享徳の乱
戦い関東の戦国化の始まりとなった大乱。古河公方・足利成氏と関東管領・上杉憲忠の対立が全面戦争に発展。関東は公方派と管領派に分裂し、30年近くにわたる争乱が続いた。この乱により関東の秩序は完全に崩壊し、戦国時代への道を開いた。
関東の戦国化の始まりとなった大乱。古河公方・足利成氏と関東管領・上杉憲忠の対立が全面戦争に発展。関東は公方派と管領派に分裂し、30年近くにわたる争乱が続いた。この乱により関東の秩序は完全に崩壊し、戦国時代への道を開いた。
将軍後継問題と守護大名の対立が引き金となり、細川勝元率いる東軍と山名宗全率いる西軍が京都で11年間にわたり衝突。京都は焦土と化し、室町幕府の権威は完全に失墜。この乱を契機に各地の守護大名の力が衰え、下剋上の風潮が広がり戦国時代が幕を開けた。
山城国の国人衆と農民が守護大名・畠山氏の内紛に巻き込まれることに反発し、畠山両軍の撤退を要求して自治を実現した画期的な事件。約8年間にわたり国人による自治が行われた。中世における民衆の政治参加の先駆的事例として注目される。
本願寺門徒(一向宗)が加賀国の守護・富樫政親を討ち、約100年にわたり「百姓の持ちたる国」を実現した。宗教勢力が一国を支配するという、戦国時代ならではの異例の事態。信長の北陸征伐まで続いた門徒支配は、一向一揆の脅威を天下に知らしめた。
管領・細川政元がクーデターを起こし、将軍足利義材(後の義稙)を廃立して義澄を擁立した。この政変により将軍の権威は完全に形骸化し、室町幕府は実質的に機能を停止。「戦国時代の真の始まり」と評する歴史家も多い。
伊勢宗瑞(北条早雲)が堀越公方・足利茶々丸を攻め滅ぼし伊豆を支配下に置いた。一介の素浪人(実際は幕府官僚出身)から戦国大名へのし上がった下剋上の象徴的事件。これにより関東の戦国時代が本格的に始まった。
北条早雲が大森氏から小田原城を奪取し、相模への進出拠点とした。牛の角に松明をつけて夜襲をかけたとする伝説もある。以後、小田原城は後北条氏五代約100年にわたる居城となり、関東最大の城郭に発展する。
戦国大名の嚆矢・北条早雲が88歳(異説あり)で死去。伊豆討入りから相模平定まで、一代で関東の覇者への道筋を築いた。二代目・氏綱は父の遺志を継ぎ「北条」姓を名乗り、武蔵への進出を開始した。
武田晴信(後の信玄)が父・信虎を駿河の今川義元のもとに追放し、甲斐武田家の家督を継承した。信虎の暴政に苦しむ家臣団が晴信を担いだクーデターとされる。これにより信玄は21歳で甲斐の主となり、信濃侵攻への道を開いた。
毛利元就が大内氏の援軍を得て、尼子晴久の大軍を撃退した防衛戦。この勝利が毛利家躍進の契機となった。元就は巧みな情報戦と地の利を活かし、数に勝る尼子軍を退けた。
ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着し、日本に鉄砲が伝来した。種子島時堯が二挺の鉄砲を購入し、刀鍛冶に複製を命じたことから日本での量産が始まった。わずか30年後の長篠の戦いでは数千挺が戦場に投入され、日本の戦争のあり方を根本的に変えた。
北条氏康が上杉憲政・足利晴氏連合軍8万に対しわずか1万の兵で夜襲を仕掛け大勝した。日本三大奇襲の一つに数えられる。この勝利により北条氏は関東の覇権を確立し、扇谷上杉家を事実上滅亡させた。
武田信玄の信濃侵攻が村上義清に阻まれた痛恨の敗戦。重臣・板垣信方と甘利虎泰が討死し、信玄自身も負傷した。信玄にとって数少ない大敗の一つで、以後は力攻めを避け調略を重視する戦術に転換した。
三好長慶が管領・細川晴元と将軍足利義輝を京都から追放し、畿内の実権を掌握した決定的な戦い。長慶は将軍を上回る権力を握り、「最初の天下人」とも評される存在となった。この戦いは、武家政権の構造が根本的に変わった転換点。
イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝えた。島津氏の許可を得て布教を開始し、その後、山口・京都・豊後で活動。南蛮貿易とともにキリスト教は急速に広まり、戦国時代の文化・外交に大きな影響を与えた。
武田信玄が村上義清の砥石城を攻めるも大敗を喫した。信玄軍は1000人以上の死傷者を出す惨敗で、信玄の信濃侵攻の中でも最大級の挫折。後に真田幸隆(昌幸の父)が調略で砥石城を落とし、村上義清は上杉謙信を頼って越後に逃れた。
武田信玄・北条氏康・今川義元の三者が善得寺で会盟し、三国同盟を成立させた。太原雪斎の外交手腕により実現。三者の姻戚関係で結ばれたこの同盟により、信玄は信濃侵攻に、氏康は関東制覇に、義元は上洛に専念できるようになった。
毛利元就が陶晴賢率いる大軍を厳島に誘い込み、暴風雨に乗じて奇襲を仕掛けて壊滅させた。日本三大奇襲の一つ。元就は事前に偽の内通者を使って陶軍を島に上陸させる謀略を展開。この勝利で大内氏の旧領を吸収し、中国地方の覇者となった。
斎藤道三が息子・義龍に攻められ討死した親子対決。道三は義龍を愚鈍と侮っていたが、義龍の電撃的な挙兵に対応できなかった。死の直前、道三は国譲り状を信長に送り、美濃を信長に託そうとした。この一件が後の信長の美濃攻略の大義名分となった。
松永久秀と三好三人衆が将軍・足利義輝を二条御所で暗殺した事件。「剣豪将軍」義輝は自ら太刀を振るい奮戦したが、多勢に無勢で討ち取られた。この事件は室町幕府の権威を決定的に失墜させ、信長上洛の伏線となった。
織田信長がわずか2000〜3000の兵で今川義元率いる2万5000の大軍を奇襲し、義元を討ち取った戦国史上最大の番狂わせ。豪雨に乗じた奇襲で今川本陣を急襲。この勝利で信長は一躍天下に名を轟かせ、松平元康(家康)は今川家から独立を果たした。日本三大奇襲の一つ。
武田信玄と上杉謙信の五度にわたる川中島合戦の中で最も激しい第四次合戦。啄木鳥戦法を看破した謙信が信玄本陣に突撃し、信玄が軍配で謙信の太刀を受けたとされる一騎打ちは戦国最大の名場面。両軍合わせて死傷者は数千に上り、信玄の弟・信繁もこの戦いで討死した。
織田信長と松平元康(徳川家康)が清洲城で同盟を結んだ。この同盟は20年以上にわたり維持され、信長の西方への進出と家康の東方防衛という役割分担で両者の勢力拡大を支えた。戦国時代最も長く続いた同盟の一つ。
三河国で一向宗門徒が蜂起し、家康は最大の危機に直面した。家臣団の中からも一向宗の門徒が多数離反し、本多正信などの重臣も一揆側についた。約半年の苦闘の末に一揆を鎮圧したが、この経験が家康の宗教政策と家臣統制に大きな影響を与えた。
信長が美濃の斎藤龍興を攻め、難攻不落とされた稲葉山城を攻略。城を岐阜城と改名し、中国の故事にちなんで「天下布武」の印を使い始めた。美濃攻略には10年の歳月を要し、墨俣一夜城の伝説もこの頃のこととされる。
信長が足利義昭を奉じて上洛し、義昭を室町幕府第15代将軍に就任させた。上洛途上の六角氏を観音寺城の戦いで一日で破り軍事的威信を示した。これにより信長は幕府の後見人として中央政権に影響力を持つようになったが、傀儡化を嫌う義昭との関係は次第に悪化していく。
朝倉義景を攻めていた信長が、同盟者であった浅井長政の裏切りにより挟撃の危機に陥った事件。殿(しんがり)を務めた秀吉と家康の活躍で信長は辛くも京都へ撤退。「金ヶ崎の退き口」は戦国屈指の撤退戦として語り継がれる。
織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が姉川を挟んで激突。当初は浅井軍が優勢だったが、徳川軍の奮戦で戦局が逆転し織田・徳川軍が勝利。この戦いで信長と義兄弟の浅井長政の対立が決定的になった。
