統一新羅の始まり — 半島統一の完成
政治・外交羅唐戦争を終結させた文武王のもと、旧同盟国だった唐の勢力を大同江以南から排除した新羅は、三国が並び立ってから700年以上を経て朝鮮半島に初めて単一の国家秩序をもたらした。この統一は軍事的勝利であると同時に、以後700年以上にわたる統一新羅・高麗という半島国家の連続性の起点でもある。羅唐戦争そのものの経緯は『古代朝鮮三国時代』タイムラインを参照。
羅唐戦争を終結させた文武王のもと、旧同盟国だった唐の勢力を大同江以南から排除した新羅は、三国が並び立ってから700年以上を経て朝鮮半島に初めて単一の国家秩序をもたらした。この統一は軍事的勝利であると同時に、以後700年以上にわたる統一新羅・高麗という半島国家の連続性の起点でもある。羅唐戦争そのものの経緯は『古代朝鮮三国時代』タイムラインを参照。
文武王の死を受けて即位した神文王に対し、王妃の父・金欽突らが権力保持を狙ってクーデターを企てたが未然に発覚し鎮圧された。神文王はこれを機に反抗的な真骨貴族を大規模に粛清し、以後の国学設置・地方制度整備・禄邑廃止といった一連の中央集権改革を断行する権力基盤を固めた。統一直後の新羅が、対外戦争の勝利をそのまま国内統治の安定へと転化できるかを試された画期である。
神文王が最高教育機関・国学を設置し、儒教経典を中心とする官僚養成の場を整えた。血統による骨品制の枠組みは維持されたままだったが、学識を備えた実務官僚を体系的に育成する仕組みが生まれたことは、後の統一新羅の官僚制運営を支える基盤となった。
神文王が全国を九州に区分し、地方の要衝に副都的な性格を持つ五小京を置く地方行政制度を完成させた。旧高句麗・旧百済の遺民が暮らす地域も含めて統一的な行政区画のもとに組み込むことで、征服直後の旧三国の地域的な分断感を薄め、単一の統治体制のもとにあることを可視化する狙いがあった。
還俗して市井を巡りながら仏の教えを説き続けた元暁が686年に没した。同門で唐に渡り華厳宗を学んだ義湘は帰国後、676年に浮石寺を開いて教団を率いており、在野の大衆教化(元暁)と正統教団による教学の確立(義湘)という対照的な二つの道が、ともに統一新羅仏教の思想的な柱として並び立つことになった。この二人の存在が、統一新羅を「仏教国家」たらしめた思想的基盤である。
神文王が貴族に対する労働力収取を伴う禄邑の支給を廃止し、収穫の一部を得るだけの官僚田に切り替えた(後に禄邑は復活する)。貴族が農民を私的に動員する権限を制限し土地からの収取権のみを認めることで、貴族の経済的・軍事的基盤を国家の管理下に置こうとする、中央集権化改革の一環である。
高句麗滅亡から30年後、遼西へ強制移住させられていた高句麗・靺鞨の遺民を率いた大祚栄が自立し渤海(当初は震国)を建国した。新羅が半島南部を統一する一方、高句麗の遺産を継ぐ国家が満洲に再び姿を現したことで、以後200年余りにわたり新羅と渤海が南北に並び立つ「南北国時代」と呼ばれる構図が生まれる。渤海はその後最大版図と唐風の文物を誇り「海東の盛国」と称されるまでに発展した。建国の詳しい経緯は『古代朝鮮三国時代』タイムラインを参照。
海路インドへ渡り中央アジアを経て陸路唐へ帰った恵超が、その旅の記録『往五天竺国伝』を著した。インド五天竺国と中央アジア諸国の政治・宗教・風俗を伝えるこの記録は、20世紀初頭に敦煌の莫高窟で再発見されるまで千年以上忘れられていたが、8世紀のシルクロードとインド仏教圏の実情を伝える一級史料として高く評価されている。
