楊堅、隋を建国
政変北周の外戚として実権を握っていた楊堅は、幼帝から禅譲を受けて自ら皇帝に即位し、隋を建国した。関隴集団と呼ばれる北朝以来の軍事貴族層の支持を背景にした政権であり、後の唐もこの同じ支配層から生まれることになる。
北周の外戚として実権を握っていた楊堅は、幼帝から禅譲を受けて自ら皇帝に即位し、隋を建国した。関隴集団と呼ばれる北朝以来の軍事貴族層の支持を背景にした政権であり、後の唐もこの同じ支配層から生まれることになる。
文帝は、家柄によらず試験の成績で官僚を選抜する科挙の初期形態を設けた。より体系化された制度として整うのは煬帝の治世(606年頃)とする見方もあり、正確な創始年には諸説あるが、いずれにせよ以後1300年にわたり中国(そして日本を含む周辺国の一部)の官僚登用の根幹をなす制度がここに始まった。
隋の大軍が長江を渡り、南朝最後の王朝である陳の都・建康を陥落させた。西晋末の混乱以来約270年にわたり分裂していた中国は、ここに再び統一された。皇帝・陳叔宝は井戸に隠れていたところを発見され、捕らえられて長安に連行された。
文帝は宰相・高熲らと共に、均田制による土地の再分配、三省六部制の原型となる中央官制、州県制による地方統治の整備を進めた。戦乱で疲弊した中国を短期間で立て直したこの治世は「開皇の治」と呼ばれ、隋・唐を通じた律令制国家の基礎を築いた。
文帝が仁寿宮で崩御し、皇太子の楊広が即位して煬帝となった。文帝の死の直前、寵姫への無礼を咎められて廃太子の危機にあった楊広が父を殺害したのではないかとする説が古くから根強く語られているが、確たる証拠はなく史実として確定してはいない。
煬帝は即位直後から、黄河と長江を結ぶ大運河の建設に着手した。数百万人規模ともいわれる農民が徴発され、多くの死者を出す過酷な大事業であったが、南北の物流を一体化させたこの運河は完成後の中国経済に千年以上にわたる恩恵をもたらすことになる。
倭国の使者・小野妹子が、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」で始まる国書を携えて隋の朝廷を訪れた。中華皇帝に臣従しない対等な立場を示すこの文言に煬帝は不快感を示したと伝わるが、それでも国交自体は結ばれ、翌年には隋の使者・裴世清が答礼として倭国へ派遣された。
煬帝は113万と号する空前の大軍を動員して高句麗に侵攻したが、平壌への別動隊は高句麗の将軍・乙支文徳の巧みな誘導と伏兵によって薩水で壊滅した。国力を総動員した遠征の大失敗は隋の権威を大きく傷つけることになった。
煬帝はなおも高句麗遠征を諦めず、613年・614年と再度の遠征を強行した。しかし国内では重臣の反乱(楊玄感の乱)が起き遠征軍を撤退させざるを得なくなるなど、いずれも決定的な成果を得られないまま終わった。3度にわたる遠征の失敗は、隋の急速な求心力低下を決定づけた。
度重なる遠征と大運河建設による過重な負担に耐えかねた民衆の不満が各地で爆発し、瓦崗軍をはじめとする大小の反乱勢力が中国全土に群雄割拠する事態となった。隋の統治機構は急速に地方への統制力を失っていった。
隋の太原留守(地方長官)であった李淵は、混迷を深める情勢を見て挙兵し、次男の李世民らと共に長安を目指して進軍した。関隴集団の名門という自身の出自を背景に諸勢力の支持を集め、短期間で長安を制圧することに成功した。
長安が李淵の手に落ちる中、煬帝は江都(現・揚州)に留まり続けていたが、帰郷を望む近衛軍の不満が爆発し、将軍・宇文化及の主導するクーデターにより殺害された。大事業と遠征に明け暮れた皇帝の非業の死をもって、隋は事実上滅亡した。
煬帝の死を受け、李淵は隋の恭帝から禅譲を受ける形で皇帝に即位し、唐を建国した。国号「唐」は李淵が隋から与えられていた爵位「唐国公」に由来する。以後289年続くことになる王朝がここに始まった。
唐建国の軍事的功労者でありながら次男であるがゆえに皇太子になれなかった李世民は、皇太子・李建成と四男・李元吉が自分の排除を画策していると知り、先手を打って長安宮城の玄武門で両者を待ち伏せて殺害した。兄弟殺しという非情な手段による権力掌握であった。
