三家分晋(知伯の滅亡)
政治・外交晋の権臣・知伯が趙を攻めた際、趙の趙襄子が韓・魏を誘って知伯を滅ぼした(晋陽の戦い)。晋の領土は韓・趙・魏の三家に分割され、BC403年に周王室が正式に三家を諸侯と認めた。これが戦国時代の始まりとされる。
晋の権臣・知伯が趙を攻めた際、趙の趙襄子が韓・魏を誘って知伯を滅ぼした(晋陽の戦い)。晋の領土は韓・趙・魏の三家に分割され、BC403年に周王室が正式に三家を諸侯と認めた。これが戦国時代の始まりとされる。
魏の文侯は李悝を登用し、中国初の成文法典「法経」に基づく法治改革を断行した。土地改革・穀物平準法で農業を振興し、呉起を西河の守将、西門豹を鄴の長官に任命。魏は戦国初期の最強国となった。
鄴に赴任した西門豹は「河伯の嫁」の人身御供の悪習を発見。祭りの日に「花嫁が美しくない。巫女が河伯に報告してこい」と巫女を河に投げ込み、次々と関係者を投げ込む素振りを見せて悪習を根絶した。さらに12本の灌漑用水路を建設し農業を振興させた。
呉起は西河の守将として秦の侵攻を完全に封じ、逆に秦の領土を奪った。陰晋の戦いでは5万の精鋭で50万の秦軍を撃破したと伝わる。兵士の膿を吸い士気を高める一方、厳格な訓練で魏の武卒を戦国最強の歩兵に育てた。
秦の孝公が商鞅を丞相に登用し法治改革を断行。「南門の木」で信用を確立した後、什伍連座制・軍功爵制・井田制廃止・度量衡統一などを実施。旧貴族の特権を剥奪して能力主義を徹底した。秦は「虎狼の国」と恐れられる軍事強国に変貌。
秦孝公の死後、太子時代に師を罰されたことを恨む恵文王が即位。商鞅は反逆罪で追われたが、自らが制定した法により宿屋に泊まることもできず(身分証明がなければ宿泊不可)、魏にも拒絶され捕縛。車裂きの刑に処されたが、彼の法制度は秦で永続的に維持された。
魏の龐涓が趙の邯鄲を包囲。斉の孫臏は趙を直接救わず魏の首都・大梁を攻撃した(囲魏救趙=魏を囲んで趙を救う)。慌てて引き返す魏軍を桂陵で待ち伏せして大破。間接的アプローチの古典的名例。
即位後9年間放蕩に耽っていた斉の威王に、周の荘王の故事を引用して臣下が問うた。「国に大鳥がいて三年鳴かず飛ばず。何の鳥か?」。威王は答えた。「鳴かずんば已まん、鳴けば天を驚かさん。飛ばずんば已まん、飛べば天に沖(のぼ)らん」。以後、改革に邁進した。
斉が魏を再び破った決定的な戦い。孫臏は「減竈の計」——竈(かまど)の数を日ごとに減らして斉軍が逃亡・弱体化しているように見せかけた。追撃する龐涓を馬陵の谷に誘い込み、木に「龐涓この樹の下に死す」と刻み、龐涓がこれを松明で読んだ瞬間に万矢が斉射された。龐涓は「遂にこの小僧の名を成さしめたか」と嘆いて自決。
蘇秦は六国(斉・楚・燕・趙・魏・韓)を南北に結ぶ「合従」の同盟を説き、六国の宰相を兼任した。「秦は一国、六国が力を合わせれば十倍の兵力」と説得。一時的に秦の拡張を阻止したが、各国の利害不一致により長続きしなかった。
張儀は秦の恵文王に仕え「連衡」策を展開。楚の懐王に「商於の地600里を割譲する」と約束して斉との同盟を破棄させたが、実際は「6里の間違い」と嘯いた。激怒した懐王は秦を攻めるが丹陽で大敗し、8万の兵と漢中の地を失った。
秦の昭襄王に招かれた孟嘗君は監禁されかける。食客の中にいた「犬のように忍び込む男」が昭襄王の愛妾に贈った狐白裘を盗み返し、愛妾に頼んで釈放令を得た。しかし函谷関は夜明けまで開かない。「鶏の鳴き真似ができる男」が一番鶏の声を真似て関門を開けさせ、間一髪で脱出した。
秦の昭襄王は楚の懐王を武関の会盟に招き、到着するとそのまま監禁した。秦は懐王に領土割譲を要求したが懐王は拒否。脱走を試みて趙に逃れるが趙に拒絶され、魏にも拒絶されて秦に連れ戻された。BC296年、秦の地で憤死。楚国人は深く哀れんだ。
