鳴条の戦い — 湯王、夏の桀を放伐する
戦い商の湯王が夏の桀を鳴条に破り、殷王朝を建てたと伝えられる。武力で天子を倒しながらそれを正統とする「放伐」の最初の例であり、徳を失った者は天命を失うという論理がここで示された。この論理は五百年後の殷周革命でそのまま繰り返される。
商の湯王が夏の桀を鳴条に破り、殷王朝を建てたと伝えられる。武力で天子を倒しながらそれを正統とする「放伐」の最初の例であり、徳を失った者は天命を失うという論理がここで示された。この論理は五百年後の殷周革命でそのまま繰り返される。
伊尹は料理人として湯王に近づき、鼎の中の味つけになぞらえて政治のあり方を説いて宰相に登用されたと伝わる。身分によらず能力で人を用いるという主題は、この後の中国史で繰り返し引かれる型になった。
野で四方に鳥網を張る者を見た湯王は、三面を外させて「行きたい方へ行け」と祈らせたという。これを聞いた諸侯は「湯の徳は禽獣にまで及ぶ」と帰服した。武力ではなく徳で従わせるという建国の物語である。
建国から盤庚までの殷は、都を何度も移している。洪水や地力の衰え、王位争いなど理由は諸説あるが、王朝の中心が固定されていなかったことは確かである。この不安定さが、盤庚の遷都で終わる。
盤庚は反対する貴族を説き伏せて都を安陽へ移した。以後二百五十年余り、殷はここを動かない。三千年後にこの地から十五万片を超える甲骨が掘り出され、伝説だった王朝が文字によって裏づけられることになる。
武丁は周辺の方国を次々に討って版図を広げ、殷の勢力を最大にした。版築作業に従事していた傅説を宰相に抜擢したと伝わる。出土する甲骨の大半はこの王の代のもので、当時の暮らしが最も詳しく分かる時期でもある。
武丁の妃である婦好は、甲骨の記録によれば一万三千の兵を率いて羌を討ち、祭祀も主宰した。1976年に未盗掘の墓が発見され、青銅器四百点余りが出土する。文献には一切現れず、地中からだけ現れた人物である。
亀の腹甲や牛の肩甲骨を焼き、生じた割れ目で吉凶を占い、その問いと結果を刻んだ。天気・収穫・戦争・出産・病気まであらゆることを占っている。漢字の直接の祖先であり、王が神々と祖先を通じて統治するという殷の性格をそのまま示す。
殷は分割した鋳型を組む技法で、巨大で複雑な青銅の礼器を作った。后母戊鼎は重さ八百三十キロを超え、古代世界で最大級の鋳造品である。青銅は武器と祭器に使われ、農具には回らなかった。器の所有そのものが身分を示す社会だった。
殷墟の王墓と祭祀坑からは、大量の人骨が出ている。祖先や神への供物として、多くは捕虜となった羌の人々が犠牲にされた。神と交わることで統治する王権の姿がここに現れており、周がこれを大きく改めることになる。
十干と十二支を組み合わせて六十日で一巡する数え方が、甲骨にすでに現れている。王の名も「帝辛」のように十干を含む。この数え方はその後三千年以上使われ続け、日本の暦にも受け継がれた。
戎狄の圧迫を受けた周の一族が、古公亶父に率いられて渭水盆地の周原へ移った。城郭と宗廟を築き、農耕に基づく国の形を整える。「周」という国号はこの地名に由来し、殷を倒す力はここから育っていった。
殷から西方の諸侯を束ねる西伯に任じられた姫昌は、争いを裁いて信望を集め、周辺の国を次々に従えた。天下の三分の二を得ながらなお殷に仕え続けたと伝えられる。殷を討つのは子の代に持ち越された。
力を蓄える西伯昌を疑った紂王は、彼を羑里に幽閉した。臣下が美女と宝物を献じて赦されたと伝わる。この幽閉のあいだに八卦を重ねて六十四卦を作ったという伝承から、『易経』は文王に結びつけて語られてきた。
狩りに出た西伯昌が渭水のほとりで釣りをする老人と語り合い、「わが太公が待ち望んでいた人だ」として師に迎えたと伝わる。この呂尚が牧野の戦いを指揮して殷を破り、戦後は斉に封じられて大国の祖になる。
酒で池を作り肉を林のように吊るして遊び、逆らう者を焼けた銅の上を歩かせる炮烙の刑にかけたと伝わる。妲己の望むままに行ったとされ、諸侯の心は離れていった。ただしこれらの記録は滅ぼした側が残したもので、時代が下るほど話が増えている。
諫め続けた比干は「聖人の心には七つの穴があるというが本当か」と胸を裂かれ、箕子は狂人を装って身を守り、微子は国を出た。殷の中枢が自ら崩れたことを示す出来事であり、孔子はこの三人を「殷に三仁あり」と評した。
武王は諸侯を率いて黄河を渡り、朝歌の南の牧野で殷軍と対峙した。動員された殷の兵は戦わずに寝返り、一日で決した。紂王は鹿台に登って自ら焼け死ぬ。六百年近く続いた殷はここで滅び、周の世が始まった。
武王は鎬京を都とし、殷の故地は紂王の子の武庚に治めさせて祭祀を継がせた。滅ぼした王朝の祭りを絶やさないというこのやり方は、後の中国の王朝交替の作法になる。同時に弟三人を周囲に置いて監視させた。
孤竹国の兄弟は、武王が主君である殷を討つのを「臣として君を弑するのか」と諫めた。容れられないと周の粟を食むことを恥じ、首陽山で蕨を採って餓死したという。放伐という論理に正面から異を唱えた声である。
