出た仕組みが、今度は臣下の専権を生んだ。
ビルマに亡命していた南明最後の皇帝が、清の圧力に屈したビルマ王によって引き渡され、呉三桂の手で殺された。同じ年、鄭成功も台湾で病没する。明の皇統はここで完全に絶え、清の入関から十八年をかけた統一戦争は、台湾の鄭氏を残すのみとなった。
清に仕えることを拒んだ明の遺臣たちが、亡国の理由を問う形で学問の方法そのものを組み替えた。黄宗羲は明夷待訪録で天下の大害は君なりと君主専制を論じ、顧炎武は日知録で書物と実地の調査を突き合わせる方法を説いた。空論を排して証拠にあたるこの姿勢が、清代を通じて考証学として続く。
欽天監を率いていたアダム・シャールが、西洋の暦法を用いたことと墓の日取りの誤りを理由に告発され、死刑を宣告された。折しも起きた大地震を天の警告と見て減刑されたが、まもなく獄中の疲弊で没する。数年後、日食の予測を実際に競わせたところ西洋暦が的中し、フェルビーストが欽天監に戻った。
専権をふるっていた輔政大臣の鰲拝を、康熙帝が身内の少年たちを使って不意に捕らえた。表向きは相撲の稽古と称して集めた者たちで、正規の軍をいっさい動かさずに済んでいる。以後、康熙帝は六十一年にわたって自ら政務を執った。清の権力が皇帝一人に集まる形は、この日から実質的に始まる。
入関の功で雲南・広東・福建に半独立の王国を与えられていた三人の漢人武将のうち、雲南の呉三桂が撤藩の命に反発して挙兵した。他の二藩と各地の将が呼応し、長江以南のほぼ全域が清の手を離れる。清の統一が最も揺らいだ八年の内戦が始まった。
呉三桂は挙兵から五年で病没し、孫が後を継いだが、清軍の包囲を受けた昆明が落ちて乱は終わった。康熙帝は撤藩を主張して押し切った当人であり、八年の戦いを通じて自ら方針を変えなかった。以後、地方に半独立の軍事勢力を置く体制は清から消え、督撫を中央から派遣する統治が定着する。
福建水師提督の施琅が澎湖で鄭氏の水軍を破り、鄭成功の孫が降伏した。二十年余り続いた台湾の政権が終わり、清は初めて台湾島を版図に入れる。朝廷では放棄して住民を大陸へ移す案が有力だったが、施琅が東南の海防に不可欠だと強く説き、翌年に台湾府が置かれた。
台湾の平定を受けて、二十年以上続いた沿海住民の強制移住が解かれ、海禁が緩められた。江・浙・閩・粤の四か所に海関が置かれ、対外貿易が公式の税関を通じて行われるようになる。この四港体制は、七十年後に乾隆帝が広州一港に絞るまで続いた。
黒龍江流域で衝突していた清とロシアが、外興安嶺とアルグン川を境と定める条約を結んだ。交渉はイエズス会士を通訳としてラテン語で行われ、満洲語・ロシア語・ラテン語の三つの正文が作られた。中国の王朝が、朝貢の枠組みではなく対等な国家間の条約を結んだ最初の例である。
宣教師が暦法と数学と大砲鋳造で貢献してきた実績を踏まえ、康熙帝がキリスト教の布教を公に認める詔を出した。中国におけるカトリックの布教は最も自由な時期を迎える。ただしこの寛容は、宣教師が中国の祖先祭祀と孔子への敬礼を容認していることを前提にしていた。
外モンゴルのハルハ諸部を破って南下したジュンガルのガルダンに対し、康熙帝は三度みずから軍を率いて臨んだ。ジョオ・モドで火器を集中運用してジュンガル主力を撃破し、ガルダンは翌年に没する。この勝利によってハルハ諸部は清に服属し、外モンゴルが版図に入った。
康熙五十年の人丁数を基準として、以後に増えた人口には人頭税を課さないと定めた。徴税の基準が固定されたことで、戸籍から漏れて隠れていた人口が表に出はじめる。次代の地丁銀と合わせて、この措置は十八世紀の急激な人口増加を統計上も現実の上でも後押しした。
