共和政ローマの成立
政治・外交暴君タルクィニウス・スペルブスが追放され、ルキウス・ブルトゥスらが最初の執政官(コンスル)に就任。王政が廃止され、二人の執政官が一年交代で統治する共和政が始まった。「王」の称号はローマ人にとって最大の侮辱となり、以後500年にわたって共和政の政体が維持された。
暴君タルクィニウス・スペルブスが追放され、ルキウス・ブルトゥスらが最初の執政官(コンスル)に就任。王政が廃止され、二人の執政官が一年交代で統治する共和政が始まった。「王」の称号はローマ人にとって最大の侮辱となり、以後500年にわたって共和政の政体が維持された。
エクイ族がローマ軍を包囲した危機に、農夫キンキナトゥスが独裁官に任命された。畑で鋤を握っていたところを使者が訪れ、トーガを着るよう求められたという。わずか16日でエクイ族を撃破し、凱旋式を挙げた後、直ちに独裁官の権限を返上して農地に戻った。共和政における権力の一時性と市民の義務を象徴する出来事。
BC449年、パトリキ(貴族)とプレブス(平民)の身分闘争の中で、ローマ初の成文法である十二表法が制定された。それまで慣習法として貴族が独占していた法知識が成文化され、フォルムに青銅板として掲示された。内容は財産権、相続、契約、不法行為など多岐にわたり、ローマ法の基礎となった。
10年に及ぶ包囲戦の末、カミッルスがエトルリアの大都市ウェイイを攻略。地下トンネルを掘って城壁内に侵入するという革新的戦術を用いた。ウェイイの征服によりローマの領土は一挙に倍増し、ローマはイタリア中部の覇者への第一歩を踏み出した。
BC390年、セノネス族のブレンヌスに率いられたガリア人がローマを攻撃。アッリアの戦いでローマ軍は壊滅し、ガリア人がローマ市内に侵入して略奪・放火を行った。カピトリヌスの丘のみが7ヶ月持ちこたえ、身代金を支払ってガリア人を撤退させた。追放されていたカミッルスが召還されてガリア人を撃退し「ローマ第二の建国者」となった。
BC343年からBC290年にかけて三度にわたるサムニウム戦争で、ローマはイタリア中南部の山岳民族サムニウム人と激闘。第二次(BC326-304)のカウディウムの峡谷ではローマ軍が「軛の下を通る」屈辱を受けた。しかし最終的にBC290年の第三次で勝利し、イタリア半島の大部分を支配下に収めた。
エペイロス王ピュロスがイタリアのギリシア植民市の要請で戦象を率いてローマと戦った。ヘラクレア(BC280)とアスクルム(BC279)でローマに勝利したが、自軍の損失が甚大で「もう一度こんな勝利を収めれば、我々は滅びるだろう」と嘆いた。最終的にベネウェントゥムの戦い(BC275)でローマに敗れ、イタリアから撤退した。
BC264年、シチリアのメッサナを巡ってローマとカルタゴが衝突し、第一次ポエニ戦争が勃発。陸軍国家ローマが初めて本格的な海軍を建設し、コルウス(接舷装置)を開発してカルタゴ海軍に対抗した。23年にわたる消耗戦の末、BC241年のアエガテス諸島沖海戦でローマが勝利。カルタゴはシチリアを割譲し、ローマ初の海外属州が誕生した。
BC218年、ハンニバルは歩兵5万・騎兵9千・戦象37頭を率いてヒスパニアを出発し、ピレネー山脈とアルプス山脈を越えてイタリアに侵入。15日間のアルプス越えで兵力の半分以上を失ったが、ポー平原に到達して北イタリアのガリア人を味方につけた。軍事史上最も大胆な戦略的機動の一つ。