本願寺法主・顕如が信長に対し挙兵を宣言し、10年にわたる石山合戦が始まった。「進者往生極楽 退者無間地獄」の旗印のもと、全国の一向一揆と連携して信長に抵抗。毛利水軍の海上補給もあり、信長にとって最大の難敵の一つとなった。
信長が浅井・朝倉軍に加担した比叡山延暦寺を攻撃、堂塔伽藍を焼き尽くし僧侶・女子供を含む数千人を虐殺したとされる。仏教勢力との対立を恐れぬ信長の苛烈な姿勢を天下に示した事件。同時代の宣教師の記録にも残る。
上洛を開始した武田信玄と徳川家康が激突。家康は城から討って出るが信玄の巧みな用兵に完敗し、命からがら浜松城に逃げ帰った。家康生涯最大の敗北で、恐怖のあまり脱糞したとの伝承もある。しかしこの大敗の教訓が後の家康の慎重な戦略を形作った。
上洛途上で持病が悪化した武田信玄が陣中で病没。享年53。「わが死を三年秘匿せよ」との遺言を残したとされる。甲斐の虎の死により信長包囲網は瓦解。武田家の家督は四男・勝頼が継いだ。
信長が足利義昭を京都から追放し、約240年続いた室町幕府が事実上滅亡した。義昭は各地の大名に信長包囲網を呼びかけてきたが、浅井・朝倉の滅亡と信玄の死により支援者を失った。槇島城の戦いで敗北した義昭は毛利家を頼り西国に逃れた。
信長が朝倉義景の一乗谷を攻め滅ぼした後、浅井長政の本拠・小谷城を包囲。長政は3年にわたる抵抗の末に自害。享年29。信長の妹・お市の方と三人の娘は城から救い出された。浅井・朝倉両家の滅亡で近畿北部は信長の支配下に入った。
信長が伊勢長島の一向一揆に対し最後の殲滅戦を仕掛けた。過去二度の失敗を経て、今回は完全包囲と焼き討ちにより門徒2万人以上を虐殺したとされる。信長の一向一揆に対する容赦ない姿勢を象徴する事件。
織田・徳川連合軍38000が馬防柵と3000挺の鉄砲で武田騎馬軍団15000を迎え撃ち壊滅させた。鉄砲の集団運用が騎馬戦術に完全勝利した画期的な戦い。武田家は山県昌景・馬場信春ら重臣の多くを失い、以後急速に衰退する。
上杉謙信が加賀に侵入し、柴田勝家率いる織田軍を手取川で撃破した。「上杉に逢うては織田も名取川 はねる謙信逃げるとぶ長」と落首で揶揄された。謙信は信長打倒を宣言し上洛を企図したが、翌年に急死し実現しなかった。
軍神・上杉謙信が春日山城で急死。享年49。死因は脳卒中とされる。信長打倒と上洛を目前にしての突然の死は戦国の勢力図を大きく変えた。謙信の死後、養子の景勝と景虎が後継を争う「御館の乱」が勃発し、上杉家は大きく弱体化した。
島津義久が大友宗麟の大軍を日向国の耳川で撃破した九州の一大決戦。大友軍は将兵の多くを失い壊滅的打撃を受け、以後急速に衰退。逆に島津家は九州統一へと大きく前進した。
織田家の重臣・荒木村重が突如謀反を起こし有岡城に篭城。説得に向かった黒田官兵衛は村重に捕縛され、約1年間地下牢に幽閉された。この幽閉で官兵衛は片足が不自由になった。城の陥落後、村重は脱出したが残された家族・家臣は信長に処刑された。
信長が琵琶湖畔の安土山に築いた壮大な城郭の天主が完成。地上6階地下1階の天主は金箔や障壁画で飾られ、宣教師をも驚嘆させた。日本初の本格的天守閣を持つ城で、近世城郭の原型となった。信長はここを拠点に天下統一を推進した。
正親町天皇の勅命を受けて顕如が石山本願寺を退去し、10年に及ぶ石山合戦が終結した。信長にとって最も長く苦しい戦いであった。本願寺の退去後、跡地は秀吉により大坂城の築城地となった。
信長が京都で大規模な軍事パレードを挙行し、正親町天皇に観覧させた。配下の武将たちが華麗な甲冑で馬上パレードを行い、信長の圧倒的な軍事力を天下に示威した。信長自身も南蛮風の衣装で登場し、既存の権威を超越する姿勢を見せつけた。
織田・徳川・北条の三方から攻められた武田勝頼は家臣の相次ぐ離反により追い詰められ、天目山で妻子とともに自害。戦国最強を誇った名門武田家はここに滅亡した。信玄の死からわずか9年後のことだった。