ローマ教皇が、中国人信者に祖先祭祀と孔子への敬礼を禁じる決定を確定させた。康熙帝はこれを、中国の礼を知らぬ者が中国の礼を裁くものだとして退け、教皇の指示に従う宣教師の在留を認めないと定める。百年続いた宮廷と宣教師の協力関係は、ここで実質的に終わった。
康熙帝の命により、宣教師と中国人測量官が十年をかけて全土を三角測量し、経緯度に基づく地図が完成した。チベットや東北の辺境まで含めた実測図で、当時の世界で最も広い範囲を統一された方法で測った成果である。清が自らの版図をどこまでと考えていたかが、初めて図として確定した。
ジュンガルがラサを占領してチベットを混乱させたのに対し、清が軍を送ってこれを駆逐し、ダライ・ラマを座に戻した。以後、清はチベットに軍を駐屯させ、雍正帝の代に駐蔵大臣を常置する。宗教的権威を保護する形をとりながら、実質的な監督権を握る枠組みがここで生まれた。
在位六十一年、中国史上最長の治世を終えて康熙帝が没した。皇太子を二度立てて二度廃したため後継は定まらず、四男が遺詔によって即位する。その経緯には当時から疑いが向けられ、清代を通じて最も語られた宮廷の謎になった。
康熙帝の四男が即位し、帝位を争った兄弟を次々に幽閉し、名を屈辱的な字に改めさせた。同時に、皇族が旗を率いる旧来の仕組みに手を入れ、八旗の私的な主従関係を皇帝との直接の関係へ置き換えていく。皇帝以外に権力の源泉を残さない体制が、この十三年で作り上げられた。
人頭税である丁銀を土地税の地銀に繰り込み、一本化して銀で納めさせる制度を全国に広げた。土地を持たない者の税負担が消え、徴収の手間も減る。二千年にわたり中国の税制の柱だった人身への課税が、ここで実質的に終わった。人口の把握が徴税と切り離されたことの影響は大きい。
典礼問題で悪化した関係を引き継ぎ、雍正帝が宣教師の地方での布教を禁じ、北京で技術に従事する者を除いてマカオへ退去させた。信徒は地下に潜り、教会は没収されて他の用途に転用される。康熙帝の容教から三十年あまりで、宮廷と西洋の宗教の関係は完全に断たれた。
西南の少数民族地域で世襲の首長に統治を委ねていた土司制度を廃し、中央から任期付きの官僚を派遣する制度へ切り替えた。抵抗は各地で武力鎮圧され、多くの犠牲を出しながら十年ほどで大半の地域が直轄化される。周縁を間接統治で済ませていた王朝が、直接統治へ踏み込んだ転換だった。
青海の反乱を鎮めて絶大な信任を得ていた撫遠大将軍が、礼を失したとして九十二か条の罪状を突きつけられ、自裁を命じられた。即位を支えた最大の功臣が三年で消えたことで、雍正帝の統治がどのような性格のものかが朝廷に行き渡る。功績は権力の保証にならない、という前例になった。
ネルチンスク条約が定めなかったモンゴル方面の境界を確定し、キャフタでの定期的な国境交易と、北京にロシアの宗教使節団を置くことを認めた。この使節団は事実上の常駐外交機関として機能し、ロシアは他の西洋諸国に先んじて北京に足場を得る。清が国境と交易をあらかじめ取り決めた、数少ない例である。
ジュンガル遠征の軍務を扱う臨時の機関として軍機処が設けられ、やがて内閣に代わる最高の意思決定機関となった。数人の軍機大臣が皇帝の傍らで指示を文書化し、内閣や六部を通さず直接地方へ送る。手続きを短くしたこの仕組みによって、清の皇帝独裁は制度として完成した。
皇太子を公に立てず、後継者の名を書いた文書を密封して乾清宮の額の裏に納め、皇帝の死後に開封する制度を定めた。康熙帝の晩年に皇太子をめぐって朝廷が割れ、自身もその争いを勝ち抜いて即位した経験から出た仕組みである。以後の清では、皇太子を担ぐ党派争いがほぼ起きなくなった。
満洲人の王朝は正統ではないと考えた一書生が、地方長官に反乱を持ちかけて捕らえられた。雍正帝はこれを処刑せず、華夷の別は血統ではなく徳によるという反論を自ら書き、尋問の記録とともに大義覚迷録として刊行し、全国の学校に配らせた。皇帝が一書生に公開の論争を挑んだ、清代でも例のない事件である。
