イヴァン3世の即位 — 集める公国
政治・外交モスクワ大公位を継いだイヴァン3世は、周囲の諸公国を買収・婚姻・軍事のあらゆる手段で併合していった。二百年にわたりモンゴル系の宗主権のもとで徴税の代行者として力を蓄えてきた小国が、ここから四十年でルーシの統一者に変わる。
モスクワ大公位を継いだイヴァン3世は、周囲の諸公国を買収・婚姻・軍事のあらゆる手段で併合していった。二百年にわたりモンゴル系の宗主権のもとで徴税の代行者として力を蓄えてきた小国が、ここから四十年でルーシの統一者に変わる。
コンスタンティノープル陥落で滅んだ東ローマ最後の皇帝の姪を妃に迎えた。教皇はこれを機に東方教会をローマへ引き寄せようとしたが、思惑は外れる。モスクワは双頭の鷲を紋章に採り、正教世界の中心を継ぐ国として自らを位置づけ始めた。
リトアニアと結ぼうとしたノヴゴロドへイヴァン3世が遠征し、自治を廃して直接支配下に置いた。市民集会を招集する鐘はモスクワへ運び去られる。北はコラ半島、東はウラルに及ぶ広大な交易国家がモスクワのものとなり、大公国の領域は一挙に数倍になった。
ボローニャの建築家フィオラヴァンティが生神女就寝大聖堂を完成させ、続いて城壁と塔がイタリアの技師によって煉瓦で築き直された。古いウラジーミルの聖堂の形を守りながら、構造と施工はルネサンスの技術による。今日見るクレムリンの骨格はこのときのものである。
貢納の停止に怒った大オルダのアフマド・ハンが軍を進め、両軍はウグラ川を挟んで数週間対峙した。決戦のないまま川が凍り始めるとタタール軍は退き、モスクワは以後ふたたび貢納を納めなかった。二百四十年続いた宗主権が、戦わずに終わった。
二百年にわたりモスクワと大公位を争ってきたトヴェリ公国が、リトアニアと通じたことを口実に併合された。大公は国外へ逃れ、抵抗はほとんど無かった。北東ルーシで独立を保っていた有力な公国はこれで無くなり、イヴァン3世は全ルーシの君主を名乗る。
統一された法典が編まれ、裁判の手続きと官吏の職務が定められた。同時に、農民が地主のもとを離れられるのは秋の聖ゲオルギオスの日の前後二週間だけと決められる。土地に人を縛る制度がここから始まり、百五十年かけて農奴制へ育っていった。
プスコフの修道士フィロフェイが大公に宛てた書簡に、二つのローマは倒れ、第三のローマは立ち、第四のローマは無いという一節が現れる。ローマとコンスタンティノープルが失われたあと、正教世界を守る責任がモスクワにあるという主張である。
三度の遠征のすえ、リトアニアからスモレンスクを奪った。モスクワへ向かう西の街道を扼する要衝であり、以後この都市の帰属はロシアとポーランド・リトアニアの戦争のたびに争点になる。プスコフとリャザンの併合と合わせ、北東ルーシの統一はここで完成した。
十六歳のイヴァン4世が、府主教マカリーの主宰でツァーリとして戴冠した。ルーシの君主がこの称号を正式に用いた最初である。称号は東ローマ皇帝とキプチャク・ハンの双方を含意し、モスクワが誰にも臣従しない帝国であることの宣言だった。同じ年にアナスタシアを妃に迎えている。
身分の代表を集めた全国会議が初めて開かれ、続いて法典の改訂・地方の自治機構の整備・常備の銃兵隊の創設が進んだ。教会の慣行を百の条項に定める会議も開かれる。イヴァン4世の治世の前半は、後半の恐怖政治とは対照的に制度づくりの時期だった。
十五万の兵と大量の火薬で城壁を崩し、カザン・ハン国を滅ぼした。ジョチ・ウルスの後継国家をロシアが初めて併呑した出来事であり、ヴォルガ中流の交易路が開く。イスラム教徒の住む土地を統治する経験も、ここから始まった。
