幽王、烽火戯諸侯で信を失う
逸話笑わない褒姒を笑わせようと、幽王は緊急時のみ焚くはずの烽火を偽って上げさせ、慌てて駆けつけた諸侯が空振りに終わる様を見て褒姒を笑わせたと伝わる。度重なる偽の烽火に、諸侯は次第に烽火を信用しなくなっていった。
笑わない褒姒を笑わせようと、幽王は緊急時のみ焚くはずの烽火を偽って上げさせ、慌てて駆けつけた諸侯が空振りに終わる様を見て褒姒を笑わせたと伝わる。度重なる偽の烽火に、諸侯は次第に烽火を信用しなくなっていった。
廃太子の外戚であった申侯が異民族・犬戎を引き入れて鎬京を攻めた際、幽王が本物の烽火を上げても、もはや誰も信じず駆けつけなかった。幽王は驪山のふもとで殺害され、西周は滅亡した。
荒廃した鎬京を放棄した平王は、東の洛邑(現在の洛陽)へ都を遷した。周王朝は「東周」として存続するが、直轄領は大きく削られ権威も低下し、以後は有力諸侯が実力で覇を競う春秋時代へと移っていく。
周王室の卿士を兼ねながらも独自の軍事行動を重ねた鄭荘公は、近隣諸国との抗争を通じて勢力を拡大した。周王をないがしろにするその振る舞いは、後の覇者たちに先立つ「春秋の小覇」と評される。
鄭の増長に危機感を強めた周桓王は諸侯連合を率いて鄭を討とうとするが、繻葛で鄭軍に敗れ、桓王自身も矢を受けて敗走した。周王が諸侯の軍に直接敗れたこの一件は、周王権の軍事的権威が完全に地に落ちたことを天下に示した。
兄弟間の後継争いを制して斉の君主となった桓公は、かつて自分を弓で狙撃した政敵側の家臣・管仲を許して宰相に登用し、以後の覇業の礎を築いた。
若き日から苦楽を共にした鮑叔牙は、私利を求めず友の才を信じ続け、桓公に管仲を強く推挙した。管仲は「我を生む者は父母、我を知る者は鮑子なり」と語ったと伝わり、この厚い友情は「管鮑の交わり」として後世の理想とされた。
「尊王攘夷」(周王を尊び異民族の侵入を防ぐ)を掲げて諸侯を糾合した桓公は、葵丘に諸侯を集めて盟約を結び、天下にその覇権を認めさせた。春秋時代最初の正式な覇者の誕生である。
晩年に佞臣を重用し判断力を失っていた桓公が没すると、複数の公子による後継争いが勃発し、遺体は宮中に放置されたまま長く弔われなかったと伝わる。斉の覇権はここで事実上終わりを告げた。
後継争いを逃れ諸国を放浪すること19年、重耳は秦穆公の支援を得てついに晋へ帰国し、晋文公として即位した。亡命の苦難を共にした家臣たちが、以後の晋の覇業を支える中核となった。
重耳の亡命中、自らの腿の肉を割いて主君に食べさせたとされる介子推は、文公即位後の論功行賞を辞退し母と山に隠棲した。文公が山に火を放って炙り出そうとするも姿を現さず、焼死したと伝わる。この故事が火を断つ「寒食節」の由来とされる。
亡命中に楚で受けた恩義に報いるとして、文公は自ら三日分(三舎)軍を後退させてから決戦に臨み、その上で楚軍を打ち破った。この「退避三舎」の故事は、信義を守りつつ勝利を収めた美談として語り継がれている。
城濮での勝利を受け、文公は践土に諸侯を集めて会盟し、周王からも覇者として承認された。晋はこの後長きにわたり中原の盟主の地位を保つことになる。
中原の覇権争いには加われなかった秦穆公は、代わりに西方の戎族諸部族を服属させ「西方の覇者」と称された。後の戦国時代における秦の台頭の遠い布石となる。
北伐の途上、周の都近くに軍を進めた荘王は、周王権の象徴である九鼎の大きさと重さを周の使者に尋ねた。これは暗に周に取って代わる野心を示したものとされ、周に対する諸侯の畏怖が失われつつある時代の空気を象徴する逸話となった。
内部統制に優れた楚軍が、指揮系統の乱れた晋軍を邲で大破した。この勝利により荘王は中原にも覇を唱え、南方の大国であった楚が名実共に覇者の一角に加わった。
疲弊した晋楚両国の間で、宋を仲介地として最初の停戦協定が結ばれた。長続きはしなかったが、大国同士が直接和議を試みたこと自体が、消耗し尽くした戦争の重さを物語っている。
第一次弭兵の会からわずか数年で協定は破れ、晋楚両軍は鄢陵で再び激突した。晋が勝利するが、両国とも決定的な優位には至らず、消耗戦の様相はさらに深まった。
桓公没後に衰退していた斉で、晏嬰が三代の君主に仕えて国政を支え直した。倹約と機知に富んだ弁舌で知られ、大国・楚に使いした際の当意即妙な受け答え(晏子使楚)は後世まで語り継がれている。
魯の陬邑に孔子が生まれた。仁と礼を核とする教えはやがて儒家として体系化され、東アジア全域の思想・政治・教育に2000年以上にわたり影響を与え続けることになる。
宋の大夫・向戌の奔走により、晋楚を中心とする14か国が宋に集まり停戦協定を結んだ。以後、両大国の全面衝突は長らく起こらず、中原諸国は束の間の小康状態を得た。