渤海第2代王・大武芸が高仁義らを日本へ派遣し、渤海と日本の通交が始まった。唐・突厥・新羅に囲まれる中で日本を潜在的な後ろ盾と位置づけるこの外交は、以後渤海滅亡(926年)まで29回に及ぶ遣日使の往来へと発展する。日本側の受け入れ体制の詳細は『律令国家の成立』タイムラインを参照。
統一新羅の全盛期、王都・金城は瓦葺きの屋根が立ち並び炭で炊事をする家すら珍しくないほど繁栄し、最盛期には17万戸に達したとも伝えられる。この人口規模の真偽には議論があるが、当時の東アジアでも屈指の国際都市であったことは、金城から出土する数多くの唐・西域由来の文物からもうかがえる。
景徳王の宰相・金大城が、現世の父母のために仏国寺を、前世の父母のために石窟庵を造営させたと伝えられる。工事は大城の生前には完成せず国家が引き継いで完成させたとされ、精緻な石造技術で本尊を安置した石窟庵とともに、統一新羅の仏教美術・建築技術が到達した頂点として、後にユネスコ世界遺産に登録される。
貴族・大恭が起こした反乱で、王都の兵乱は3か月に及び96人の角干(最高位の貴族)が互いに殺し合ったとも伝えられる大規模な内乱となった。全盛期を築いた景徳王の死からわずか3年後に起きたこの事件を境に、統一新羅は王位継承をめぐる貴族間の武力抗争が常態化する動揺の時代に入る。
度重なる貴族反乱に晒され続けた恵恭王が、貴族連合の反乱によって王妃ともども殺害された。武烈王(金春秋)以来一貫して続いてきた直系の王統がここで断絶し、以後は非直系の王族が武力によって王位を奪い合う不安定な時代に入る。統一新羅120年余りの前半を支えた王統の終わりを告げる事件である。
王位継承争いに敗れた父の恨みを晴らすべく、金憲昌が熊川で挙兵し「長安」という国号を掲げて独立を宣言した。新羅9州のうち5州余りが呼応する大規模な反乱に発展したが、王都からの討伐軍によりわずか1か月余りで鎮圧された。地方の有力者が独自の国家樹立を試みるほど中央の統制が緩んでいたことを示す、統一新羅の地方統治の脆さを露呈させた事件である。
唐で武人として名を上げた張保皐が帰国し、興徳王の許しを得て清海鎮を設置した。黄海に跋扈していた海賊を一掃し新羅・唐・日本を結ぶ海上交易網を掌握したことで、東シナ海の制海権を握る一大勢力となった。この交易網は日本の遣唐使や『摂関政治の時代』にもつながる9世紀東アジア海域交流の重要な結節点となる。
日本の天台僧・円仁が838年から847年にかけて記した在唐求法の日記には、山東半島の赤山法花院をはじめ唐に居留する新羅人社会の様子が詳細に記録されている。新羅側の史料が乏しい9世紀の在唐新羅人の生活・信仰・交易活動を伝える第一級史料であり、日本側の記録が新羅史を補うという珍しい事例である。『摂関政治の時代』へとつながる日本の対外交流史の一場面でもある。
王位継承をめぐる政争に介入し娘を王妃にしようとした張保皐が、朝廷が送り込んだ刺客・閻長により暗殺された。清海鎮はまもなく廃止され、新羅は黄海の制海権を自ら手放す結果となった。海上交易を軸に新羅・唐・日本を結んだ9世紀の秩序は、これを境に急速に失われていく。
唐に渡って禅を学んだ僧たちが帰国し、地方の山中にそれぞれ拠点となる禅門を開いて広まったのが九山禅門である。経典研究を中心とする従来の教学仏教に対し、座禅による直観的な悟りを重んじる禅宗は、王都の権威から距離を置く地方豪族たちの支持を集め、次章で描かれる地方勢力の自立と軌を一にして広がっていった。
禅僧・道詵が地相によって国運や吉凶を占う風水地理説を広め、中央の統制が緩む中で自立を強めていく地方豪族たちの間に浸透した。この思想は王建の建国後も長く影響力を保ち、王建自身の訓要十条における風水への言及や、後の高麗における遷都論争にもその名が引かれ続けることになる。