カザンに続いてヴォルガ河口のアストラハン・ハン国を併合し、ヴォルガの全流域がロシアのものになった。カスピ海を通じてペルシアと中央アジアへ通じる商路が開け、イギリスの商人がモスクワ経由でペルシアを目指すようになる。
バルト海の港を得るためリヴォニア騎士団領へ攻め入った。初めは順調だったが、騎士団の解体によってスウェーデン・ポーランド・デンマークが介入し、二十五年の消耗戦になる。得るものなく終わり、国内は疲弊してオプリーチニナの時代と重なった。
イヴァン・フョードロフが年記のある印刷本をモスクワで刊行した。西欧の活版印刷から百年以上遅れての導入である。写字生たちの反発を受けて工房を追われ、彼はリトアニアへ移ってウクライナで活動を続けた。
戦線の司令官だったクールプスキーが粛清を恐れてリトアニアへ逃れ、亡命先からツァーリの専制を非難する書簡を送った。イヴァン4世はこれに長文で反論し、君主は神にのみ責任を負うと書いている。専制の是非をめぐる論争が、当事者どうしの文書として残った。
イヴァン4世は突然都を離れて退位をほのめかし、望みどおりの権限を与えられて戻った。国土を自分だけの直轄領と残りに分け、黒衣の親衛隊オプリーチニキを組織して大貴族を粛清する。恐怖による統治が七年続き、名門の家系が次々に消えた。
リトアニアと通じたという密告を口実に、オプリーチニキがノヴゴロドを襲い、数週間にわたって住民を殺し続けた。犠牲者の数は数千から数万まで諸説ある。かつての共和国はこれで完全に力を失い、北方の交易も長く回復しなかった。
塩業で富を築いたストロガノフ家が雇ったコサックの一団が、ウラルを越えてシビル・ハン国の都を落とした。国家の事業ではなく商人の私兵による遠征だったが、開かれた道を国家が引き継ぐ。毛皮を求める進出は、六十年でオホーツク海に達した。
五十年を超える治世の終わりに残されたのは、疲弊した国土と病弱な次男フョードルだった。長男は数年前に父自身の手にかかって死んでいる。実務は義弟のボリス・ゴドゥノフが担い、リューリク家の血筋は次の代で絶えることになる。
コンスタンティノープル総主教をモスクワに招いて滞在させ、モスクワにも総主教座を認めさせた。ロシア教会が名実ともに独立した組織になる。第三のローマという主張に、教会の位階という具体的な裏づけが与えられた。
イヴァン4世の末子ドミートリーが、流刑同然に置かれていた町で喉を切って死んだ。調査委員会は癲癇の発作による事故と結論したが、ゴドゥノフが殺させたという噂は消えなかった。この噂が、十数年後に僭称者を生む土壌になる。
フョードル1世が嗣子なく死に、七百年続いたリューリク家が絶えた。全国会議はゴドゥノフを選んでツァーリとする。実務の能力は誰もが認めたが、血統によらない君主という一点が終始その支配を不安定にした。
夏に霜が降りて作物が実らず、三年続いた飢饉で数十万が死んだ。ゴドゥノフは穀物を放出し公共事業で賃金を配ったが追いつかない。飢えた農民が地主のもとを離れて各地をさまよい、その群れが数年後の僭称者の軍勢になった。
死んだはずの皇子を名乗る人物が、ポーランドの貴族の支援と各地の民の呼応を得て進軍した。ゴドゥノフの急死で軍が寝返り、モスクワへ無血で入城してツァーリとなる。以後十年近く、複数の政権と外国軍が入り乱れる動乱時代が続いた。
逃亡農奴・コサック・南部の兵士が加わった大規模な蜂起がモスクワを包囲した。指導者は偽ドミートリーの部下を称し、農奴制の廃止を掲げている。半年で鎮圧されたが、動乱が王位争いだけでなく社会そのものの反乱でもあったことを示した。
スウェーデンの援兵を求めたことがポーランドの本格的な介入を招いた。シュイスキーは廃されて捕虜となり、貴族たちはポーランド王子を新しいツァーリに迎えることを決めてモスクワに軍を入れる。同じ頃スウェーデンはノヴゴロドを占領した。