趙の武霊王は北方遊牧民の短衣・ズボン・騎馬弓射の戦術を導入する「胡服騎射」の改革を断行した。「胡人の衣を着るなど蛮族だ」と反対する保守派の公子成を説得し、戦車中心の軍を騎兵中心に変革。中山国を滅ぼし、北方の林胡・楼煩を服属させて版図を大幅に拡大した。
武霊王は後継者問題で致命的な過ちを犯した。長男の章を廃して次男の何(恵文王)を太子としたが、後に章にも王号を与えようとした。内乱が勃発し、章は殺され、武霊王は沙丘宮に幽閉されて三か月間食事を与えられず餓死した。改革の英雄の凄惨な最期。
秦の白起が楚の首都・郢を陥落させた知らせを聞いた屈原は、石を抱いて汨羅江に身を投じた。「挙世皆濁れり、我独り清し。衆人皆酔えり、我独り醒めたり」——漁夫に「なぜ世に合わせないのか」と問われて答えた言葉は絶唱。享年62歳前後。
白起の名を天下に知らしめた一戦。韓・魏の連合軍24万に対し、白起は韓軍を先に撃破してから魏軍に転じる各個撃破の策をとり、24万を壊滅させた。この戦いで白起は左庶長から一気に国尉に昇進した。
秦の昭襄王が趙の至宝「和氏の璧」を15城と交換すると申し出た。藺相如は璧を持って秦に赴き、秦に誠意がないと見るや「璧と共に私の頭を柱に打ちつける」と脅して交換を阻止。巧みに璧を先に趙へ送り返し、自らは死を覚悟で秦に残ったが、秦王も藺相如の胆力に感服して帰国を許した。「完璧」の語源。
白起は楚の軍事拠点・鄢を水攻めにし、数十万の楚兵と市民を溺死させた。続いて楚の首都・郢を陥落させ、楚王の祖廟を焼いた。楚はこれ以降二度と東方の大国に復帰できなかった。屈原はこの報を受けて汨羅江に身を投じた。
藺相如が上卿に昇進すると、歴戦の将軍・廉頗は「文官が武将の上に立つとは」と憤り、藺相如を見かけると退路を避けた。藺相如は「秦が趙を攻めないのは我ら二人がいるからだ。私事で国を危うくできない」と語った。これを知った廉頗は荊を背負い(負荊請罪)自ら謝罪に赴き、二人は「首を刎ねても裏切らぬ」刎頸の交わりを結んだ。
戦国最大の惨劇。趙の廉頗が堅守持久で秦軍を封じていたが、秦は離間の計で「秦が恐れるのは趙括だけ」と流布し、趙王は廉頗を解任して経験不足の趙括を起用。白起は偽退却で趙軍を誘い出し、別動隊で補給線を断って46日間包囲。飢餓に苦しむ趙括が突破を試みて戦死し、降伏した40万の趙兵は全員坑殺(生き埋め)にされた。
長平の大勝後、白起は趙の首都・邯鄲攻めを主張したが范雎が妨害して延期。後に邯鄲攻めが失敗すると昭襄王は白起に出征を命じたが、白起は「時機を逸した」と拒否。激怒した昭襄王は白起を庶民に落として追放し、途中で自害を命じた。白起は「長平で罪なき40万を殺した。死んで当然だ」と剣で自刎した。
燕の昭王は楽毅を上将軍として五国連合軍(燕・秦・趙・韓・魏)を率いて斉を攻撃。斉の湣王の暴政で人心が離れていた斉軍は総崩れとなり、楽毅は半年で70余城を陥落させた。残るは即墨と莒の二城のみ。しかし昭王の死後、恵王に猜疑されて趙に亡命。
楽毅の更迭後、即墨の田単は反攻を開始。離間の計で燕の将軍を猜疑させ、夜間に1000頭の牛の角に刃を結び尾に火をつけて突撃させた(火牛の計)。燕軍は大混乱に陥り、田単は一気に70余城を奪回して斉を復興させた。しかし斉は二度と戦国の強国には戻れなかった。
長平の敗戦後、秦は趙の首都・邯鄲を包囲。平原君は楚に救援を求め(毛遂自薦)、信陵君は兵符を盗んで魏軍10万を率いて趙を救った。門番の侯嬴の策で将軍・晋鄙を殺害し軍を奪取。秦軍を撃退して邯鄲を救ったが、信陵君は兄の魏王を恐れて趙に留まった。
邯鄲包囲の中、平原君は楚に援軍を求める使者20人を選ぼうとした。食客の毛遂が自薦するが平原君は「才能ある者は嚢中の錐のように自然に出る」と疑問視。毛遂は「嚢中に入れてもらえなかっただけ」と反論して同行。楚王の前で剣を握りしめて説得し、楚趙同盟を成立させた。