殷を滅ぼしてわずか数年で武王が世を去り、幼い成王が立った。弟の周公旦が摂政として政を執る。建国したばかりの王朝が幼君を戴くという最も危うい形になり、まもなく内側から揺さぶられることになる。
摂政となった周公旦を疑った兄弟の管叔・蔡叔が、殷の遺民を率いる武庚と結んで反乱を起こした。周公は三年かけてこれを平定し、東方の夷まで討って周の支配を海の近くまで広げる。危機が結果として版図を広げた。
関中の鎬京から東方は遠すぎた。周公と召公は中原の要に洛邑を築き、殷の遺民を移して東方統治の拠点とした。二つの都を持つ体制がここで生まれ、三百年後に王室が逃げ込む先にもなる。
周は一族と功臣に土地と人を与えて諸侯とし、要地に配置した。太公望を斉に、周公の子を魯に、召公を燕に、武王の弟を衛に置く。血縁と儀礼で結ばれたこの体制が、周が直接支配できない広さを治める仕組みになった。
身分ごとに用いる器の数、舞の列、鐘の音まで細かく定め、儀礼によって秩序を保つ仕組みを整えたと伝わる。神々に問うて決める殷の統治から、人の側の決まりごとで治める形への転換である。孔子が生涯の理想としたのはこの体制だった。
成王が成長すると、周公旦は摂政の座を退いて臣下に戻った。位を奪えた者が自ら退いたというこの一事が、後世の摂政の理想像になる。曹操も司馬懿も、自らを周公になぞらえて弁明した。
正妻の長子が家督と祭祀を継ぎ、他の子は分家して従うという原則が定められた。殷では兄弟相続が多く王位争いが絶えなかったが、この決まりで継承の争いを減らそうとした。家族の形そのものを国家の骨格にした制度である。
南方の楚を討つため漢水へ遠征した昭王は、帰路に船が壊れて溺死したと伝わる。王が遠征先で命を落としたこの事件は周にとって痛手で、南方への進出はここで頭打ちになった。三百年後、斉の桓公はこの件を口実に楚を責めている。
穆王は西へ大遠征を行い犬戎を討ったと伝わる。八頭立ての馬車で崑崙に至り西王母と会ったという『穆天子伝』の物語も、この王を主人公にしている。誇張は多いが、周が西方と往来していたことは青銅器の銘文からも窺える。
西周の青銅器には、王からの下賜や訴訟の裁定、土地の取引までが長文で鋳込まれた。甲骨が占いの記録だったのに対し、こちらは人と人の取り決めの記録である。統治の関心が神から人へ移ったことが、書かれた内容そのものに現れている。
楚の熊渠は「我は蛮夷なり、中国の号諡に与らず」と言い放って三人の子を王に立てたと伝わる。周王だけが王を称するという建前が南方で破られた最初の例である。周の権威が及ばない領域があることが、はっきり示された。
厲王は山林や川沢から得られる利を王室の独占とした。それまで共同で使ってきた資源を取り上げられた都の人々は不満を募らせる。批判を封じるため密告を奨励し、道で会っても目配せするだけになったと伝わる。
批判が止んだと喜ぶ厲王に、召公は「民の口を塞ぐのは川を塞ぐより危うい。川は塞げばいつか決壊して多くを傷つける。民も同じだ」と諫めた。王は聞き入れず、三年後に都の人々の暴動で追われることになる。
耐えかねた都の人々が蜂起し、厲王は国外へ逃れて亡命先で死んだ。天子が民衆によって追放されたという事件は、天命が王のものだけではないという記憶を残す。以後十四年、王のいないまま政が営まれた。
王の不在のあいだ、重臣たちが政を執った。『史記』の年表はこの共和元年から一年の途切れもなく続いており、中国史で年代が確実に遡れる最古の年になっている。これより前の年代はすべて推定である。
共和の後に即位した宣王は、周辺の異民族を討って王室の権威を一時取り戻した。『詩経』にはこの時期の遠征を讃える詩が残る。しかし立て直しは一代で終わり、晩年には自ら諸侯の相続に介入して信を損ねた。
宣王は姜氏の戎に大敗し、南方から徴発した軍を失った。中興と呼ばれた治世の実態がここで露わになる。王室が自前で動かせる兵力は細り、以後は諸侯の力に頼るほかなくなっていった。
宣王の子が立った。即位の翌々年には三つの川が涸れ、岐山が崩れたと『詩経』は伝える。天変を王朝の終わりの兆しとして書き残す語り口は、この時代からすでに定まっている。
幽王は褒姒を寵愛したが、彼女は笑わなかった。王は諸侯を呼び集める烽火を理由もなく上げさせ、駆けつけて空振りする諸侯を見て褒姒が笑ったので、繰り返したと伝わる。やがて本当の危急に烽火を上げても誰も来なかった。
幽王は皇后と太子宜臼を廃し、褒姒とその子を立てた。皇后の父である申侯にとっては一族の地位を失うことを意味する。周が定めた嫡長子相続の決まりを王自身が破ったことが、王朝を終わらせる直接の引き金になった。
申侯は犬戎と結んで鎬京を攻めた。幽王は驪山のふもとで殺され、都は焼かれる。二百七十五年続いた西周はここで滅んだ。外の異民族を国内の争いに引き入れた結果、王都そのものを失うという形での終わりだった。
廃太子だった宜臼が諸侯に擁されて平王として立ち、荒れ果てた鎬京を捨てて洛邑へ移った。ここから東周、すなわち春秋時代が始まる。王室の直轄地は小さくなり、護衛した諸侯のほうが強いという構図が固定した。