中央への租税滞納を厳しく取り立てられたことに反発した農民たちが、沙伐州で元宗・哀奴に率いられて蜂起した。反乱自体は鎮圧されたが、これを機に新羅各地で同様の農民反乱が連鎖的に発生し、統制を失った地方には甄萱・弓裔ら独自の軍事勢力を築く者が次々と現れることになる。統一新羅の崩壊と後三国分裂への引き金となった事件である。
遼の耶律阿保機が渤海の内紛に乗じて自ら大軍を率いて遠征し、わずか10日余りで首都・上京竜泉府を陥落させて渤海を滅ぼした。「海東の盛国」と称されるまでに発展した200年余りの歴史はここに幕を閉じ、以後遺民の一部は高麗へと亡命することになる。新羅と並び立ってきた北の隣国が姿を消したことで、朝鮮半島史はこの後、南の後三国の抗争へと焦点が移っていく。詳細は『宋』タイムラインを参照。
新羅の軍人だった甄萱が独自に兵を挙げ、旧百済の遺民感情を糾合して完山州を都に後百済を建てた。三国分裂の記憶をなお引く旧百済の民衆の支持を背景に急速に勢力を広げ、統一新羅の権威が地方に及ばなくなった現実を決定的に示す事件となった。
新羅王族の血を引くとも伝えられる弓裔が、松岳を拠点に勢力を築き後高句麗を建てた。その後まもなく都を鉄原へ移し、国号も摩震、さらに泰封へと改めながら勢力を拡大し、後百済・新羅と並ぶ後三国の一角を占めるに至った。旧高句麗の遺民感情を吸収する国号選択は、渤海の存在とはまた別の形で高句麗の記憶が半島情勢を動かし続けていたことを示している。
勢力拡大とともに弓裔は自らを弥勒仏の化身と称し、他人の心を読む「観心法」と称して家臣や妻子までも次々と処刑する専制と粛清を強めていった。この暴政への反発が、腹心だった王建らによるクーデターの土壌を作ることになる。
弓裔の暴政に見切りをつけた将軍たちに推戴された王建が、弓裔を追放して自ら王位に就き国号を高麗と定めた。高句麗の後継を名乗る国号を選んだことは、旧高句麗遺民の支持を取り込む狙いとともに、渤海滅亡後の北方への関心をも示している。都を自らの本拠地である開京に置いたことで、以後500年近く高麗・朝鮮王朝を通じて開城周辺が政治の中心であり続ける基礎ができた。
新羅の求援に応じて出兵した王建の高麗軍を、甄萱率いる後百済軍が公山で待ち伏せて壊滅させた戦い。王建自身も危うく討ち取られかけ、身代わりとなった将・申崇謙が戦死してようやく脱出できたと伝えられる。後三国の中で後百済が最も優勢だったことを示す戦いである。
公山での大敗から3年、態勢を立て直した王建が古昌で後百済軍を大破し、後三国の軍事的優劣を決定的に逆転させた戦い。この勝利を機に慶尚道一帯の豪族が次々と高麗側に帰順し、以後の高麗は攻勢に転じていくことになる。
後百済・高麗の抗争の中で国力を失い尽くした新羅の敬順王が、群臣の反対を押し切り自ら国を高麗に譲る決断を下した。千年近く続いた新羅は戦火を交えることなく幕を閉じ、王建はこれを厚く遇して娘を敬順王に嫁がせるなど、新羅王族を高麗の支配層に組み込んでいった。
晩年の甄萱は後継者争いから長子・神剣に幽閉され、脱出後は宿敵であったはずの高麗の王建を頼った。王建はこの機に乗じて後百済へ進軍し黄山で神剣軍を降し、後百済を滅ぼして後三国を統一した。892年の甄萱挙兵から44年、新羅の衰退に端を発した分裂の時代がここに終わりを迎える。
死を目前にした王建が後継の王たちへ遺した10か条の訓戒。仏教の尊崇、風水地理説への配慮、契丹(かつて渤海を滅ぼした国)への警戒、地域による人材登用の差配など多岐にわたり、以後500年近く続く高麗王朝の統治理念の基礎となった。統一直後の高麗が抱えていた課題(旧三国の融和、北方の脅威、仏教国家としての性格)が凝縮された文書である。
