アクティウムの海戦
戦いオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)の将軍アグリッパが、アントニウスとクレオパトラの連合艦隊を撃破した決定的海戦。クレオパトラの艦隊の離脱をきっかけにアントニウス軍は瓦解。この勝利でオクタウィアヌスは地中海世界の唯一の支配者となり、プトレマイオス朝エジプトはローマに併合された。
オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)の将軍アグリッパが、アントニウスとクレオパトラの連合艦隊を撃破した決定的海戦。クレオパトラの艦隊の離脱をきっかけにアントニウス軍は瓦解。この勝利でオクタウィアヌスは地中海世界の唯一の支配者となり、プトレマイオス朝エジプトはローマに併合された。
元老院がオクタウィアヌスに「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を与え、ローマ帝政が始まった。共和政の形式を維持しながら実質的な独裁権を掌握する「プリンキパトゥス」体制を確立。軍事・外交・財政の実権を一手に握り、約200年にわたるパクス・ロマーナの基盤を築いた。
ゲルマン人のアルミニウスがローマ軍3個軍団(約2万人)をトイトブルク森で全滅させた。ローマ史上最悪級の軍事的敗北。この敗北によりローマはライン川以東のゲルマニア征服を事実上断念し、ライン川がローマ世界とゲルマン世界の境界として定着した。
ローマ属州ユダヤの総督ポンティウス・ピラトゥスがイエスの処刑を承認。当時のローマにとっては辺境の一事件に過ぎなかったが、イエスの教えは使徒たちによって帝国全土に広まり、やがてローマ帝国の国教となる。ティベリウス帝の治世中の出来事。
クラウディウス帝がローマ軍をブリタニア(現イギリス)に派遣し、南部を征服。クラウディウス自身もカムロドゥヌム(コルチェスター)入城に参加し、凱旋式を挙行した。これにより愚鈍と見られていたクラウディウスの権威が確立。ローマのブリタニア支配は約400年続いた。
ブリタニアのイケニ族女王ブーディカが、ローマ支配への大規模な反乱を起こした。コルチェスター、ロンディニウム(ロンドン)、ヴェルラミウム(セント・オールバンズ)を焼き討ちし、ローマ市民7万人を殺害したとされる。最終的にローマ総督スエトニウス・パウリヌスの率いる軍に壊滅的に敗北した。
ローマ市街の大半を焼き尽くす大火災が発生。ネロは積極的に消火・救援活動を行ったとされるが、「竪琴を弾きながらローマの炎を眺めた」という伝説が後世に広まった。ネロは火災の責任をキリスト教徒に転嫁し、組織的な迫害を開始。これがローマにおけるキリスト教迫害の嚆矢となった。
元老院から「国家の敵」と宣告されたネロが逃亡先で自害。「なんという芸術家が死ぬことか」という辞世の句を残したとされる。これによりアウグストゥス以来のユリウス・クラウディウス朝は断絶し、翌年に4人の皇帝が次々と即位・廃位される「四帝の年」の内乱に突入した。
ネロの死後、ガルバ、オトー、ウィテリウス、ウェスパシアヌスの4人が1年間に次々と帝位を争った。最終的にウェスパシアヌスが勝利しフラウィウス朝を開いた。この内乱は「皇帝はローマ以外の場所でも作られうる」という事実を示し、帝国政治の本質を露呈させた。
ユダヤ戦争の最終局面で、将軍ティトゥスがエルサレムを攻略しユダヤ神殿(第二神殿)を破壊した。神殿の西壁(「嘆きの壁」)のみが残された。この事件はユダヤ人のディアスポラ(離散)を決定的にし、ユダヤ教とキリスト教の分離を加速させた。
ヴェスヴィオ火山が大噴火し、ポンペイとヘルクラネウムが火山灰と火砕流で埋没。約2万人の住民のうち数千人が犠牲となった。1748年の発掘開始以来、古代ローマの都市生活がそのまま保存された稀有な遺跡として世界に知られる。ティトゥス帝は迅速な救援活動を展開した。