BC216年、ハンニバルが約5万の兵で8万のローマ・同盟軍を包囲殲滅した史上最も有名な会戦。中央の歩兵を意図的に後退させ、両翼の騎兵で敵を包囲する「カンナエ式二重包囲」は軍事戦術の教科書に今日まで載り続けている。ローマ側の戦死者は推定5万〜7万、元老院議員80人が戦死した。しかしローマは降伏せず、ファビウスの持久戦略に切り替えて最終的に勝利した。
BC202年、スキピオ・アフリカヌスが北アフリカに逆上陸し、ハンニバルと直接対決。スキピオはハンニバルの戦象突撃に対して隊列に通路を開ける対策をとり、ヌミディア騎兵の支援を得て勝利。15年にわたるハンニバルのイタリア遠征は終わりを迎え、カルタゴは地中海の覇権を完全に失った。第二次ポエニ戦争の最終決戦。
第二次マケドニア戦争の決戦。ローマのティトゥス・フラミニヌスがフィリッポス5世のマケドニア軍を撃破。マケドニアのファランクス(重装歩兵密集陣形)がローマのレギオン(軍団戦術)に敗れた決定的瞬間。翌年、フラミニヌスはイストミア祭でギリシア諸都市の「自由」を宣言し、ギリシア人は歓喜した。しかしこれはローマの東方支配の始まりでもあった。
大カトーの執拗な「カルタゴ滅ぶべし」の主張を受け、BC149年にローマは第三次ポエニ戦争を開始。BC146年、スキピオ・アエミリアヌスが3年間の包囲戦の末にカルタゴを攻略。市民は最後まで抵抗し、家屋一つ一つが戦場となった。陥落後、カルタゴは組織的に破壊され、6日間燃え続けた。アエミリアヌスは炎上する都市を見て涙を流した。
BC146年、アカイア同盟の反抗に対してローマのルキウス・ムンミウスが遠征。コリントスを攻略し、男性は殺害、女性と子供は奴隷として売却、都市は完全に破壊された。ギリシア文化の至宝である美術品はローマに運ばれ、ギリシアは事実上ローマの属州となった。カルタゴの滅亡と同年であり、BC146年は地中海世界におけるローマ覇権の確立を象徴する年。
BC133年、護民官ティベリウス・グラックスが大土地所有の制限と没落農民への土地分配を目指す農地法を提案。元老院の反対を押し切り民会で可決させたが、再選を目指した際に保守派の元老院議員らに棍棒で殴り殺された。護民官の「身体不可侵権」が初めて破られた事件であり、ローマ政治における暴力の常態化の始まりを告げた。
兄ティベリウスの遺志を継ぎ、BC123年に護民官に就任したガイウスは、穀物法・道路建設・騎士階級への裁判権付与など兄よりも広範な改革を推進。しかしBC121年、元老院が史上初の「元老院最終勧告」を発動。ガイウスはアウェンティヌスの丘で追い詰められ、奴隷に命じて自らの首を斬らせた。3,000人の支持者が殺害された。
ヌミディア王ユグルタがローマの保護国の王位を巡って陰謀を重ね、ローマ元老院の腐敗を暴露した戦争。ユグルタは元老院議員を買収して処罰を免れ「ローマは売り物の都市だ」と嘲笑した。BC107年にマリウスが指揮を執り、BC105年にスッラがユグルタを捕らえて終結。マリウスの軍制改革の契機となった。
BC107年、ユグルタ戦争を契機にマリウスが革命的な軍制改革を実施。従来の市民兵制(財産に応じた兵役義務)を廃止し、無産市民の志願兵制に転換した。装備は国費で支給、長期勤務後には退役兵への土地給付を約束。これによりローマ軍は職業軍人による精強な常備軍となったが、兵士は国家でなく将軍個人に忠誠を誓うようになった。
BC113年頃からゲルマン系のキンブリ族とテウトニ族がローマ領に侵入し、複数のローマ軍を壊滅させた。BC102年にマリウスがアクアエ・セクスティアエ(現エクス・アン・プロヴァンス)でテウトニ族を、BC101年にウェルケッラエでキンブリ族を殲滅。ローマを「蛮族の脅威」から救い、マリウスは「ローマの救世主」と讃えられた。