光宗が、後三国の抗争期に不当に奴婢の身分に落とされた良民を解放する奴婢按検法を施行した。地方豪族が私的に抱える奴婢は彼らの経済力と私兵動員力の源泉であり、これを削ることは豪族連合的な高麗の性格を弱め王権を強化する狙いを持つ改革でもあった。
後周からの帰化人・双冀の献策を容れた光宗が、中国式の科挙制度を導入した。血統によって官職を継ぐ従来の慣行に対し、試験による人材登用という新たな回路を開いたことは、奴婢按検法と並ぶ光宗の二大改革として、高麗を建国期の豪族連合的性格から王権中心の中央集権国家へと転換させる力となった。
官僚の位階に応じて田地と柴地(燃料用の山林)の収取権を与える田柴科が制定された。土地の私有そのものではなく国家が収取権を分配する仕組みであり、以後の高麗における土地制度の基本枠組みとなった。
成宗が地方の要衝12か所に牧を置き、初めて中央から常駐の地方官を派遣した。建国以来、地方は在地の豪族による自治的な統治に大きく依存していたが、この措置により中央集権的な地方支配の枠組みが整い始めた。
成宗が最高教育機関・国子監を設置し、儒教経典を中心とする官僚養成の体制を整えた。新羅の国学を継ぐ位置づけながら、科挙と連動した官僚制の中核機関として、以後の高麗の統治理念を儒教的なものへと方向づけていく。
遼が80万と号する大軍で侵攻したが、成宗の命を受けた徐熙が単身敵陣に赴き契丹の将・蕭遜寧と交渉した。契丹の真の狙いが宋であり高麗ではないと見抜いた徐熙は、高麗が宋と断交し契丹と国交を結ぶ代わりに鴨緑江東岸の江東六州の領有を認めさせるという、武力衝突を避けながら領土拡大まで勝ち取る外交的成果を上げた。
遼の聖宗が自ら40万の大軍を率いて侵攻し、開京を陥落させて焼き払った。顕宗は南方の羅州まで避難する屈辱的な「蒙塵」を強いられたが、講和条件(顕宗自身の入朝)を履行せず抵抗を続け、以後の第3次侵入へとつながる緊張が続くことになる。
1018年、蕭排押率いる10万の契丹軍が三度目の侵入を行ったが、開京攻略に失敗し撤退を余儀なくされた。その退路にあたる亀州で姜邯賛率いる高麗軍が包囲殲滅戦を挑み、生還したのはわずか数千と伝えられる壊滅的打撃を与えた(亀州大捷)。この大勝により契丹は高麗への軍事的属国化を断念し、以後両国の間には長期の平和が築かれることになる。
3度にわたる契丹の侵入と、北方で新たに台頭しつつあった女真族への備えとして、鴨緑江河口から東海岸まで続く長大な防塁・千里長城の築造が1033年から1044年にかけて進められた。亀州大捷後の平和のもとで築かれたこの防衛線は、以後の高麗の北方国境の骨格を長く規定することになる。
第2次契丹侵入で開京が陥落した翌年の1011年、仏の力で契丹を退けようという祈願のもとに大蔵経の版木彫造が始まった。1087年にかけて完成した初雕大蔵経は東アジアで最初期の完備した漢訳大蔵経版木群だったが、1232年のモンゴル侵攻で焼失し、現存しない。この喪失こそが、後述する再雕大蔵経(八万大蔵経)の事業を生む直接の動機となる。
宋・遼への遊学から帰国した義天が、経典の注釈書を集めた『教蔵』を編纂するとともに、教学中心の天台宗を高麗で開いた。禅宗(九山禅門)が優勢だった当時の仏教界に教学の再興を促し、後の知訥による禅教一致の探求への布石ともなった。
仁宗の命により金富軾が編纂した紀伝体の正史『三国史記』が完成した。高句麗・百済・新羅三国の歴史を伝える現存最古の正史であり、本サイトの『古代朝鮮三国時代』タイムラインをはじめ、以後の朝鮮半島古代史研究はこの書物なしには成り立たない。高麗中期の知識人が自らの古代をどう語り継ごうとしたかを示す記念碑的な事業でもある。