ニジニ・ノヴゴロドの商人ミーニンが資金を集め、ポジャルスキー公が軍を率いて都を包囲した。数か月の攻囲のすえポーランド軍は降伏し、モスクワは解放される。国家の機構が崩れたところを、地方都市の自発的な組織が埋めた。
全国会議が十六歳のミハイル・ロマノフをツァーリに選んだ。イヴァン4世の最初の妃の一族という血縁が正統性の根拠であり、各派閥にとって最も敵の少ない人物でもあった。この選出でロマノフ朝が始まり、三百四年続くことになる。
スウェーデンはノヴゴロドを返す代わりに、イングリアとカレリアを得た。ロシアはバルト海への出口を完全に失い、以後九十年にわたり北の海に船を出せなくなる。翌年にはポーランドとの休戦でスモレンスクも手放した。
ポーランドに八年抑留されていたツァーリの父が帰国し、総主教となって国政を握った。公文書は父子二人の名で出され、事実上の共同統治になる。軍制の西欧化に着手し、外国人の傭兵と教官を雇い入れて新式の連隊を編成させた。
ポーランド王の空位に乗じてスモレンスクの奪回を試みたが、逆に包囲されて降伏した。西欧式に編成した連隊は期待どおりに働かず、外国人将校と在来の貴族軍の指揮系統も噛み合わない。改革の第一歩は失敗に終わった。
ドン・コサックが独断でオスマンの要塞アゾフを奪い、五年守り抜いたうえでツァーリに献上を申し出た。しかし全国会議はオスマンとの戦争を避けるため受け取りを拒み、コサックは要塞を破壊して退いた。南への進出はまだ国力の外にあった。
コサックのデジニョフが小舟でコリマ川を出て東へ向かい、ユーラシアの東端を回ってアナディリ川に達した。アジアとアメリカが陸続きでないことを事実として確かめた最初の航海である。しかし報告は現地の書庫に埋もれ、八十年後まで知られなかった。
全国会議が承認した法典が、逃亡農民を捜索する期限を撤廃した。農民は生まれた土地と地主に永久に結びつけられ、その子も同じ身分を継ぐ。都市の住民も職と居住地に固定された。十九世紀半ばまで続くロシアの社会の骨格が、この一冊で定まった。
毛皮を求めてアムール川へ入ったコサックが、現地の諸族から貢納を取り立てて砦を築いた。しかしその地はすでに清が宗主権を主張する範囲であり、清軍との衝突が始まる。ユーラシアの東西から広がった二つの帝国が、初めて直接ぶつかった。
総主教ニーコンがギリシアの原典に合わせて典礼書と十字の切り方を改めさせた。二本指を三本指にするといった細部の変更が信仰の根幹を揺るがすものと受け取られ、従わない人々が古儀式派として分離する。数百万が体制の外に置かれ、その分裂は今日まで続いている。
ポーランドに対する六年の蜂起を単独では支えきれなくなったフメリニツキーが、コサックの集会を開いてロシアのツァーリの保護を受け入れた。これによりロシアはポーランドと十三年戦い、キエフと左岸ウクライナを得る。ロシアが東スラヴの他の地域を版図に加えた最初の出来事である。
教会の権威を世俗の権力より上に置こうとしたニーコンは、ツァーリと衝突して総主教座を追われた。しかし同じ公会議は彼の改革を追認し、従わない者を破門する。改革者は失脚し改革は残るという結果になり、古儀式派への迫害が本格化した。
外務長官オルディン=ナシチョーキンが、外国商人の国内での小売りを制限して自国商人を保護する規則を定めた。同じ時期に定期の郵便と、外国の情報を訳して伝える報知の仕組みも整えている。西欧の制度を選んで取り入れるという発想が、ピョートル1世を半世紀先取りした。
ドン・コサックの首領が農民と都市の貧民を集め、農奴制の廃止を掲げてヴォルガを北上した。アストラハンとツァリーツィンを落とし、数万が加わる。シンビルスクで敗れて捕らえられ、赤の広場で四つ裂きにされた。会議法典から二十年での爆発だった。