雍正帝が円明園で急死し、密建法により四男が即位した。在位十三年は康熙帝の六十一年と乾隆帝の六十年に挟まれて短いが、軍機処・地丁銀・改土帰流・密奏という清の統治の骨格は、ほぼこの十三年に作られている。空になっていた国庫も、この間に大幅に回復した。
父の苛烈な統治を和らげる方針を掲げて即位し、幽閉されていた叔父たちを赦し、曾静を処刑して大義覚迷録を回収した。祖父の寛と父の厳を折衷すると自ら述べている。国庫は雍正帝の十三年で満たされており、この治世は蓄えられた力を外へ向けることから始まった。
内紛で弱ったジュンガルに清が大軍を送り、イリを占領してその政権を滅ぼした。降伏後の再反乱を受けて徹底した掃討が行われ、天然痘の流行も重なってジュンガル部はほぼ絶える。二千年にわたり中国の北と西を脅かしてきた遊牧勢力が、ここで最終的に姿を消した。
康熙帝以来の四港体制を改め、西洋との貿易を広州一港に限り、公行と呼ばれる特許商人の組合を通じてのみ取引させる制度に切り替えた。外国商人の居住区と行動は厳しく制限される。管理の都合で採られたこの体制が、八十年後にアヘン戦争の直接の争点になった。
ジュンガルの支配下にあった天山南路のオアシス諸都市が清に反旗をひるがえし、兆恵が数か月の包囲に耐えながらこれを平定した。天山の南北が清の版図に入り、新たに得た故地という意味で新疆と名づけられる。清の領土はこの年に最大となり、以後は守勢に転じた。
詩文の一句や書物の一節が満洲人への誹りにあたるとして、著者とその一族、出版に関わった者までが処罰された事件が相次いだ。清初にもあったが、乾隆年間には四庫全書の書物収集と結びついて件数が跳ね上がる。学者は現実の政治を論じることを避け、古典の校訂と考証へ向かった。
近衛の一士官だった和珅が乾隆帝の寵愛を得て軍機大臣となり、以後二十年近く人事と財政を握った。地方官は昇進のために贈賄し、その分を民から取り立てる。議罪銀という、罪を銀で贖う制度まで整えられ、腐敗は例外ではなく仕組みの一部になった。最盛期の内側から支柱が腐っていく。
全国から書物を集めて経史子集の四部に分類し、三千五百種を超える書を写した叢書が完成した。同時に、集めた書の中から満洲人や北方民族を貶める記述を持つものが洗い出され、数千種が焼かれるか改竄された。中国最大の編纂事業は、同時に中国最大の書物の廃棄事業でもあった。
曹雪芹が没して三十年近く、写本で読まれていた紅楼夢が活字で刊行された。栄華をきわめた名家が傾いていく過程を、少年少女の日常の細部から描き切った長編で、中国小説の頂点と評される。作者自身の一族が雍正年間に没落した経験が下敷きになっている。
乾隆帝は自らの治世の遠征を十回数え上げ、十全老人と号した。二度の金川の役、ジュンガルと回部の平定、ビルマと安南への出兵、そしてチベットに侵入したグルカの撃退などである。版図を広げたものもあれば、多大な出費のわりに得るものが少なかったものもあり、国庫は次第に痩せていった。
イギリスが貿易の拡大と常駐使節の交換を求めて使節を送った。三跪九叩頭の礼をめぐって長く揉め、片膝をつく形で謁見が行われる。乾隆帝はイギリス国王への勅諭で、天朝は物産に富み外夷の品を必要としないと述べ、要求をすべて退けた。二つの世界観が、対等な言葉を持たないまま向き合った。
在位六十年を迎えた乾隆帝が、祖父の六十一年を超えないという誓いを守って位を譲り、太上皇帝となった。だが実権は手放さず、以後三年間、詔勅は太上皇帝の名で出され、和珅の権勢も続いた。嘉慶帝が実際に政務を執り始めるのは、父が没した一七九九年からである。