玄武門の変の直後、李淵は李世民を皇太子とし、まもなく譲位した。李世民は太宗として即位し、父・李淵は上皇として実権を失う形で余生を送ることになった。
建国間もない唐は国境の不安定さを理由に民間人の出国を厳しく禁じていたが、漢訳仏典の内容に不備・矛盾を感じていた玄奘は、この禁を犯して単身ひそかに長安を発ち、西域を経てインドを目指した。
倭国は犬上御田鍬を正使とする使節団を初めて唐に派遣した。遣隋使に続く公式外交の再開であり、以後894年の停止までおよそ260年にわたり、断続的に十数回派遣される遣唐使の歴史がここに始まった。
内紛と天候不順で弱体化していた東突厥に対し、唐は李靖らの軍を派遣してこれを撃破し、可汗の頡利可汗を捕らえた。この勝利により東突厥は唐に服属し、周辺諸民族の首長たちは太宗に「天可汗」の称号を奉り、唐は北方の脅威から一時的に解放された。
太宗は魏徴をはじめとする諫言をいとわない臣下を重用し、その意見に耳を傾けて自らを律する統治を心がけた。倹約に努め税負担を軽くする一方、律令制度の整備と対外的な安定を両立させたこの治世は「貞観の治」と呼ばれ、後世の中国の理想的な統治として長く語り継がれることになる。
太宗の治世下で、隋の開皇律令を土台とした貞観律令が完成した。この体系は後の永徽律令にも受け継がれ、律令制国家の模範として東アジア各地に広まっていく。日本で701年に制定される大宝律令も、この唐の律令体系を範として作られたものである。
16年に及ぶインド・中央アジアでの遊学を終えた玄奘は、657部という膨大な量のサンスクリット原典を携えて長安に帰還した。かつて出国を禁じた太宗は一転してこれを盛大に歓迎し、以後の訳経事業への全面的な支援を約束した。
玄奘は太宗の勅命を受け、旅の記録を『大唐西域記』12巻にまとめた。訪れた中央アジア・インド各地の政治・地理・風俗を克明に記したこの書は、後世のインド史研究において、文字史料に乏しいグプタ朝滅亡後の混乱期の様子を伝える一次史料として不可欠のものとなる。
太宗の後を継ぐことになる皇太子・李治(高宗)の発願により大慈恩寺が建立され、玄奘はここを拠点に持ち帰った経典の翻訳に生涯を捧げた。従来の訳語の不統一を正す厳密な翻訳手法(新訳)を確立し、法相宗の開祖として東アジア仏教に大きな影響を残した。
「貞観の治」を築いた太宗が52歳で崩御した。晩年は高句麗遠征に固執するなど父・煬帝と同じ轍を踏みかけた面もあったが、総じて後世の皇帝たちが範とすべき名君として評価される治世を残し、皇太子の李治(高宗)が跡を継いだ。
太宗の九男・李治が即位し高宗となった。兄たちが後継者争いで次々と脱落する中、争いに巻き込まれにくい温厚な人柄を評価されて漁夫の利で皇太子に選ばれた経緯を持つ。
もと太宗の後宮にいた武則天は、太宗の死後に高宗の寵愛を受けて後宮に戻り、既存の王皇后を廃してその座に就いた。以後、病がちな高宗に代わって次第に政務に関与するようになり、唐の実権を握っていく出発点となった。
唐・新羅の連合軍が百済に侵攻し、都・泗沘を陥落させて義慈王を降伏させた。百済は滅亡したが、鬼室福信ら遺臣は各地で抵抗を続け、同盟関係にあった倭国に援軍を要請することになる。
百済復興を目指す遺臣と、これを支援する倭国の水軍が、唐の将軍・劉仁軌率いる唐・新羅連合の水軍と白村江で激突した。四度の海戦すべてで劉仁軌が勝利を収め、倭国の船団は壊滅した。この結果、百済復興運動は完全に潰え、東アジアの国際秩序における唐の優位が決定づけられた。
実力者・泉蓋蘇文の死後に内紛で弱体化した高句麗に対し、唐・新羅連合軍が攻勢をかけ、都・平壌を陥落させた。隋の煬帝以来3代の皇帝が失敗し続けた高句麗征服が、ついに成し遂げられた瞬間であった。唐はこの地に安東都護府を設置し、版図は最大に達する。
百済・高句麗を相次いで滅ぼし、唐の版図を最大に広げた高宗が崩御した。晩年は武則天がほぼ全面的に政務を代行しており、その死は形式上の皇位継承にとどまらず、武則天による実質的な独裁体制への移行を決定づけるものとなった。