ツァーリの死をめぐって銃兵隊が宮廷に乱入し、幼いピョートルの目の前で親族が殺された。異母姉ソフィヤが摂政となり、ピョートルは弟イヴァンとの共同のツァーリとして名だけを与えられる。この体験が、後年の親衛隊への不信と徹底した軍制改革の原点になった。
アムール流域での四十年の衝突のすえ、ロシアと清が国境を定めた。ロシアはアルバジンの砦を破棄して外興安嶺の北へ退き、代わりに北京での交易を認められる。清が対等な形式で結んだ最初の条約であり、以後百七十年この線が動かなかった。
ピョートル1世は身分を隠して二百五十人の使節団に加わり、西欧を一年半かけて回った。オランダの造船所で職工として働き、イギリスで解剖学や築城術を見て、技術者を数百人雇い入れて連れ帰る。君主が自ら手を動かして技術を学んだ例である。
帰国したピョートル1世は貴族の髭を自ら鋏で切り、髭を残す者に税を課した。翌年には世界創造からの紀年をやめて西暦を採り、新年を九月から一月へ移す。服装も西欧式に改めさせ、社会の外見を短期間で塗り替えた。
バルト海の出口を得るためスウェーデンに宣戦したが、十八歳のカール12世に四倍の兵力で敗れた。大砲のほとんどを失う完敗である。しかしカール12世が追撃せずポーランドへ向かったため、ロシアは軍を作り直す九年を得た。
奪ったばかりのネヴァ川口の湿地に要塞を築き、そこを新しい都と定めた。全国から労働者が徴発され、数万が病と事故で死んだといわれる。ヨーロッパへ開いた窓として設計されたこの都市に、一七一二年には宮廷ごと移された。
ウクライナへ深く進んだカール12世の軍を、九年かけて作り直したロシア軍が野戦で破った。スウェーデン軍はほぼ壊滅し、王はオスマン領へ逃れる。バルト海の覇権はここで移り、ロシアはヨーロッパの列強の一つとして扱われるようになった。
改革になじまない皇太子がウィーンへ逃れ、説得されて帰国したのち反逆の疑いで取り調べを受けた。父が自ら尋問に立ち会い、拷問のすえ獄死する。改革に反対する勢力の希望はここで断たれ、ピョートル1世は後継者を皇帝が自由に指名できる法を定めた。
二十一年の北方戦争が終わり、ロシアはイングリア・エストニア・リヴォニアを得てバルト海の東岸を手中にした。元老院はピョートル1世に皇帝の称号を奉り、国号はロシア帝国となる。同じ年に総主教座を廃して聖務会院を置き、教会を国家の一部門にした。
軍・文官・宮廷の官職を十四の等級に整理し、下から順に昇る仕組みを定めた。一定の等級に達すれば平民でも貴族の身分を得られる。門閥ではなく勤務によって地位が決まる原則が導入され、以後二百年ロシアの官僚制の骨格であり続けた。
死の前年、ピョートル1世はアジアとアメリカが陸続きかを確かめる探検を命じた。ベーリングは二度の航海でアラスカへ達し、北太平洋の海図を作る。この探検が毛皮交易の道を開き、のちのロシア領アメリカにつながった。
五十二歳で死んだ。軍・行政・教会・暦・服装・都のすべてを作り替え、ロシアをヨーロッパの列強にした一方、後継者を指名する法を作りながら自らは指名しなかった。近衛連隊を握るメーンシコフが妃エカチェリーナを担ぎ、女帝が即位する。
最高枢密院はアンナを即位させるにあたり、宣戦・課税・重臣の任免を勝手にできないとする条件書に署名させた。しかし近衛と中小貴族の支持を得たアンナは、人々の前でその紙を破り捨てて専制を回復する。ロシアで君主の権限を文書で縛る試みは、これで六十年止まった。
女帝の寵臣ビロンを中心にバルト・ドイツ系の側近が要職を占め、秘密官房による密告と摘発が広がった。数万が取り調べを受けたとされる。外国人による支配という反発が、次の即位を後押しすることになる。