1582年6月2日未明、明智光秀が主君・織田信長が宿泊する本能寺を急襲。「敵は本能寺にあり」の号令で13000の兵が本能寺を包囲。信長はわずかな近侍とともに奮戦するも衆寡敵せず、「是非に及ばず」と言い残し炎の中で自害した。享年49。日本史上最大の下剋上事件。
本能寺の変の報を受けた秀吉が、備中高松城(岡山県)から京都近郊まで約200kmをわずか10日間で引き返した史上稀に見る強行軍。毛利氏と即座に講和を結び、山崎の戦いで明智光秀を破った。この神速の行軍が秀吉の天下取りを決定づけた。
中国大返しを遂行した秀吉が天王山付近で明智光秀と激突。兵力で勝る秀吉軍が圧勝し、光秀は敗走中に落武者狩りに遭い命を落とした。本能寺の変からわずか11日後の決戦で、光秀の天下は「三日天下」と呼ばれることになった。
信長の死後、後継者と遺領配分を決めるため重臣が集まった会議。秀吉は信長の嫡孫・三法師(秀信)を擁立して主導権を握り、柴田勝家と対立。この会議で秀吉は信長の後継者としての地位を事実上確立し、織田家の実権を掌握する足がかりを得た。
信長の後継者をめぐり秀吉と柴田勝家が激突した決戦。秀吉方の加藤清正・福島正則ら「賤ヶ岳の七本槍」の活躍により秀吉が勝利。勝家は北ノ庄城でお市の方とともに自害した。この勝利で秀吉は信長の後継者の地位を確立した。
秀吉と家康が直接対決した唯一の大規模戦闘。小牧山に陣取った家康は秀吉の大軍と対峙。長久手では秀吉方の池田恒興・森長可を討ち取る大勝利を収めた。しかし政治的には秀吉が信雄と講和し、家康は戦術的勝利にもかかわらず秀吉に臣従せざるを得なくなった。
真田昌幸がわずか2000の兵で徳川軍7000を上田城で撃退した痛快な防衛戦。昌幸は巧みな戦術で徳川軍を城下に誘い込み、伏兵と挟撃で壊滅的打撃を与えた。真田の「表裏比興」の名を天下に知らしめた戦い。
秀吉が朝廷から関白の位を授けられた。武家出身者としては異例中の異例で、藤原氏の近衛前久の猶子となることで実現した。翌年には太政大臣に就任し「豊臣」姓を下賜された。これにより秀吉は武力だけでなく朝廷の権威をも背景に天下統一を推進できるようになった。
秀吉が10万の大軍で四国の覇者・長宗我部元親を攻めた。元親は土佐一国で抵抗するも圧倒的な兵力差の前に降伏。四国は秀吉の支配下に入り、天下統一への大きな一歩となった。元親は土佐一国に封じられた。
25万の大軍を率いた秀吉が島津義久を降伏させた。島津家は九州統一目前だったが、秀吉の圧倒的兵力の前に抵抗を断念。薩摩・大隅・日向の三カ国は安堵された。九州征伐の途上でバテレン追放令を発布し、キリスト教の布教を禁止した。
秀吉が農民から刀・槍・鉄砲などの武器を没収する刀狩令を発布。表向きは方広寺の大仏建立のための金属供出とされたが、実質的には兵農分離を推進し、農民の武装蜂起(一揆)を防止することが目的。これにより中世的な農民の武装権が否定され、近世社会の身分制度の基盤が形作られた。
伊達政宗が蘆名義広を破り、会津を制圧した奥州の大合戦。政宗は巧みな外交と軍事力で南奥州を統一し、「独眼竜」の名を天下に轟かせた。しかし秀吉の天下統一が進む中での拡大であり、小田原参陣の遅れにつながった。
秀吉が22万の大軍で北条氏政・氏直父子が籠る小田原城を包囲。3カ月にわたる包囲戦の末、北条氏は降伏。後北条氏五代約100年の支配が終焉した。この征伐で秀吉は天下統一を達成。伊達政宗は白装束で参陣し秀吉に臣従した。
茶聖・千利休が秀吉の命により切腹させられた。直接の原因は大徳寺山門に利休の木像を安置したことへの秀吉の怒りとされるが、政治的対立、交易利権の問題、娘の献上拒否など背景は複雑。利休の死は秀吉政権の専制化を象徴する事件であり、文化人や大名たちに衝撃を与えた。