中国越州窯の技術を受容して発展した高麗青磁は、12世紀半ばに文様部分を彫り異なる色の土を象嵌する独自の象嵌青磁技法を完成させ、翡色と呼ばれる澄んだ青緑釉とともに東アジア陶磁史上屈指の水準に達した。武臣政権期の政治的混乱とは対照的に、この時期の陶磁・仏画・写経など高麗の工芸美術は爛熟の頂点にあった。
武臣政権下の混乱の中で教団の世俗化を批判した知訥が、松広寺を拠点に禅の実践共同体(定慧結社)を組織し、座禅と教学を統合する「頓悟漸修」「定慧双修」を説いた。この思想は後に曹渓宗として体系化され、朝鮮半島禅仏教の主流として現代の韓国仏教にまで直接つながっている。
崔氏政権下の1234年、儀礼書『詳定古今礼文』が金属活字を用いて印刷されたと李奎報の文集に記されている。これが事実なら世界最古の金属活字印刷の記録となるが、現物は一冊も現存しておらず、実見できる証拠は無い。現存する実物として確認できる世界最古の金属活字印刷物は、1377年に印刷された『直指心体要節』である。
モンゴル侵攻軍によって初雕大蔵経の版木が焼失したことを受け、崔氏政権のもとで1236年から1251年にかけて8万枚を超える版木に大蔵経を彫り直す一大事業が行われた。契丹撃退の祈願だった初雕大蔵経と同じく、モンゴルという国難を仏の力で退けようとする信仰の発露であり、完成した八万大蔵経は現存する世界最古・最も完備した漢訳大蔵経版木群として海印寺に伝わり、2007年にユネスコ世界記憶遺産に登録された。
モンゴル侵攻期を生きた禅僧・一然が晩年に著した『三国遺事』は、正史『三国史記』が採らなかった説話・伝承・仏教霊験譚を幅広く収録した。中でも巻頭に記された檀君神話(天から降りた桓雄と熊女の子・檀君王倹が古朝鮮を開いたとする建国伝承)は、本タイムラインの範囲(三国時代以降)よりさらに古い、朝鮮半島最古の建国神話として今日に伝わる唯一の記録である。モンゴルの支配という国難のさなかに、民族の始源を書き留めようとした一然の営みでもあった。
金泥・銀泥を用いた繊細な描写と華麗な文様で知られる高麗仏画は、13〜14世紀に最盛期を迎えた。中でも水月観音図は数多くの遺例が今日の日本各地の寺社にも伝わっており、高麗と日本の間に活発な仏教美術の交流があったことを物語る、東アジア仏教美術史上屈指の到達点である。
文治主義のもと日常的に文臣に軽んじられていた武臣たちの不満が、宴席での屈辱をきっかけに爆発し、鄭仲夫ら武将が多数の文臣を殺害するクーデターを起こした。毅宗を廃して明宗を擁立し実権を握ったこの事件を境に、以後100年近くにわたり国王が名目上の存在に留まり武臣が実権を握り続ける武臣政権の時代が始まる。高麗前期の文治主義的な統治体制を根底から覆した、高麗史上最大の政変である。
武臣政権に対し、旧文臣勢力を擁する金甫当が1173年に、西京(平壌)の武将・趙位寵が1174年にそれぞれ挙兵し政権打倒を試みたが、いずれも鎮圧された。相次ぐ反乱失敗は逆説的に武臣政権の統制力の強さを示す結果となり、以後しばらく明確な反武臣クーデターは影を潜めることになる。
特殊行政区画「所」に住み一般の郡県民より重い賦役を課されていた賤民層が、亡伊・亡所伊の兄弟に率いられて蜂起した。政権中枢の武臣間の権力争いと並行して、社会の最下層からも身分制への異議申し立てが噴き出し始めたことを示す事件であり、後の万積の乱へとつながる社会不安の先駆けとなった。