山地に流入した貧しい移民のあいだで白蓮教が広まり、官の収奪をきっかけに大規模な蜂起となった。八旗と緑営は役に立たず、地方の郷勇と堅壁清野の戦術でようやく九年かけて鎮圧される。戦費は国庫の蓄えを使い果たし、清の軍事力が既に空洞化していることが誰の目にも明らかになった。
乾隆帝が没した数日後、嘉慶帝は和珅を捕らえて二十の罪状を数え上げ、自裁を命じた。没収された財産は国家歳入の数年分に達したと伝わる。だが処分は和珅個人とその一党に限られ、腐敗の構造そのものには手が付かなかった。綱紀を正そうとした親政は、始まりから内乱の戦費に追われる。
白蓮教の流れをくむ天理教の一団が、宮中の宦官の手引きで紫禁城の門を破って侵入した。皇子が銃で撃退し、まもなく鎮圧されたが、都の宮城が民間の宗教結社に破られたという事実は衝撃を与えた。嘉慶帝は自らの非を認める詔を出している。
イギリスは茶の代価として流出する銀を取り戻すため、インド産アヘンの対中輸出を拡大した。十九世紀に入ると輸入量は年々増え、清は逆に銀が国外へ流れ出す側に回る。銀高銅安が進んで農民の実質的な税負担が重くなり、官吏と兵の吸引も広がった。財政と軍と社会の三方から効く問題だった。
欽差大臣として広州に着いた林則徐が、外国商館を封鎖してアヘンの引き渡しを迫り、二万箱余りを没収した。虎門の浜に池を掘り、石灰と海水で分解して二十日以上かけて処分する。イギリス側の商務総監督エリオットが商人にアヘンを政府へ提出させたことで、私商の損失が国家間の問題に転じた。
イギリス議会が僅差で出兵を可決し、艦隊が広州を封鎖して北上した。喫水の浅い蒸気軍艦が長江をさかのぼり、大運河との結節点である鎮江を押さえて南京に迫る。清は沿岸の砲台では止められず、内陸の水路を断たれた時点で講和に応じるほかなくなった。
清は香港島を割譲し、広州・厦門・福州・寧波・上海を開港し、賠償金を支払い、公行による貿易独占を廃止した。翌年以降の追加条約で領事裁判権と協定関税、最恵国待遇が加わる。八十五年続いた広州一港の管理貿易は終わり、清は近代の不平等条約体制に組み込まれた。
アメリカと望厦条約を、フランスと黄埔条約を結び、イギリスが得た権益がそのまま他国にも及んだ。領事裁判権が明文化され、フランスとの条約ではキリスト教の布教が事実上黙認される。最恵国待遇の連鎖により、一国への譲歩が自動的にすべての国への譲歩になる仕組みが完成した。
アヘン戦争の敗北と条約の締結を経て、道光帝が没した。倹約に努めた三十年だったが、財政は好転せず、銀の流出と地方の疲弊は深まったままだった。四男が咸豊帝として即位した同じ年、広西で洪秀全が蜂起の準備を進めていた。
科挙に落ち続けた洪秀全が、自らを神の子と称して組織した上帝会が、広西の金田村で蜂起し太平天国を号した。偶像の破壊、纏足と阿片の禁止、男女別の営を掲げ、土地の均分を約束する。飢えた客家の農民と鉱夫を吸収しながら、二年で長江中流域まで駆け上がった。
太平天国軍が南京を陥として天京と改め、都を定めた。天朝田畝制度を公布して土地の均分を掲げ、独自の暦と貨幣と科挙を持つ国家が長江の南に出現する。同時に北伐軍を派して天津の近くまで迫ったが、補給が続かず全滅した。清の支配は南北に断ち切られた。
八旗と緑営が太平天国の前にまったく機能しないなか、曾国藩が郷里の湖南で同郷・師弟の縁を軸にした湘軍を編成した。給与を高くし、指揮官が自ら兵を募る方式で、忠誠は国家ではなく指揮官個人に向く。この軍が乱を平定するが、同時に軍事力が中央から地方の督撫へ移る流れも始まった。
広州でイギリス船籍を主張する船が臨検された事件を口実に、イギリスがフランスを誘って出兵した。太平天国の鎮圧に手を取られていた清は南北で戦うことになり、広州は占領され、天津条約を結ばされる。批准をめぐって戦闘が再燃し、戦争は四年にわたって続いた。