武則天は自ら皇帝の位に就き、国号を「周」と改めた。中国史上唯一の女帝の誕生である。実質的には唐の統治機構をほぼそのまま継承した治世であり、後世の史家も多くはこれを唐の一時的な中断とみなし、独立した王朝として数えないのが通例となっている。
老齢と病により求心力を失った武則天に対し、宰相の張柬之らがクーデターを起こして退位を迫った。皇太子であった中宗(李顕)が復位し、国号は「唐」に戻された。武則天はその年のうちに没し、その特異な治世に幕が下りた。
武則天の死後も続いた宮廷の混乱を収拾したクーデターの末、李隆基が即位して玄宗となった。以後44年に及ぶその治世は、前半の「開元の治」と後半の安史の乱という、対照的な二つの顔を持つことになる。
倭国からの遣唐使船で、阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉ら多くの留学生・学問僧が入唐した。中でも阿倍仲麻呂は科挙に合格して唐の官人となり長く玄宗に仕え、吉備真備・玄昉は17年に及ぶ滞在で膨大な学問を吸収して帰国するなど、盛唐の文物が最も濃密に日本へ流れ込んだ遣唐使の一つとなった。
玄宗は姚崇・宋璟ら実務能力に長けた宰相を相次いで登用し、行政の引き締めと経済の立て直しを進めた。人口・生産力とも隋唐を通じて最高水準に達したこの治世は「開元の治」と呼ばれ、盛唐の絶頂期として後世に理想化されることになる。
人口100万を超えたとされる盛唐の長安には、シルクロードを通じて中央アジア・西アジアの商人や使節が集まり、景教(ネストリウス派キリスト教)・マニ教・祆教(ゾロアスター教)といった様々な宗教の寺院が建ち並んだ。仏教・道教・儒教に加えてこれらの異国の信仰が共存する、当時の世界でも屈指の国際都市であった。
各地を放浪していた詩人・李白は、玄宗に召されて翰林供奉(皇帝側近の文人)となり長安に迎えられた。しかし宮廷の作法や権力者への追従を嫌う奔放な性格は長くは続かず、まもなく都を去って再び漂泊の詩人として生きることになる。
玄宗は息子の妃であった楊玉環を還俗させて自らの貴妃に迎え、以後政務を顧みないほどの寵愛を注ぐようになった。楊貴妃の一族も次々と要職に取り立てられ、これが後の安史の乱の一因ともなっていく。
巧みな追従で玄宗と楊貴妃一族の信任を勝ち得た安禄山は、平盧・范陽・河東の三節度使を兼任するに至った。これは唐の総兵力のかなりの部分を一人の将軍が握ることを意味し、後の反乱を可能にする軍事的基盤がここに整えられた。
中央アジアの覇権をめぐり、唐の安西節度使・高仙芝の軍とアッバース朝の軍が激突した。当初は互角の戦いであったが、唐側に従軍していた突厥系のカルルク族が離反してアッバース朝側に寝返り、唐軍は壊滅的な敗北を喫した。以後、唐の中央アジアにおける影響力は急速に後退していく。
同じ年、揚州の高僧・鑑真は5度の失敗と失明という苦難の末、6度目の航海でついに日本への渡航を果たした。一方、帰国船に乗り込んでいた阿倍仲麻呂の船は嵐で流されて安南(現・ベトナム)に漂着し、日本には戻れなかった。長安に残った友人の李白は誤って伝わった仲麻呂遭難死の報に接し、その死を悼む詩を詠んだ。
安禄山は「楊国忠(楊貴妃の従兄)を討つ」ことを名目に范陽で挙兵し、国号を「燕」と称した。15万ともいわれる精鋭部隊は南下を続け、瞬く間に河北・河南を席巻していった。
潼関の防衛線が突破されると、玄宗は長安を放棄して四川方面への逃避行を余儀なくされた。かつて「開元の治」を築いた皇帝が自ら都を捨てて逃げるという事態は、唐の朝廷と民衆に大きな衝撃を与えた。
都落ちする一行が馬嵬駅に至ったところで、随行の兵士たちが反乱の責任を問い、楊貴妃の一族の処刑と楊貴妃自身の死を要求した。玄宗はこれを拒みきれず、楊貴妃は絹の布で絞め殺された。この悲劇は白居易の長詩『長恨歌』によって後世不朽の物語となる。