鄭仲夫以来、慶大升・李義旼と実力者が入れ替わってきた武臣政権の中で、崔忠献が当時の実力者・李義旼を打倒して権力を掌握した。以後、崔忠献・崔瑀・崔沆・崔竩と4代60年余りにわたり崔氏一族が高麗の実質的な支配者であり続ける崔氏政権が確立し、武臣政権の中でも最も長期かつ安定した統治体制が築かれることになる。
崔忠献の家奴だった万積が、開京近郊の山に奴婢たちを集め「将相寧んぞ種あらんや」と説き、蜂起して奴婢の身分から脱し官職を得ようと呼びかけた。決起前に密告により発覚し首謀者は処刑され実際の武力蜂起には至らなかったが、身分制そのものへの異議申し立てを明確な言葉で残した稀有な事例として記憶されている。
崔忠献が反対派の摘発を担う教定都監を設け、その邸宅そのものが官吏の人事権を握る実質的な政庁として機能するようになった。国王の宮廷とは別に、崔氏の私邸が国政の中枢を担うという二重権力構造が制度として固定化され、崔氏政権の支配を長期にわたって支える基盤となった。
崔氏政権は都房という親衛隊に加え、盗賊取り締まりの夜巡部隊を起源とする左別抄・右別抄、モンゴルの捕虜収容所から脱走した兵士らによる神義軍を合わせた三別抄という私兵組織を整備した。国家の正規軍とは別に政権が独自に掌握するこれらの軍事力は、後にモンゴルへの服属に反発して独自の抵抗を続ける三別抄の乱(1270〜1273年)の母体となる。
モンゴルの使者が帰路に殺害された事件を口実に、サルタイ率いるモンゴル軍が鴨緑江を越えて侵攻した。北方の城砦は次々と陥落し開京近郊にまで迫られた高麗は屈辱的な講和を結んだが、これは30年近くに及ぶ対モンゴル戦争の最初の一撃に過ぎなかった。詳細な戦役の全体像は『モンゴル帝国』タイムラインを参照。
崔氏政権の実力者・崔瑀が、モンゴルの騎馬軍が苦手とする海を防壁とすべく都を開京から江華島へ移す決断を下した。この遷都は政権中枢と王室の安全は確保したものの、本土に残された民衆は繰り返しモンゴル軍の侵攻と略奪に晒され続けることになり、江華島の宮廷生活と本土の惨状という深刻な乖離を生んだ。
モンゴルの第2次侵攻軍を、僧兵出身の金允侯が処仁城で迎え撃ち、総司令官サルタイを矢で射殺した。正規軍ではなく僧兵と民衆による城塞防衛戦が遠征軍司令官を討ち取るという稀な戦果であり、指揮官を失ったモンゴル軍はまもなく撤退した。江華島への遷都と並び、高麗が長期抗戦を選択できた背景には、こうした各地での粘り強い抵抗があった。
モンゴルの侵攻軍が慶州まで進出し、新羅の善徳女王が国難退散を祈願して建てた皇龍寺九層木塔をはじめ伽藍の大半を焼き払った。三国統一以前から600年近く新羅・高麗の人々の信仰を集めてきた象徴的建造物の喪失は、モンゴル侵攻がもたらした文化的損失の大きさを最も象徴する出来事であり、この2年後に始まる再雕大蔵経の事業へとつながる危機感を高めることになった。
モンゴルとの徹底抗戦を主張し続けていた4代目の崔氏政権当主・崔竩が、和議を模索する文臣・武臣連合のクーデターにより殺害された。1196年の崔忠献の掌権から62年続いた崔氏政権はここに終わりを告げ、以後の高麗はモンゴルとの講和交渉を本格的に模索する方向へと舵を切っていく。
太子時代から対モンゴル外交を担ってきた元宗が、モンゴルへの服属方針を確定させ、都を江華島から開京へ戻した。30年近く続いた抗戦体制はここに終わりを迎え、以後高麗は元の駙馬国(王族が元の皇女を妃に迎える特別な同盟国)という特殊な地位に置かれることになる。艦船・兵員の提供という形で日本遠征(元寇)にも動員されていく起点でもある。詳細は『モンゴル帝国』タイムラインを参照。