実権を握っていた東王・楊秀清が洪秀全の命で殺され、その一族と部下数千が続いて処刑された。報復の連鎖が起き、収拾に呼ばれた石達開も一族を殺されて天京を去る。太平天国は最も有能な指導者たちを自ら失い、以後は守勢に回った。清が体勢を立て直す時間はここで生まれた。
英仏軍が天津に迫るなか、東シベリア総督ムラヴィヨフが黒龍江の北岸をロシア領とする条約を清に認めさせた。二年後の北京条約では、調停の労を口実に沿海州も獲得する。ネルチンスク条約が百七十年守ってきた線は、一発の砲弾も撃たれないまま書き換えられた。
英仏軍が北京に入り、交渉使節が捕らえられ殺されたことへの報復として円明園を掠奪し焼き払った。咸豊帝は熱河へ逃れ、弟の恭親王が残って北京条約を結ぶ。公使の北京駐在、天津の開港、九龍の割譲、アヘン貿易の公認が認められ、清は都に外国の常駐使節を抱えることになった。
咸豊帝が熱河で没し、幼い同治帝を八人の顧命大臣が補佐する体制が定められた。だが生母の西太后は北京の恭親王と結んでこれを覆し、主だった大臣を処刑・自裁させて垂簾聴政に入る。以後四十七年、清の最終的な決定はこの人の判断を通ることになった。
外国との交渉を専門に扱う役所が初めて置かれた。それまで対外関係は朝貢を扱う礼部と、辺境を扱う理藩院に分かれており、対等な国家との継続的な外交という考え方そのものがなかった。同文館を付設して外国語と西洋の学問を教え、洋務運動の中央の拠点となる。
上海の外国人商人が資金を出して編成した常勝軍が、ゴードンの指揮下で李鴻章の淮軍と連携し、蘇州など長江下流の要地を奪回した。列強は当初中立を掲げていたが、条約で得た権益を守るため清朝の側に立つことを選ぶ。近代兵器と外国人の指揮が中国の内戦に組み込まれた最初の例となった。
曾国藩の弟が率いる湘軍が二年の包囲の末に天京を陥とした。洪秀全は落城の直前に病没しており、十四年に及ぶ内乱が終わる。戦火は十七省に及び、死者は二千万人を超えるとも推定される。人口と生産力の損失は清が最後まで回復できなかった。
上海に大規模な兵器工場が設けられ、銃砲と汽船の製造、西洋書籍の翻訳が始まった。福州船政局、輪船招商局、開平炭鉱と続き、自強を掲げる洋務運動が本格化する。ただし事業は各地の督撫が個別に興したもので、国家全体の計画としては統合されなかった。
十歳前後の少年百二十人が官費でアメリカへ送られ、現地の家庭に預けられて学んだ。清が組織的に人を海外へ出して学ばせた最初の試みである。だが服装や習慣が中国風でなくなったことを批判され、九年で計画は打ち切られて全員が呼び戻された。
琉球の漂流民が台湾の原住民に殺された事件を理由に、日本が台湾南部へ出兵した。清は交渉で撤兵と引き換えに賠償を支払い、日本の行動を保民の義挙と認める文言を受け入れる。これが琉球の帰属をめぐる主張の根拠にされ、五年後に琉球は日本に併合された。
同治帝が十八歳で没し、子がなかったため、西太后は妹の子である四歳の甥を光緒帝として立てた。同世代から立てたことで自らは引き続き皇太后の地位にとどまり、二度目の垂簾聴政に入る。慣例では次の世代から立てるべきところで、この人事は当時から議論を呼んだ。
回民の蜂起に乗じてヤクブ・ベクが新疆に政権を立て、イギリスとロシアが接近するなか、左宗棠が数年をかけて遠征しこれを倒した。海防を優先すべきだとする李鴻章の主張を押し切っての出兵である。新疆は数年後に省として編入された。清末に失われるばかりだった領土で、取り戻した数少ない例になる。
ベトナムをめぐってフランスと衝突し、福州でわずか一時間ほどの砲戦により福建水師が壊滅した。陸ではランソンでフランス軍を破りながら、清は講和に応じて安南に対する宗主権を放棄する。勝った戦場を持ちながら譲る形になり、朝廷の弱腰への批判が高まった。