ウェスパシアヌスが着工しティトゥスが完成させた巨大円形闘技場。収容人数は約5万人。開場記念の祭典は100日間続き、剣闘士の戦いや模擬海戦が行われた。ネロの黄金宮殿の人工湖を埋め立てて建設され、暴君ネロの象徴を市民のための施設に転換した意味もある。
ドミティアヌスの暗殺後、元老院の推挙によりネルウァが即位。血縁ではなく能力に基づいて後継者を選ぶ「養子帝制」を開始した。トラヤヌスを養子に迎えた決断は、以後約80年にわたるローマ帝国の黄金期を生み出した。ギボンが「人類が最も繁栄し幸福であった時代」と評した五賢帝時代の幕開け。
トラヤヌス帝が2度にわたるダキア戦争に勝利し、ダキアをローマの属州とした。ダキアの金鉱山はローマの財政を潤し、戦勝記念としてローマにトラヤヌスの記念柱が建設された。高さ約30mの柱には戦争の場面が螺旋状に彫刻され、ローマ美術の傑作とされる。
トラヤヌスのパルティア遠征によりローマ帝国は最大版図を達成。メソポタミア・アルメニアまで領土を拡大し、ペルシャ湾にまで到達した。しかしこの拡大は維持困難で、後継者ハドリアヌスはメソポタミアを放棄し防衛的な政策に転換した。
ハドリアヌス帝がブリタニア北部に全長約120km、高さ約5mの防壁を建設。ローマ帝国の北限を画定し、ケルト系ピクト人の侵入を防ぐ役割を果たした。帝国の「攻めの拡大」から「守りの安定」への戦略転換を象徴する建造物。現在もイギリスに遺跡が残り世界遺産に登録されている。
ハドリアヌスがアグリッパの建てたパンテオン(万神殿)を再建。直径43.3mの無補強コンクリートドームは建築史上の奇跡とされ、約1900年経った現在も完全な形で残る。頂上の円形開口部(オクルス)から差し込む光が内部を照らす設計は、ローマ建築の最高傑作。
ゲルマン系マルコマンニ族がドナウ国境を突破しイタリア北部にまで侵入した。パクス・ロマーナの時代にゲルマン人がイタリアに達した衝撃は大きく、マルクス・アウレリウスは生涯の大半を前線での防衛戦に費やした。このドナウ国境の動揺は、後の民族大移動の予兆でもあった。
マルクス・アウレリウスの死後、実子コンモドゥスが即位し五賢帝時代が終わった。元老院政治を軽視し、自らヘラクレスの化身を名乗ってコロッセウムで剣闘士として戦うなど奇行が目立った。12年の治世はパクス・ロマーナの終焉と帝国衰退の始まりを象徴する。
コンモドゥス暗殺後、1年間に5人の皇帝が乱立した。最終的にアフリカ出身のセプティミウス・セウェルスが勝利し、セウェルス朝を開いた。帝位が軍事力で争奪される時代の到来を象徴する事件で、「軍隊なくして皇帝なし」の原則が確立した。
カラカラ帝が帝国内の全自由民にローマ市民権を付与する勅令を発布。「ローマ人」と「属州民」の法的区別を撤廃し、帝国の一体性を強化した。一方で、市民権に付随する税負担の拡大が主目的とする見方もある。ローマ法の普遍化という点で歴史的意義は大きい。
セウェルス朝の断絶後、約50年間に26人以上の皇帝が乱立する「3世紀の危機」が始まった。軍人皇帝が次々と即位しては暗殺される混乱期。ゲルマン人の侵入、ササン朝ペルシアの脅威、疫病の蔓延、経済の崩壊が同時進行し、帝国は存亡の危機に瀕した。ガリア帝国やパルミラ王国が分離独立する事態にまで至った。
シリアのパルミラ女王ゼノビアがローマ帝国からの独立を宣言し、エジプトからアナトリアまでを支配する広大な王国を建設した。クレオパトラの後裔を自称し、東方のローマに代わる存在を目指した。しかしアウレリアヌス帝の遠征に敗れ、王国は滅亡した。
ディオクレティアヌスが帝国を東西に分け、正帝(アウグストゥス)2名と副帝(カエサル)2名の4人で統治するテトラルキア(四分統治)体制を導入。3世紀の危機を収束させ、行政の効率化と防衛力の強化を実現した。しかしこの体制はディオクレティアヌスの退位後に崩壊し、新たな内戦を引き起こした。
ディオクレティアヌスがローマ帝国最大にして最後のキリスト教迫害を発令。教会の破壊、聖書の焼却、聖職者の逮捕が行われた。しかしキリスト教は既に帝国全土に深く浸透しており、迫害は最終的に失敗。わずか10年後にはコンスタンティヌスによりキリスト教が公認される。