大商人・呂不韋は趙に人質として送られていた秦の王子・子楚(異人)を見て「奇貨居くべし(珍しい品は買い置きすべきだ)」と考えた。子楚に投資し、華陽夫人への養子入りを画策して秦の王位継承者にまで押し上げた。子楚は荘襄王として即位し、呂不韋は丞相の座を得た。
呂不韋は食客3000人を動員して百科全書的著作「呂氏春秋」を編纂。完成すると咸陽の城門に掲げ「一字でも増減できる者には千金を与える」と告示した。これが「一字千金」の故事。しかし嬴政の親政により呂不韋は失脚し、蜀に流された末に毒を飲んで自殺した。
22歳の嬴政が冠礼(成人式)を行い親政を宣言。偽宦官・嫪毐は太后の権威を背景に反乱を起こすが鎮圧され車裂きの刑に処された。太后は幽閉され、嫪毐事件に連座して呂不韋も丞相を罷免された。嬴政は以後、李斯を重用して天下統一への歩みを加速させる。
嬴政は韓非子の著作を読んで「この著者に会えれば死んでもよい」と感嘆した。韓の使者として秦を訪れた韓非子を引き留めようとしたが、同門の李斯は「韓非は結局韓のために働く」と讒言。韓非子は投獄され、李斯が送った毒薬を飲んで死んだ。嬴政は後悔したが間に合わなかった。
嬴政は李斯の戦略に基づき、最も弱い韓から攻略を開始。内史騰が韓王安を捕虜にし、韓は戦国七雄で最初に滅亡した。秦の統一戦争の幕が上がった。
秦は趙の名将・李牧を離間の計で排除。趙王は李牧を解任して処刑した。「李牧死して趙社稷亡ぶ」の言葉通り、李牧を失った趙はわずか数か月で首都・邯鄲を陥落させられ滅亡した。趙の公子・嘉は代で抵抗を続けたが翌年滅んだ。
燕の太子丹は刺客・荊軻を派遣。樊於期は自ら首を差し出し、荊軻は督亢の地図に匕首を隠して秦の宮廷に潜入。地図を広げると匕首が現れ嬴政に斬りかかったが、袖を掴まれた嬴政は衣を裂いて柱の周りを逃げ回り、侍医が薬嚢を投げて時間を稼ぎ、ついに嬴政が長剣を抜いて荊軻を斬った。荊軻は柱に倚りかかり「活かして脅迫しようとしたが失敗した」と笑って死んだ。
秦の王賁(王翦の子)は魏の首都・大梁を黄河の水で水攻めにした。三ヶ月の浸水で城壁が崩壊し魏王は降伏。戦国初期に覇権を握った魏は最期まで水に沈んで滅亡した。
嬴政は最初、若将軍・李信に20万で楚を攻めさせたが項燕に大敗。王翦は「楚を破るには60万が必要」と主張し、嬴政が謝罪して再度命じた。王翦は60万で出征し、一年間動かず楚軍の疲弊を待ってから一気に攻め、項燕を討ち楚を滅ぼした。
荊軻の暗殺未遂後、激怒した嬴政は燕への侵攻を加速。燕王喜は太子丹の首を差し出して和を請うたが許されず、遼東に逃れるも追撃されて捕縛。燕は滅亡した。
韓(BC230)→趙(BC228)→魏(BC225)→楚(BC223)→燕(BC222)と次々に滅ぼし、最後の斉はほぼ無抵抗で降伏。BC221年、嬴政は「皇帝」の称号を創設し始皇帝を名乗った。約250年続いた戦国時代が幕を閉じた。
戦国時代、墨子は「兼愛」(無差別の愛)と「非攻」(侵略戦争の否定)を説いて反戦思想を広めた。楚が宋を攻めようとした際、墨子は自ら出向いて公輸盤と模擬攻城戦を行い、全ての攻撃手段を破って楚の侵攻を止めたと伝わる。
斉の都・臨淄の稷門の下に設けられた「稷下学宮」は戦国時代最大の学術機関。儒家・道家・法家・名家・陰陽家・縦横家など百家の学者が自由に議論し、中国思想史の黄金時代「百家争鳴」が花開いた。孟子・荀子・鄒衍ら多くの思想家がここで活動した。
BC221年、嬴政は「三皇五帝を超える」として「皇帝」の称号を創設し始皇帝を名乗った。郡県制を全国に施行し、度量衡・文字・通貨・車軌を統一。馳道(高速道路)を建設し、蒙恬に万里の長城を連結させ、北の匈奴を駆逐した。中国は初めて一つの帝国として統合された。しかし焚書坑儒・阿房宮建設・始皇帝陵建設などの圧政により民衆の不満は高まり、BC210年の始皇帝崩御からわずか3年で秦は滅亡する。