李鴻章が二十年をかけて育てた北洋艦隊が正式に編成された。ドイツ製の装甲艦を旗艦とし、旅順と威海衛に軍港と造船施設を備え、当時アジア最大の海軍と評された。だが成立の直後から新造艦の予算が付かず、速射砲への更新も弾薬の補充も滞ったまま日清戦争を迎える。
朝鮮での農民蜂起への出兵をきっかけに日本と開戦した。黄海海戦で北洋艦隊は主力艦を残しながら多数を失い、以後は港に籠もる。陸では平壌と旅順が落ち、威海衛が陸海から包囲されて艦隊は降伏した。提督の丁汝昌は部下の助命を求める書簡を残して服毒する。
清は朝鮮の独立を認め、遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲し、賠償金二億両を支払い、開港場での工場設立を認めた。遼東半島はロシア・フランス・ドイツの干渉で返還されるが、代償金が加わる。二百年以上続いた冊封の体系はここで解体し、列強による勢力範囲の分割が始まった。
敗戦の衝撃を受けて光緒帝が康有為らを用い、科挙の改革、新式学校の設立、官制の整理など百件を超える詔勅を出した。だが既得権を脅かされた官僚層が反発し、西太后がクーデターで光緒帝を幽閉して改革を止める。譚嗣同ら六人が処刑され、康有為と梁啓超は日本へ亡命した。
扶清滅洋を掲げる義和団が華北に広がり、西太后はこれを利用して列強に宣戦した。北京の公使館区域が五十五日間包囲され、八カ国の連合軍が天津から進んで北京を占領する。南方の総督たちは詔を無視して列強と現地協定を結び、戦火を避けた。皇帝の宣戦を地方が実行しなかった。
四億五千万両という巨額の賠償金、公使館区域への外国軍の駐屯、砲台の撤去などを受け入れる条約が結ばれた。署名した李鴻章はその二か月後に没する。西太后は西安から戻ると、かつて潰した変法とほぼ同じ内容の改革を光緒新政として自ら進めはじめた。
戊戌の政変で日本へ亡命した梁啓超が横浜で雑誌を発行し、平明で熱のある文体で国民という考え方を説いた。経済・哲学・社会といった訳語の多くがここから中国語に定着する。師の康有為が立憲君主制を守り続けたのに対し、弟子は革命派とも論争しながら立場を動かし、清末の読者に最も広く読まれた書き手となった。
張之洞と袁世凱らの上奏により、隋以来千三百年続いた科挙が廃止された。新式の学堂と留学が官途への道となり、日本へ渡る留学生が数万人規模に膨れ上がる。だが同時に、王朝と読書人を結びつけてきた最大の絆が切れた。清を支えてきた層が、清の外で学ぶようになる。
各地の革命団体が東京で合流し、孫文を総理、黄興を庶務として中国同盟会が結成された。韃虜を駆除し中華を回復し民国を建立し地権を平均するという綱領を掲げ、機関誌で立憲派と論争しながら各省の新軍に組織を広げていく。以後六年、十度に及ぶ武装蜂起が試みられた。
幽閉されていた光緒帝が没し、その翌日に西太后が没した。西太后は死の直前に三歳の溥儀を後継に指名している。四十七年にわたって清の意思決定を担ってきた人物が去り、残されたのは幼帝と、実務経験のない摂政と、各省で高まる立憲と革命の要求だった。
鉄道の国有化とその外国借款への担保化に反発する運動が四川で高まり、鎮圧のため兵が抜けた武昌で、新軍の革命派が蜂起した。爆弾の暴発による発覚から追い込まれての決起だったが、二か月のうちに十四の省が独立を宣言する。清の支配は各省の離脱によって崩れた。
南京で中華民国臨時政府が成立し、清朝から全権を委ねられた袁世凱が革命派と取引して退位を実現させた。隆裕太后の名で出された詔勅は、共和政体の樹立を袁世凱に全権委任すると記す。孫文は臨時大総統の座を譲り、清は二百六十八年、皇帝という制度は二千百三十二年で終わった。