開京還都とモンゴルへの服属決定に反発した崔氏政権の私兵組織・三別抄が、裴仲孫に率いられて新たな王を擁立し珍島に拠点を築いて抵抗を続けた。1271年に珍島が陥落すると金通精が残存勢力を率いて済州島へ移り抗戦を継続したが、1273年に高麗・モンゴル連合軍の総攻撃を受けてついに鎮圧された。国王自らがモンゴルへの服属を選んだ後も、なお抗戦を貫こうとした勢力が存在したことを示す事件である。
モンゴルへの服属後、高麗の一部領域は元の直轄地として切り離された。1258年に設置された双城総管府(咸鏡道)、1270年頃の東寧府(平安道)に加え、1273年の三別抄鎮圧後には済州島に耽羅総管府が置かれ日本遠征の前線基地・軍馬の放牧地として利用された。国土の一部が直接元の統治下に組み込まれるという、属国化のもう一つの現れである。
クビライの日本遠征決定を受け、高麗は900艘の軍船建造という重い負担を課され、疲弊した戦後復興のさなかにあった民衆から工人・木材・食糧までが根こそぎ徴発された。高麗軍1万余りが元軍とともに対馬・壱岐を襲い博多湾に上陸したが暴風雨により撤退した。艦船建造・兵站の実務は洪茶丘ら高麗出身の元朝官人が主導しており、高麗は一方的な被害者であると同時に遠征の実務を担う立場でもあった。日本側の迎撃の詳細は『元寇と鎌倉幕府の滅亡』タイムラインを参照。
元宗の子・忠烈王がクビライの娘を妃に迎えて即位し、以後の高麗王が元から「忠」の字を冠する称号を賜り元の皇女を妃とする慣例が確立した。高麗は元の駙馬国(婿の国)という他の被征服地とは異なる特殊な地位に置かれ、独自の王室・官制を保ったまま元の勢力圏に組み込まれることになる。
南宋征服を終えたクビライが過去最大規模の遠征を計画し、高麗には再び900艘の軍船建造と兵員・食糧の供出が課された。高麗・東路軍は旧南宋水軍による江南軍と博多湾で合流する計画だったが、日本側の防塁に阻まれ長期のにらみ合いとなり、再び暴風雨が艦隊を襲って壊滅的被害を受け撤退した。二度にわたる遠征負担は高麗の国力を大きく消耗させ、以後長く元への従属的地位を固定化する結果となった。
元の皇女を妃に迎える王室を中心に、辮髪や胡服など「蒙古風」と呼ばれる元由来の風俗が高麗の宮廷・上流階級に広まった。一方で高麗の衣服・食文化や高麗女性(貢女として元へ送られた女性たち)を通じた影響は逆に元の宮廷にも「高麗様」として浸透しており、属国化という一方的な関係だけでは語れない双方向の文化交流が同時に進行していた。
元の大都に赴いた安珦が朱熹の著作を書き写して持ち帰り、高麗に性理学(朱子学)を最初に紹介した。それまで高麗の思想的主流は仏教だったが、モンゴルとの通交を通じて宋代に大成された新しい儒学が流入したことは、この後1世紀をかけて高麗の支配層の思想を仏教から儒教へと転換させ、最終的に朝鮮王朝の建国理念にまで至る大きな潮流の起点となった。朱子学そのものの成立過程は『宋』タイムラインを参照。
元が紅巾賊の乱をはじめとする国内の混乱で急速に衰退したのを見極めた恭愍王が、元の内政干渉機関を廃し親元派の権門勢族を粛清する反元改革に踏み切った。1258年以来100年近く元の直轄地だった双城総管府を軍事的に奪回し、東北の失地を回復した。忠烈王以来続いた元への従属体制からの離脱を告げる、高麗末期最大の政治的転換点である。
元で反乱を起こした白蓮教系の紅巾賊が、元軍に敗れて満洲方面へ敗走する中で1359年と1361年の二度にわたり高麗へ侵入した。1361年の侵入では開京が一時陥落し恭愍王自らが南方の福州(現・安東)へ避難する事態となったが、崔瑩・李成桂ら新興の武将たちがこれを撃退し、両者が高麗末期の軍事的主役として台頭する契機となった。