BC91年、ローマ市民権を求めるイタリア同盟諸都市が一斉に蜂起。同盟市側は独自の首都と通貨を設け、「イタリア」という国号を掲げた。ローマはマリウス・スッラら優秀な将軍を投入して鎮圧に成功したが、最終的に同盟市にローマ市民権を付与して和平を達成。結果的にイタリア半島全体のローマ化が進んだ。
BC88年、ミトリダテス戦争の指揮権を巡ってマリウスと対立したスッラが、史上初めてローマ軍を率いてローマ市内に進軍。マリウス派を追放し、自らの法案を通した後にミトリダテス戦争に出発した。「軍団をローマに向ける」というタブーが破られた瞬間であり、以後カエサル・オクタウィアヌスが同じことを繰り返す前例となった。
BC82年、ミトリダテス戦争から帰還したスッラがコッリナ門の戦いでマリウス派を撃破し、無期限の独裁官に就任。「プロスクリプティオ」(公敵追放令)により政敵数千人を殺害し、その財産を没収。元老院の権限を強化し護民官の権限を削減する保守的改革を実施した後、BC79年に独裁官を自発的に辞任して引退した。
マリウス派の将軍セルトリウスがスッラの粛清を逃れてヒスパニアに渡り、現地部族と結んでローマに対する独立政権を樹立。巧みな遊撃戦で元老院が派遣した複数の将軍を撃破し、若きポンペイウスさえ苦戦させた。BC73年、部下ペルペルナの裏切りにより暗殺されて終結した。
BC73年、カプアの剣闘士養成所から脱走したスパルタクスら約70人が反乱を起こした。逃亡奴隷や貧農が合流して12万人規模の大軍に膨れ上がり、ローマ軍を何度も撃破。BC71年にクラッススの8個軍団が鎮圧し、スパルタクスは戦死。捕虜6,000人はローマからカプアまでのアッピア街道沿いに磔刑に処された。
ポンペイウスが東方遠征でポントス王ミトリダテス6世を最終的に敗北に追い込み、シリア、ユダヤを含む東地中海を平定した。ミトリダテスは毒を飲んだが(長年の免疫で)効かず、護衛兵に剣で殺してもらった。ポンペイウスの東方遠征によりローマの年収は倍増し、彼は「マグヌス(偉大なる者)」の称号を確立した。
BC63年、没落貴族カティリナが借金苦の市民を煽動してクーデターを計画。執政官キケロが陰謀を察知し、元老院で4回にわたるカティリナ弾劾演説を行って陰謀を暴露した。カティリナはローマを脱出してエトルリアで反乱軍を組織したが、BC62年のピストリアの戦いで全滅。キケロは「祖国の父」の称号を得たが、裁判なしに市民を処刑した件は後に批判された。
BC53年、三頭政治のメンバー・クラッススがパルティア遠征を強行。カルラエの戦いでパルティアのスレナス率いるパルティア騎馬弓兵(パルティアン・ショット)に完敗し、ローマ軍2万が戦死、1万が捕虜。クラッスス自身も講和交渉中に殺害された。パルティア王は溶かした金をクラッススの口に流し込んだという。
BC60年、カエサル・ポンペイウス・クラッススが秘密裏に同盟を結び、元老院を迂回して三者の利益を実現する「第一次三頭政治」を形成。カエサルは翌年の執政官就任とガリア属州の総督職を、ポンペイウスは東方遠征の事後承認を、クラッススは徴税請負人への便宜を得た。正式な制度ではなく私的同盟だったが、事実上元老院の権威を無力化した。
BC58年、カエサルがガリア総督としてヘルウェティイ族の移動を口実にガリアに侵攻。8年間にわたる遠征で全ガリアを征服し、ブリタンニアにも2度渡海した。「ガリア戦記」を自ら著して戦況をローマ市民にリアルタイムで伝え、政治的プロパガンダとしても活用。推定100万のガリア人が殺害され、100万が奴隷にされたとされる。