小国・鄭の宰相・子産は、刑罰の内容を青銅の鼎に鋳込んで公開する「刑書」を制定した。身分の上下に関わらず適用される法を明文化したこの試みは、中国最初期の成文法として画期的なものであった。
礼を学ぶため周を訪れた若き孔子が、周の書庫の役人であったとされる老子に教えを請うたという逸話が『史記』などに記されている。二人の思想家がまみえたこの伝説は、儒家と道家という後の二大思想潮流の出会いとして象徴的に語られてきた。
父と兄を楚の平王に殺された伍子胥は、一夜にして髪が白くなったと伝わるほどの苦難の末に呉へ亡命した。この亡命者が、やがて呉を楚への復讐の舞台へと導いていく。
公子光は刺客・専諸に命じ、魚の腹に短剣を隠して宴席で呉王僚を暗殺させた(魚腸剣の故事)。専諸自身もその場で討たれたが、この暗殺により公子光は呉王闔閭として即位した。
闔閭に「孫子の兵法」を献じた孫武は、宮女を使った模擬訓練で軍令の厳格さを実演するため王の寵姫を斬首し、以後呉軍を精強な軍隊へと鍛え上げた。伍子胥と共に呉の軍事力を飛躍的に高めた。
孫武の指揮のもと楚に大勝した呉軍は、楚の都・郢を陥落させた。既に死去していた仇敵・平王の墓を暴いた伍子胥は、その屍に三百回鞭打って積年の恨みを晴らしたと伝わる(鞭尸三百)。
楚討伐で勢いに乗る呉は南の越とも衝突するようになった。闔閭は越王勾践との戦いで負傷し、その傷がもとで没した。臨終に際し子の夫差へ復讐を遺言したと伝わる。
「臥薪」して復讐を誓った夫差は越に大勝し、勾践を会稽山に追い詰めた。伍子胥は勾践を殺すよう進言するが、夫差はこれを退けて臣従を認め、勾践の命を助けた。この温情が後に呉の命取りとなる。
屈辱的な臣従の末に帰国を許された勾践は、苦い肝を嘗めて会稽の恥を忘れぬようにしたと伝わる(嘗胆)。范蠡・文種の補佐のもと、表向きは呉に恭順しながら国力を密かに蓄えていった。
范蠡の献策により、絶世の美女・西施が夫差のもとへ送られた。夫差は西施に溺れて政務を怠るようになったと伝わり、呉の国力はじわじわと消耗していった。
越の危険性を繰り返し説き続けた伍子胥は、佞臣の讒言もあって夫差に疎まれるようになり、ついに自害を命じられた。伍子胥は自らの目をくり抜いて城門に懸け、呉が滅びる様を見届けさせよと言い残したと伝わる。
20年近い雌伏を経て国力を蓄えた越は、ついに呉へ攻め入りこれを滅ぼした。夫差は和睦を請うが勾践に拒まれ、自害した。会稽の恥は完全にすすがれ、勾践は一時的に中原にまでその威を及ぼした。
呉滅亡の功労者でありながら、范蠡は「勾践とは苦難を共にできても栄華は共にできない」と見抜き、財産を捨てて越を去った。斉に移り商才を発揮して巨万の富を築き「陶朱公」と称され、功成り身退くの理想像として語り継がれる。
范蠡の忠告を聞き入れず越に留まった文種は、范蠡が去り際に残した「狡兎死して走狗烹らる」(用済みになった功臣は捨てられる)という警句の通り、勾践から謀反を疑われ自害を命じられた。
魯での理想の政治の実現に見切りをつけた孔子は、弟子たちを伴い自らの教えを用いてくれる君主を求めて諸国を巡る長い旅に出た。しかし14年におよぶ周遊の間、その理想を全面的に採用する君主にはついに出会えなかった。
晋の実権を分有していた六卿(范・中行・智・韓・魏・趙)のうち、趙鞅(趙簡子)らの攻勢により范氏・中行氏が没落し追放された。晋の実権は智・韓・魏・趙の四家に絞られ、後の三家分晋(戦国時代の開幕)へとつながる権力集中が進んだ。
諸国周遊を切り上げて魯へ帰った孔子は、以後政治への関与よりも弟子の教育と古典の整理・編纂に力を注いだ。その言行は没後、弟子たちの手によって『論語』としてまとめられ、後世に絶大な影響を残すことになる。
73歳で世を去った孔子の教えは、当代においては用いられることが少なかったが、弟子たちを通じて受け継がれ、後の時代に儒家として大きく花開いていくことになる。
春秋時代末期の周王・敬王が崩御した。司馬遷『史記』六国年表はこの年の翌年(BC475年)を戦国時代の起点とする。晋の実質的な分裂(晋陽の戦い、BC453年)は目前に迫っており、覇者たちが会盟に諸侯を集めた春秋の時代は、七雄が王を僭称し合従連衡に明け暮れる戦国の時代へと移り変わろうとしていた。
范氏・中行氏の没落後、四家の中で最も強大となった智伯は、韓・魏・趙の三家に対し次々と土地の割譲を要求するなど専横を強めていった。趙氏がこれを拒んだことが、後の晋陽の戦い(三家分晋)の導火線となる。この決定的な衝突は『戦国七雄』タイムラインの開幕として描かれる。