ピョートル1世の娘が近衛連隊を率いて宮廷に入り、乳児の皇帝を廃して即位した。私は誰の娘か覚えているか、と兵に呼びかけたと伝えられる。血統と近衛の支持が結びついて政権が変わるという、この世紀に繰り返される形の典型である。
ロモノーソフの建議により、ロシアで最初の大学が設けられた。神学部を置かず、哲学・法学・医学の三学部から始まっている。彼はロシア語の文法を整理し、化学と物理の実験を行い、詩も書いた。学問が外国人だけのものでなくなる転機になった。
ロシア軍は東プロイセンを占領し、クネルスドルフでフリードリヒ2世に大打撃を与え、一七六〇年には一時ベルリンに入った。プロイセンは崩壊寸前まで追い込まれる。しかしエリザヴェータの急死とプロイセン崇拝者ピョートル3世の即位で、ロシアは戦線を離脱した。
ピョートル3世は貴族の国家への奉仕義務を免除する法を出した。仕える義務が消えて農民を持つ権利だけが残り、農奴制の建前が崩れる。しかし戦争の放棄と教会領の没収で敵を作り、半年で妃のクーデタにより退位して殺された。
ドイツの小公国出身の妃が近衛の支持で夫を廃し、自ら皇帝として即位した。ヴォルテールらと文通し、法典編纂のための委員会を招集して自ら訓令を書く。しかし委員会は成果なく解散し、農奴制はむしろ強化された。
殺されたはずのピョートル3世を名乗るコサックが、農奴解放と人頭税の廃止を掲げて蜂起した。ウラルの鉱山労働者、バシキール人、逃亡農奴が加わり、広大な地域を席巻する。二年で鎮圧され、指導者はモスクワで処刑された。
プガチョフの乱を受けて、県の数を倍増させ、行政・司法・財政の機構を地方に張り巡らせた。貴族の会議に地方行政への参加を認め、統治の担い手として組み込んでいる。中央から末端まで届く官僚機構の骨格が、ここでできた。
二度の対オスマン戦争でクリミア・ハン国を保護下に置いたのち、これを併合した。ジョチ・ウルスの後継国家の最後の一つがここで消える。ポチョムキンがセヴァストポリを軍港として建設し、黒海艦隊が編成された。
女帝が外国の使節を伴って新しく得た南部を視察した。ポチョムキンは道中に村と港を整え、繁栄ぶりを見せる。これを張りぼての村だと嘲る話が広まり、見せかけの繁栄を指す言葉として今日まで残った。
官吏ラジーシチェフが、農奴制の現実を旅行記の体裁で描いた本を自費で刊行した。フランス革命の翌年だったこともあり、女帝はこれをプガチョフより危険と評して死刑を宣告し、減刑してシベリアへ流す。啓蒙を語ってきた治世が、言論への弾圧に転じた。
漂流民を送り届ける名目で使節が根室に来航し、通商を求めた。幕府は長崎への入港許可証を渡すにとどめる。シベリアと北太平洋の毛皮交易を支える食糧の補給地として日本が意識されており、要求は極東経営の必要から出ていた。
プロイセン・オーストリアとの三度の分割によってポーランド・リトアニア共和国が消滅した。ロシアはリトアニア・白ルーシ・右岸ウクライナを得て、版図を西へ大きく広げる。ヨーロッパの主権国家が話し合いで解体された最初の例だった。
皇位を長子男系相続に固定する法を定め、皇帝が自由に後継を指名するというピョートル1世以来の仕組みを廃した。同時に農民の賦役を週三日に制限する詔を出し、貴族の特権を削る。憎まれて四年後に宮廷の陰謀で殺された。
父の暗殺を黙認したまま即位した若い皇帝は、当初は自由主義的な改革を語り、側近たちと国制の見直しを論じた。同じ年にグルジアを併合し、コーカサス山脈の南へ足がかりを得る。以後半世紀にわたる山岳の民との戦争が始まった。
村の司祭の子から皇帝の側近に上ったスペランスキーが、三権の分立と選挙による国会を含む改革案を書いた。実現したのは国家評議会の設置だけで、貴族の反発により本人は流刑となる。上からの立憲化の試みは、この時点では成立しなかった。