王妃を失い失意にあった恭愍王が、既存の貴族と一切利害関係を持たない僧・辛旽を登用し国政を委ねた。辛旽は田民弁整都監を設置し権門勢族が不法に奪った土地や奴隷にした良民を元の持ち主に返す改革を断行したが、既得権益層の強い反発を招き、最終的に讒言によって失脚し処刑された。恭愍王の改革が既存の権門勢族の壁にどれほど阻まれ続けたかを象徴する挿話である。
14世紀後半、日本の南北朝の動乱による統制の乱れを背景に、対馬・壱岐・北九州を拠点とする倭寇の襲撃が高麗沿岸で激化し、内陸深くまで及ぶこともあった。紅巾賊の侵入と並ぶこの脅威への対応が、崔瑩・李成桂ら新興武将の軍事的名声を高め、やがて高麗の政局そのものを左右する力を彼らに与えることになる。日本側の情勢は『南北朝の動乱』タイムラインを参照。
反元改革を主導した恭愍王が、寵臣によって寝所で暗殺された。辛旽失脚後の恭愍王は改革の推進力を失いつつあったとされ、その死により高麗の政治的求心力はさらに弱まり、以後の高麗は崔瑩・李成桂ら軍事指導者の発言力が増大していく末期の混乱へと突入する。
内陸深くまで侵入した倭寇の大部隊を、老将・崔瑩が鴻山で迎え撃ち大破した。矢傷を負いながらも陣頭で指揮を執り続けたと伝えられるこの勝利は崔瑩の名声を不動のものとし、以後高麗末期の軍事的支柱としての地位を確立させた。
白雲景閑が編んだ仏教入門書『白雲和尚抄録仏祖直指心体要節』が、興徳寺で金属活字を用いて印刷された。1234年の『詳定古今礼文』は記録上これより早い金属活字印刷とされるが現物は残っておらず、実見できる現存する世界最古の金属活字印刷物はこの直指心体要節である。1972年にフランス国立図書館で再発見され2001年にユネスコ「世界の記憶」に登録された。グーテンベルクによる活版印刷の実用化(1450年代)よりおよそ70年早い。
全羅道に上陸し内陸を荒らし回っていた倭寇の主力を、李成桂が荒山で包囲し壊滅させた。少年武将(後世「阿只抜都」の異名で伝わる)に率いられた精鋭部隊を打ち破ったこの勝利により、李成桂は崔瑩と並ぶ高麗最強の武将としての名声を確立し、後の政局における発言力の基盤を築いた。
崔茂宣が開発した火薬・火砲を搭載した高麗艦隊が、鎮浦に停泊していた倭寇の船団を焼き払った。朝鮮半島における火器の実戦初投入であり、剣や弓中心だった従来の対倭寇戦術を一変させる技術的転機となった。荒山大捷と並び、この年の一連の勝利が倭寇の脅威に大きな打撃を与えることになる。
崔瑩の主導で明領となっていた鉄嶺以北の奪回を掲げた遼東出兵が強行されたが、先鋒を任された李成桂は小国が大国に逆らう無謀さなど四不可論を唱えて反対していた。鴨緑江の威化島まで進んだ李成桂は軍を独断で開京へ引き返させ、崔瑩を捕らえて処刑した。この軍事クーデターにより李成桂は事実上の実権を掌握し、4年後の高麗滅亡へ至る道が定まった。
王朝交代(易姓革命)に最後まで反対し高麗王室存続を模索していた鄭夢周が、李成桂の子・李芳遠の指示により開城の善竹橋で暗殺された。「一片丹心」(この身は変わらぬ忠義を貫く、の意)の詩を残したと伝わるこの死により、高麗王室に殉じようとする最後の抵抗の芽は摘み取られ、王朝交代を阻む障害は取り除かれた。
鄭夢周の死からほどなく、李成桂は名目上の王だった恭譲王を廃し自ら王位に就いて国号を「朝鮮」と定めた。918年の王建の建国から474年、936年の後三国統一からは456年続いた高麗はここに滅亡し、性理学を統治理念に掲げる朝鮮王朝の500年余りの歴史が始まる。渤海滅亡(926年)から数えれば北方の脅威と仏教国家の時代が終わり、朝鮮半島史はまったく新しい儒教国家の段階に入ったことになる。