コンスタンティヌスが対立皇帝マクセンティウスをローマ近郊のミルウィウス橋で破った決定的な戦い。戦前にコンスタンティヌスは天に十字架の幻を見て「この印のもとに勝て(In hoc signo vinces)」という天啓を受けたとされる。この勝利がキリスト教公認への道を開いた。
コンスタンティヌスとリキニウスが共同でキリスト教を含む全宗教の信仰の自由を認める勅令を発布。約3世紀にわたるキリスト教迫害に終止符が打たれた。この勅令は単なる「寛容」を超え、没収された教会財産の返還も命じており、キリスト教保護の性格を持っていた。
コンスタンティヌスが主宰した史上初の全教会的会議(エキュメニカル公会議)。アリウス派とアタナシウス派の教義論争を裁定し、ニカイア信条を採択。キリスト教の正統教義を確立するとともに、皇帝が教会に介入する先例を作った。
コンスタンティヌスがビザンティウムを大規模に再開発し「新しいローマ」コンスタンティノープルとして遷都。地中海東方の要衝に位置する新都は、以後1000年以上にわたり東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都として繁栄。帝国の重心の東方移動を決定づけた。
「背教者」ユリアヌスがササン朝ペルシアへの遠征中に戦死。享年32。彼のローマ伝統宗教への回帰の試みは死とともに終わり、以後キリスト教のローマ帝国における優位は揺るぎないものとなった。コンスタンティヌス朝の血統もこれにより断絶した。
テオドシウス1世がキリスト教(ニカイア信条に基づく三位一体説)をローマ帝国の国教と定めた。異教の祭祀は禁止され、オリンピア競技祭も393年に廃止。約1000年続いた古代地中海世界の多神教文化は公式に終焉を迎え、キリスト教が西洋文明の基盤として確立された。
テオドシウス1世の死後、帝国は長男アルカディウスの東ローマ帝国と次男ホノリウスの西ローマ帝国に分割された。表向きは一つのローマ帝国の分担統治だったが、以後二度と統合されることはなかった。東ローマ帝国は1453年まで存続するが、西ローマ帝国は急速に衰退していく。
西ローマ帝国最後の名将スティリコが、宮廷の陰謀により反逆の嫌疑をかけられ処刑された。ヴァンダル系出身のスティリコは蛮族への反感と嫉妬の犠牲となった。彼の死により帝国の軍事的支柱が失われ、配下のゲルマン人兵士3万人がアラリックに合流。2年後のローマ略奪を招く直接の原因となった。
西ゴート族のアラリック1世がローマを3日間にわたり略奪した。紀元前390年のケルト人の侵入以来、約800年ぶりのローマ陥落。「永遠の都」の陥落は古代世界に衝撃を与え、アウグスティヌスは『神の国』を著してこの事件を神学的に解釈した。ホノリウス帝はラヴェンナに避難したまま何もしなかった。
ローマの将軍アエティウスと西ゴート王テオドリック1世の連合軍が、フン族のアッティラを撃退した「民族の戦い」。西洋文明をフン族の脅威から守った決定的な戦いとされる。しかし両軍とも甚大な被害を受け、決定的勝利とは言い難い面もある。
カタラウヌムの敗北から1年後、アッティラはイタリアに侵入しアクイレイアを破壊(住民はラグーンに逃れ、後のヴェネツィアの起源となった)。ローマに迫るフン族に対し、教皇レオ1世が単身会見に臨みアッティラの撤退を説得したとされる。この逸話はローマ教皇の権威を高めた。
ヴァンダル王ガイセリックが北アフリカからローマに侵攻し、2週間にわたりローマを組織的に略奪した。410年のアラリックの略奪とは異なり、計画的かつ徹底的で、ユダヤ神殿の聖具などの財宝も持ち去った。この事件から「ヴァンダリズム(破壊行為)」という言葉が生まれた。
ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位。皇帝の帝冠と紫衣を東ローマ皇帝ゼノンに送り返し、西ローマ帝国は正式に滅亡した。ローマ建国者ロムルスと帝政創始者アウグストゥスの名を持つ少年が最後の皇帝となる歴史の皮肉。古代の終わりと中世の始まりとされる。