測量のため国後島に上陸したロシア海軍の艦長が捕らえられ、二年余り抑留された。レザノフの部下による樺太襲撃への報復という側面がある。商人高田屋嘉兵衛との交換で解放され、その手記は鎖国下の日本を内側から伝える記録として西欧で広く読まれた。
モスクワの手前でロシア軍が正面から迎え撃ち、一日の戦闘で両軍あわせて七万を超える死傷者を出した。決着はつかず、クトゥーゾフは軍を保つために退却を選ぶ。バグラチオンはこの戦いで重傷を負い、二週間後に死んだ。
クトゥーゾフは軍を残すためにモスクワを明け渡した。入城したフランス軍を待っていたのは、住民の去った都と各所から上がる火の手である。四分の三が焼け、講和の申し出は無視された。冬を前に補給の当てを失い、ナポレオンは退却を決める。
来た道を戻るしかなかったフランス軍は、焼き払われた街道で食糧を得られず、コサックの追撃と発疹チフスと寒さに削られた。ベレジナ川の渡河で決定的な損害を受ける。六十万を超えた軍のうち帰還できたのは一割に満たなかった。
パリまで進んだアレクサンドル1世は戦後の秩序づくりを主導し、ポーランドの大半を得てその王を兼ねた。キリスト教の原理に基づく君主の連帯として神聖同盟を提唱し、以後ヨーロッパの革命に介入する立場に立つ。ロシアの国際的な威信は頂点に達した。
アレクサンドル1世の急死による継承の混乱に乗じ、ナポレオン戦争でヨーロッパを見た青年将校たちが元老院広場に部隊を並べた。憲法と農奴解放を求めたが、統一した指揮を欠いたまま砲撃で散らされる。五人が絞首刑となり、多数がシベリアへ流された。
デカブリストの衝撃を受け、皇帝直属の官房に第三部が置かれ、憲兵隊とともに思想と言論の監視にあたった。検閲は事前審査に一本化され、大学の哲学講座は制限される。秩序の維持を最優先とする三十年の統治が始まった。
ウィーン会議で与えられた憲法と議会を持つポーランド立憲王国で、士官学校生の蜂起から独立戦争が起きた。一年で鎮圧され、憲法は廃されて軍政に置かれる。帝国の内部に立憲の地域を抱えるという状態は、これで終わった。
国民教育相ウヴァーロフが、ロシアの原理を三つの言葉で定式化した。西欧の思想を受け入れながらその政治的な帰結だけを退けるという構えであり、教育行政を通じて浸透させる。以後の反体制の議論も、この三語への賛否として組み立てられていく。
イスラム法に基づく国家を組織したシャミールが、山岳の民をまとめて二十五年にわたり抵抗した。圧倒的な兵力差を山岳戦と組織力で補い続ける。ロシアが経験した最も長い戦争の一つで、トルストイもレールモントフもこの戦線に従軍した。
日常のロシア語で詩と小説を書き、近代ロシア文学の言葉を作った詩人が、妻をめぐる決闘で撃たれて死んだ。三十七歳だった。皇帝自らが検閲者を務めるという特殊な立場に置かれ続けた生涯でもある。
死んだ農奴の名簿を買い集めて回る男を主人公に、地方の地主と官僚を描いた小説が刊行された。人が数として扱われる制度そのものが笑いの対象になっている。滑稽さの底に社会の歪みを見せる手法は、以後のロシア文学の型になった。
聖地の管理権をめぐる争いからオスマンと開戦し、ナヒモフの艦隊がシノプでオスマン艦隊を全滅させた。帆船どうしの海戦としては最後の大規模な勝利である。しかしこの一方的な勝利が英仏の警戒を呼び、両国の参戦を招いた。
英仏軍がクリミアに上陸し、黒海艦隊の母港を包囲した。ロシア側は自艦隊を沈めて港を塞ぎ、陸上で守る。汽船と施条銃を持つ相手に対し、帆船と滑腔銃で戦う軍の後進性が露わになった。十一か月の攻囲のすえ南岸を放棄する。