玄宗一行と別れて北方の霊武に至った皇太子・李亨は、そこで独自に皇帝への即位を宣言し粛宗となった。蜀に逃れた玄宗は追認する形で上皇となり、乱に対する軍事指揮権は事実上粛宗のもとに一本化された。
晩年は病により視力を失い気性も荒れていた安禄山は、側近と自らの子・安慶緒によって寝室で殺害された。反乱の首謀者は志半ばで内輪の権力争いに斃れたが、乱そのものは史思明らに引き継がれ、なお6年にわたり続くことになる。
朔方節度使・郭子儀は、同盟した回鶻の騎兵の助けを借りて反乱軍を破り、長安と洛陽を相次いで奪還した。この功績により郭子儀は乱の鎮圧における最大の功労者としての名声を確立した。
一時唐に帰順していた史思明は再び離反し、自ら「燕」の皇帝を称して乱を継続させた。洛陽を再度奪うなど勢いを盛り返し、鎮圧されたかに見えた反乱は新たな局面を迎えることになった。
父・史思明を殺してその地位を奪った史朝義であったが、唐・回鶻連合軍の攻勢の前に次第に追い詰められ、頼みとした部下にも見放されて自害した。755年の挙兵から8年、唐の人口を激減させたとも言われる大乱がようやく終結した。ただし乱を通じて力をつけた各地の節度使は独立性を保ったままとなり、唐は以後も長く分権的な統治を強いられることになる。
安史の乱で唐が西方の守備兵力を東方へ引き上げた隙を突き、吐蕃は長安に侵攻してこれを一時占領した。唐はわずか半月ほどで長安を奪還したものの、かつて周辺諸国から恐れられた唐の権威が大きく揺らいだことを象徴する事件であった。
安史の乱の平定後も、乱の鎮圧に功のあった節度使や、唐に帰順した旧反乱軍の将たちの多くが、それぞれの管轄地域(藩鎮)で軍事・財政の実権を握り続けた。中央政府はこれを完全に統制することができず、名目上は唐の支配下にありながら実質的には半独立の地方政権が各地に並び立つ状態が、以後の唐の基本構造として定着していく。
宰相・楊炎の建議により、土地と資産の多寡に応じて夏・秋の二回に分けて課税する両税法が施行された。均田制の崩壊で機能しなくなっていた従来の租庸調制に代わるこの新税制は、以後の中国の税制の基本枠組みとして長く受け継がれていくことになる。
科挙出身の官僚を中心とする牛僧孺派と、名門貴族出身の李徳裕派の対立が朝廷を二分する党争へと発展した。両派は皇帝の代替わりのたびに互いを失脚させ合い、この不毛な政争は40年近くにわたり続いて、唐後期の中央政界の機能不全を象徴する出来事となった。
道教を篤く信仰した武宗は、財政負担となっていた仏教寺院の大規模な破却と、20万人を超える僧尼の強制的な還俗を命じた。この弾圧は仏教だけでなく、景教・マニ教・祆教といった長安で栄えていた外来宗教にも及び、国際都市長安の宗教的な多様性に大きな打撃を与えた。
相次ぐ飢饉と重税に苦しむ農民の不満を背景に、黄巣が挙兵した。反乱軍は華北から江南、さらには広州にまで転戦する空前の規模に膨れ上がり、藩鎮の兵力をもってしても抑えきれない大乱となっていった。
黄巣の軍勢は長安を陥落させ、皇帝は蜀へ逃れた。黄巣は自ら「大斉」の皇帝に即位したが、長安の統治は安定せず、各地の藩鎮軍による包囲網が徐々に形成されていった。
黄巣配下の武将であった朱全忠は、劣勢を悟ると唐側に寝返り、その武功で節度使に取り立てられた。以後、黄巣の乱鎮圧の主力として台頭し、乱の平定後には唐の朝廷を左右する最大の実力者へと成長していく。
遣唐大使に任じられた日本の菅原道真は、黄巣の乱を経てなお混乱が続く唐の内情と航海の危険を理由に、派遣の中止を建議した。これにより200年以上続いた遣唐使は実質的に廃止された。唐がもはや模範とすべき安定した帝国ではなくなったことを、日本側が自ら見限った出来事でもあった。
黄巣の乱鎮圧で最大の勢力を築いた朱全忠は、宦官勢力を一掃し、他の有力節度使を圧迫して唐の朝廷を完全に自らの傀儡とした。皇帝はもはや名目だけの存在となり、王朝の終焉は時間の問題となっていた。
朱全忠は最後の皇帝・哀帝から禅譲を受け、自ら皇帝に即位して後梁を建国した。618年の建国以来289年続いた唐はここに滅亡し、中国は五代十国と呼ばれる約半世紀にわたる分裂と抗争の時代に突入することになる。