BC52年、ガリア統一の指導者ウェルキンゲトリクスがアレシア要塞に立てこもった。カエサルは延長18kmの二重包囲線(内側は要塞包囲用、外側はガリア援軍撃退用)を構築するという前代未聞の工事を実施。25万のガリア援軍を撃退しつつ、飢餓に苦しむアレシアを陥落させた。ウェルキンゲトリクスはカエサルの足元に武器を投げて降伏した。
BC49年1月10日、カエサルは元老院の武装解除命令を拒否し、第13軍団を率いてルビコン川を渡った。「賽は投げられた(Alea iacta est)」の名言と共に、これは元老院とポンペイウスに対する事実上の宣戦布告であった。ローマ法では将軍がルビコン川以南に軍を率いて入ることは反逆罪に当たった。ポンペイウスはローマを放棄してギリシアに撤退した。
BC48年、カエサルとポンペイウスの決戦。ポンペイウス軍が兵力で上回っていたが、カエサルは精鋭の第10軍団を中心に巧みな戦術で勝利。ポンペイウスは敗走してエジプトに逃れたが、プトレマイオス13世の家臣に暗殺された。カエサルはポンペイウスの首を見て涙を流したとされる。この勝利でカエサルはローマ世界の唯一の実力者となった。
BC46年、カエサルがアフリカのポンペイウス派残存勢力を撃破した後、小カトーはウティカで自殺を選んだ。カエサルの恩赦を受けることは「暴君の正当性を認めること」だとして拒否。プラトンの『パイドン』(魂の不滅について)を読んだ後に剣で腹を刺したが死にきれず、医師に縫合された傷口を自ら引き裂いて死んだ。
BC44年3月15日(イドゥス・マルティアエ)、終身独裁官カエサルがブルトゥス・カッシウスら約60人の元老院議員に23ヶ所を刺されて暗殺された。カエサルはポンペイウス劇場の元老院議場に入った際、請願者に取り囲まれて一斉に刺された。暗殺者たちは「暴君は倒れた!共和政は復活した!」と叫んだが、市民は恐怖と混乱に陥った。
BC43年、オクタウィアヌス・アントニウス・レピドゥスが正式に「共和政再建のための三人委員会」を結成(第二次三頭政治)。第一次と異なり法律で権限が定められた。直ちにプロスクリプティオ(粛清リスト)を作成し、政敵約300人の元老院議員と2,000人の騎士階級を処刑。キケロもアントニウスの要求で粛清され、首と手をフォルムに晒された。
BC42年、オクタウィアヌス・アントニウス連合軍がブルトゥス・カッシウスの共和派軍とフィリッピで激突。第一戦ではカッシウスが誤報で自軍敗北と勘違いして自殺。第二戦でブルトゥスも敗れて自殺した。「最後の共和主義者」の死により、共和政の回復は完全に不可能となった。
BC31年、オクタウィアヌスとアントニウス・クレオパトラ連合軍がギリシア西岸のアクティウムで海戦。戦闘の最中にクレオパトラの艦隊が戦場を離脱し、アントニウスもこれを追って撤退。残されたアントニウス軍は降伏した。翌年エジプトに追撃したオクタウィアヌスの前にアントニウスは自殺、クレオパトラも毒蛇に噛まれて自殺した。プトレマイオス朝エジプトの滅亡。
BC27年1月13日、オクタウィアヌスが形式的に全権力を元老院に返上し、元老院が感謝の印として「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を授与。実質的には軍事力と属州統治権を保持したまま、「共和政の復興者」を装いつつ事実上の帝政を開始した。約500年続いたローマ共和政は静かに幕を閉じ、ローマ帝国の時代が始まった。