プチャーチンが長崎に来航してから二年、地震と津波で乗艦を失いながらの交渉のすえ条約が結ばれた。千島は択捉と得撫のあいだを国境とし、樺太は境を定めないまま両国民の雑居とする。ロシアと日本のあいだに初めて公式の国境ができた。
敗戦を受けて即位したばかりのアレクサンドル2世が講和に応じた。黒海に軍艦と要塞を置くことを禁じられ、ドナウ河口を失う。ヨーロッパの憲兵を自任してきた帝国が、その軍事的な後進性を誰の目にも明らかにされた。この敗北が大改革の直接の動機になる。
アイグン条約で黒龍江以北を得た東シベリア総督が、英仏連合軍と清の講和を仲介した見返りに沿海州を獲得した。ネルチンスク条約以来百七十年動かなかった国境が、二年でこれだけ東へ動く。同じ年に不凍港ウラジオストクが建設された。
アレクサンドル2世が農奴の人格的な自由を認める勅令を出した。しかし土地は無償では渡されず、農民は買い戻しの代金を四十九年賦で払うことになり、しかもその債務は村の共同体が連帯して負う。自由になったはずの農民が村を離れられないという状態が残った。
県と郡に選挙による地方自治体が設けられ、学校・病院・道路を担うようになった。同じ年の司法改革では、裁判の公開・弁護士制度・陪審が導入され、裁判所が行政から独立する。専制の下に自治と法の領域が生まれるという、矛盾を含んだ体制ができた。
現地の司令官がしばしば本国の指示を待たずに前進し、タシケント・ブハラ・ヒヴァ・コーカンドが次々に服属した。トルキスタン総督府が置かれ、綿花の産地として組み込まれる。南下はアフガニスタンでイギリスの勢力圏と接し、両国の長い緊張を生んだ。
クリミア戦争で守れないことが明らかになった北米の領土を、七百二十万ドルでアメリカへ売った。毛皮の獣が獲り尽くされて採算も失われていた。イギリス領カナダに奪われるよりはと考えた戦略的な判断でもある。
ナポレオンの侵攻を五百人を超える登場人物で描いた長編が完成した。英雄が歴史を動かすという見方を退け、無数の人間の意志の総和が出来事を作ると論じている。半世紀前の戦争を、帝国が自らの物語として語り直す作業でもあった。
数千の学生が農村へ入り、農民に社会主義を説いた。しかし農民は彼らを理解せず、しばしば当局へ突き出す。運動は失敗に終わり、宣伝ではなくテロによって体制を変えようとする流れが生まれた。
バルカンのスラヴ人の蜂起を支援してオスマンと開戦し、コンスタンティノープルの手前まで進んだ。しかし大ブルガリアを認めさせた講和はイギリスとオーストリアの反対で覆され、ベルリン会議で大幅に削られる。戦場での勝利が外交で失われた。
社会主義的な読書会で逮捕され、模擬処刑とシベリア流刑を経た作家が、最後の長編を刊行した。神が無ければすべては許されるという問いを軸に、信仰と理性、自由と責任を裁判の物語として書いている。同時代の革命運動への応答でもあった。
人民の意志党が投じた二個目の爆弾で皇帝が死んだ。現場を指揮したのは総督の娘ソフィヤ・ペロフスカヤである。皇帝はその日、憲法制定へ向かう諮問機関の設置を承認したばかりだった。その計画は後継によって直ちに破棄される。
メンデレーエフが元素を原子量の順に並べ、性質が周期的に繰り返すことを示した。まだ見つかっていない元素の場所を空欄として残し、その性質まで予言する。数年のうちに三つの元素が予言どおりに発見され、法則が受け入れられた。
父の死を受けて即位したアレクサンドル3世は、専制の不可侵を宣言する詔書を出した。起草したのは家庭教師でもあったポベドノスツェフである。地方自治への干渉、大学の自治の制限、初等教育の抑制が続き、ユダヤ人には居住と就学の制限が課された。
全長九千キロを超える鉄道の建設が始まった。人と物資と兵をユーラシアの端から端まで運べるようになり、シベリアへの入植が加速する。同時に、短絡路として満洲を横断する東清鉄道を敷いたことが、日本との対立を決定づけた。