秀吉が15万の軍勢を朝鮮に派遣した大遠征。当初は快進撃で漢城(ソウル)・平壌を占領するが、李舜臣の水軍に補給線を断たれ、明の援軍の参戦で膠着状態に。加藤清正は朝鮮北部の会寧まで進出し虎退治の逸話も生まれた。講和交渉が決裂し一時撤退。
講和交渉の決裂を受けて秀吉が再び14万の軍を派遣。泗川の戦いでは島津義弘が寡兵で明・朝鮮連合軍を撃破するなど戦術的勝利もあったが、秀吉の死により全軍撤退。二度の朝鮮出兵は豊臣政権内部の対立を深め、関ヶ原の遠因となった。
天下人・豊臣秀吉が伏見城で病没。享年62。幼い嫡子・秀頼の将来を五大老・五奉行に託したが、秀吉の死は政権内の権力闘争を一気に表面化させた。特に五大老筆頭の徳川家康と五奉行の石田三成の対立が深まり、わずか2年後の関ヶ原の戦いへと突き進む。
五大老の一人・前田利家が死去。利家は秀吉の遺命を守り、家康の専横を牽制する最後の砦だった。利家の死により五大老・五奉行の均衡が崩れ、家康は露骨に影響力を拡大。三成らは家康暗殺を謀るも失敗し、三成は失脚して佐和山城に蟄居した。
上杉景勝の軍備増強を家康が詰問。家老・直江兼続は痛烈な反論書「直江状」を送りつけた。これを口実に家康は上杉討伐軍を編成して会津に向かうが、その留守を突いて石田三成が挙兵。家康は「小山評定」で反転し関ヶ原へ向かった。
真田昌幸・信繁(幸村)父子が上田城で徳川秀忠率いる38000の大軍を足止めした。昌幸の巧みな戦術で秀忠軍は上田城の攻略に手間取り、関ヶ原の戦いに遅参するという大失態を演じた。この遅参は家康を激怒させた。
天下分け目の決戦。徳川家康率いる東軍約7万4千と石田三成率いる西軍約8万4千が関ヶ原で激突。開戦から約6時間、小早川秀秋の裏切りを契機に西軍は瓦解し東軍が大勝。三成は捕縛され処刑された。この戦いで家康は事実上の天下人となり、日本の運命が決した。
関ヶ原の敗戦後、島津義弘は退路を断たれたにもかかわらず、敵中正面突破という前代未聞の撤退戦を敢行。わずか1500の兵で東軍の大軍の中を突破し、薩摩への帰還を果たした。「捨てがまり」戦法で殿軍が次々と身代わりとなり時間を稼いだ。
徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開いた。これにより武家政権の中心は京都から関東に移り、約260年続く江戸時代が始まった。わずか2年後に将軍職を秀忠に譲り大御所として実権を握り続けた。
家康が大坂から秀頼を呼び出し二条城で会見した。秀頼は堂々とした態度で家康に対面し、家康はその器量に危機感を覚えたとされる。この会見が大坂の陣の伏線となった。
方広寺の梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が「家康を呪い、豊臣の繁栄を祈るもの」と幕府側に解釈され、開戦の口実とされた事件。実際にはこじつけに近い言いがかりだったが、家康は豊臣家を追い詰める格好の名目を得た。
方広寺鐘銘事件を口実に家康が大坂城を包囲。豊臣方には真田幸村・後藤又兵衛・毛利勝永ら浪人衆が結集。幸村は大坂城南側に「真田丸」を築いて徳川軍を撃退し、その武名を天下に轟かせた。最終的に和睦が成立するが、家康は外堀・内堀を埋める条件を課した。
堀を埋められ裸城となった大坂城で豊臣方は最後の決戦に挑む。真田幸村は家康本陣に三度突撃し、家康を自害寸前まで追い詰めた。しかし衆寡敵せず幸村は討死。大坂城は炎上し、秀頼・淀殿は自害。豊臣家は滅亡し、戦国時代は完全に終結した。
大坂夏の陣の直後、家康は一国一城令と武家諸法度を発布。各大名は居城以外の城を破却することを命じられ、大名の軍事力が大幅に制限された。武家諸法度では大名の行動を細かく規制し、戦国時代の再来を防ぐ体制が確立された。事実上の戦国時代の終焉。