ドイツとの再保障条約が更新されなかったことを受け、共和政のフランスと軍事同盟を結んだ。専制の帝国と共和国という取り合わせは当時驚きをもって迎えられる。フランス資本が鉄道と重工業に流れ込み、急速な工業化を支えた。
蔵相ヴィッテがルーブルを金と結びつけ、通貨の信用を確立した。外国資本が安心して入れるようになり、鉄道・製鉄・石油の投資が加速する。工業生産は十年で倍以上になったが、その資金は農民への重い課税と穀物輸出で賄われた。
義和団事件後も満洲に軍を置き続けたロシアと、朝鮮を勢力圏としたい日本の交渉が決裂した。日本軍が旅順を奉天を攻め、ロシアは鉄道一本に頼る補給で戦う。ヨーロッパの列強がアジアの国に敗れるという結果が、世界の見方を変えた。
バルト海から半年以上かけて回航してきた艦隊が、対馬海峡で待ち構えた日本の連合艦隊にほぼ全滅させられた。日英同盟のもとで各地の港が補給を拒み、到着した時点で乗員は疲弊しきっていた。この敗北が講和を不可避にする。
労働条件の改善と国会の開設を求める請願を携え、聖像と皇帝の肖像を掲げた数万の行進が冬宮へ向かった。軍が発砲し、多数が死ぬ。皇帝は都にいなかったが、民衆の側からは皇帝が撃たせたと受け取られた。第一次革命の発端である。
全国的なストライキに追い込まれ、ヴィッテの起草した詔書で国民の自由と国会の開設が約束された。ロシアに初めて選挙による立法機関ができる。しかし皇帝は基本法で国会の権限を大きく削り、以後は解散を繰り返して従順な議会を作っていった。
首相ストルイピンは農民が共同体を離れて土地を私有できるようにし、シベリアへの入植を後押しした。強い者を支えることで体制の支持基盤を作り替える構想である。同時に革命運動を軍法会議で厳しく弾圧し、数千が処刑された。
シベリアの農民出身の祈祷僧が、血友病の皇太子の症状を和らげたことから皇后の絶大な信頼を得た。皇帝が前線に出ているあいだ、大臣の任免にまで影響を及ぼしたとされる。宮廷の腐敗の象徴と見なされ、王朝の権威を決定的に損なった。
セルビアを支援して総動員をかけ、ドイツと開戦した。タンネンベルクで大敗し、以後は装備と弾薬の不足に苦しみながら広い戦線を維持する。都はペトログラードと改名された。三年で数百万の死傷者を出し、社会は限界に達した。
広い正面から同時に攻める新しい戦法でオーストリア軍の戦線を突破した。第一次大戦でロシア軍が挙げた最大の戦果である。しかし損害も甚大で、続く攻勢の失敗が軍の士気を崩した。ルーマニアの参戦を招いて守る戦線がかえって伸びる。
王朝を救うためとして、皇族を含む貴族の一団が祈祷僧を殺した。しかし宮廷への不信はもはや個人の排除では収まらず、二か月後に革命が起きる。体制の内側にいる者が体制を守るために殺人に及んだこと自体が、末期の様相を示していた。
食糧を求める行列と女性労働者のデモから始まった動きに守備隊が合流し、数日で都は制御を離れた。国会の委員会が臨時政府を作り、同時に労働者と兵士の評議会が並び立つ。ニコライ2世は列車の中で退位し、三百四年続いたロマノフ朝が終わった。
スイスにいたレーニンが、ドイツの手配した封印列車で帰国した。臨時政府への協力を拒み、すべての権力をソヴィエトへと訴える。戦争の即時停止・土地の農民への分配・パンという要求は、戦争継続を掲げる臨時政府との差を鮮明にした。
ボリシェヴィキが軍事革命委員会を通じて駅・橋・電信・冬宮を押さえ、臨時政府を倒した。翌日には土地に関する布告と平和に関する布告が出される。四百五十五年前に一公国として始まり、ユーラシアの北半分を覆った帝国は、ここで別の国家に置き換わった。